このブログも考えながら書いているために、一昨日の記事では私が考えたことが十分に表現できていませんでした。
今回はできるだけ寄り道を避けて書いていきたいと思っております。
ローマの戦いにおいて、ローマ兵は軍律が厳しくて有名でした。
しかし、大都市を陥落させた後などには、軍司令官の略奪解禁令が出るのです。
「これから三日間略奪自由」というお墨付きです。つまりこれが戦いにおける兵士のボーナスとなるのです。
アヘン戦争時、火力は圧倒的にイギリス軍の方が上でした。しかし、当時はまだアームストロング砲という着弾すると砲弾が炸裂するという今では当たり前の大砲は実用化されていませんでした。
だから、鉄の玉を飛ばすだけの大砲でした。ただし、その鉄の玉は装薬(玉を打ち出す火薬)の爆発によって焼けていますので、木造の家屋ならば火がつき火事になります。
陸戦の兵士は、4000人ほどでしたので清国の無尽蔵な人口を考えればほんの少数でした。
しかし、清国はイギリスに敗北し、天津条約を結ばされ、香港の割譲に繋がります。
ではなぜイギリスは勝ったのでしょう?というよりもなぜ清国は負けたのでしょう。
ここも当時の清国の状態を知らなければ答えは見つかりません。
清国の住民の大部分は漢民族ですが、支配階級は満州の女真族でした。
中国4000年の歴史などは、どこかのたわごとにしかすぎないのです。
つまり、異民族により征服されていたのが清王朝でした。辮髪というキン肉マンに出てくるラーメンマンのような髪型を漢民族も強要されました。
住民の多くは国家を信じておらず、自分たちの財産は守りたいが政府や王朝を守ろうとする意識はとても希薄だったのです。
イギリスに攻撃されている時に、清国は増援部隊を編成し広州に送ります。
しかし、この兵隊たちが囚人やならず者たちで編成されたひどいものでした。
その増援部隊によって略奪や強姦などが起きるのです。逆にそれを鎮圧するのが規律をもったイギリス兵だったのです。
すると住民はどちらの味方をするでしょう?
当然イギリス軍の味方をします。そこでイギリス軍が勝利するのです。
林則徐という欽差大臣(皇帝からその件に関しての全権を委任された大臣)がいました。
この人が清国の高官としては珍しく高潔で有能な大臣だったのですが、その人の成功をねたむ皇帝の側近からあることないことチクられ左遷されてしまいます。
有能な指揮官を失い、ならず者の増援部隊が略奪行為をはたらき、市民の安全と財産を護れない清国政府は住民の信頼を失って敗れるのです。
ローマも清国も文官が軍人を下に置いていたシビリアンコントロールの国でした。CHINAのまねをしている李氏朝鮮も全く同じです。
軍人は、皇帝の命により戦いますが、それは国のためというよりも自分の欲望を満たすことができるという利点があっての軍隊でした。
ところが、日本の武士は他の領土を自分の物にするときに、必要なものはその土地の住民の支持でした。
国力=人口だったのです。それは米作と深くかかわりがあります。
どんなに良質な土地を持っていてもそれを耕し、お世話をする農民がいなければ米はできません。
米は財力の基本です、田んぼから生まれるから「田から」が転じて「宝」となります。
兵士が過度に略奪したり、強姦するということはあたらに自分の版図に加えた領地の領民の支持を得られませんから、良くないことなのです。
これは大陸の地続きで異民族との戦いをしてきた外国と島国で同一民族同士で戦ってきた民族の違いでもあるでしょう。
あの両軍合わせて20万人以上が戦った天下分け目の関ヶ原の死者数が6000人前後だったことを考えれば、日本は戦いにおいても人の命を粗末にしない民族ということがわかるでしょう。
日本の合戦は弓矢、後に鉄砲を使用したアウトレンジからの戦いが主でした。そのため、弓矢や鉄砲の死傷者が全体の60%以上を占めていました。
刀による死者はほんの5%にしかすぎないのです。
江戸時代、平和な世にあっても武士の精神を忘れないために、不完全で脆い日本刀を武士の魂として珍重し、常に手入れをするようにさせたのです。
だから、武士時代が刀で白人に対抗できるという攘夷派が初めは威勢がよかったのですが、諸外国の武器の威力を知ると攘夷ではなく開国になっていくのです。
しかし、その中心となったのが尊皇という考え方でした。
でも、日本の諸藩の中にも長州藩のように初めから討幕を考えていた藩と薩摩藩のようにあとから討幕派になる藩も存在していました。
長州藩は大村益次郎の指導の元、射程の長い元込め式のミニエー銃を持ち、幕府軍の射程よりも長く第二次長州征伐では圧倒的な火力で幕府軍を打ち破っています。
薩摩は砲兵の運用に優れ、日露戦争時満州軍総司令官をした大山巌大将などはフランスに砲術で留学していました。
いかん、また横道にそれてしまいました。
命令を受け、その命令だけを忠実に果たす役割の諸外国の軍人と政治と軍事を両方を司る武士の大きな違いを説明しようとしていますが、伝わりましたでしょうか?
自分を自分で律することのできる武士と常に命令は上からくる諸外国の軍人の違いです。
自分で自分を律することのできる武士はつとめて他の人の模範になろうと精進します。
そうでなかった人もいたでしょうが、多くの武士が人の模範になるような生き方を江戸時代を通じてしてきたのです。
だから、明治の黎明期に留学した日本人は自分の学問で国家に尽くすという強い使命感を持って、見事その負託にこたえるのです。
浮いた噂があったのは、森鴎外と野口英世くらいのものです。その人たちが戦後偉人としてもてはやされていることが我慢なりません。
1900年義和団事変・北京籠城戦いわゆる北京の55日の時に、大日本帝国陸軍の芝五郎は、海軍陸戦隊を指揮し、見事に暴徒から連合国の命を護ります。
その働きを見てイギリスは日本は他のアジア人とは違う、こことなら久めるということでロシアへの牽制も兼ねて日英同盟が初めて締結されます。
もし、ここで日本の将兵が他国と同じであったら、誇り高き大英帝国は東洋の小国日本と対等の同盟など結ばなかったはずです。
日本の軍人は武人として教育を受けており、その薫陶によって農民出身者でも立派な帝国軍人となったわけです。
インドネシアの今村均大将のように軍人としてもすぐれていたが、行政官としてもすぐれた才能を発揮した軍人も多いのです。
これは今村大将だけがすごいのではなく、幕下にそういう人材が多かったので良い治世ができたのです。
この武人と軍人の違いを一緒くたにしてきたのが戦後の教育です。
軍人は人殺しの訓練を受けた野蛮人だから何をするかわからない。だから軍に力を持たせてはいけないと今でも言っているお花畑の住人がいます。
でも、日本の軍人は武人であり、その伝統は自衛隊の諸氏にきちんと引き継がれています。
ここでも、ええー?と疑う人があれば、一度駐屯地の見学ツアーなどに参加されて訓練内容をつぶさに見てこられることをお勧めします。
各県の郷友連盟などに問い合わせをすれば、見学ツアーなどがわかりますよ。
冷暖自知、目の前の水が冷たいか暖かいか自分で触って知ることが大切です。
色眼鏡を外してもう一度歴史を見直してみましょう。