私たちの周りで何か起きている | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

さる7月15日福岡県糸島市にある志登神社が火事にあり、拝殿・本殿が全焼しました。

 ここ糸島には謂れのわからない神社が多数ある場所です。

 誰がいつ創建したかが不明な神社が数多く存在し、それはこの地が神話の時代から存在した場所であるという物的な証拠がたくさんある場所です。

 天孫降臨の場所は日本書紀にはこう記してあります。

 「日がさし、日が入り、韓国(韓国)に向かい、かささの岬の真北を通る場所」 

 日がさし、日が入りとは、東西に開けている場所を示し、韓国に向かいは九州北部を示し、そしてかささの岬(坊津・鹿児島)の真北となると、ちょうどこの糸島地方になるのです。

 当然、当初の神社は社殿などありませんでしたが、江戸時代ごろから社殿を建て、村人が神社をお守りしながら、農耕にいそしんでいました。

 神様の使いの鳥が季節を知らせるために、鳥居が建てられ、渡り鳥によってその年の田植えや稲刈りの適切な時期を村人たちに知らせるという大きな役目がありました。

 そこで村人たちは自分たちの神社を産土神(うぶすなかみ)と称え、大切に御守りし、またそこが地域の興隆の中心となっていったのでした。

 しかし大東亜戦争後、次第に農業の割合が減少し神社と人々との関係が薄れてきています。

 大きく有名な神社はたくさんの人が集まり、賑わっていますが今回全焼した志登神社のような地方の神社は氏子さんたちの懸命な努力によってかろうじて維持してきました。

 しかし、今回のように全焼してしまうとその再建には多額の費用が掛かり、また技術者も少なくなっているために再建が思うように行かないそうです。

福岡県糸島市 志登神社
7月15日 本殿全焼  16日樋口朋幸氏撮影
志登神社拝殿全焼 樋口氏撮影

 以下はこの写真を送ってくれた同志である樋口朋幸氏が調べてくれた最近日本で起こっている神社の火災状況です。

 2014.01.13.
富山県魚津市 火の宮神社
社殿全焼 

2014.01.26.
福島県白川市 天神神社
本殿全焼

2014.02.11.
東京都八王子市 千代田稲荷大明神
拝殿全焼

2014.03.07.
神奈川県座間市 栗原神社
神楽殿、民家二棟全焼

2014.04.01.
福島県飯舘村 山津見神社
全焼

2014.04.10.
熊本県玉名郡
片峯菅原神社 本殿、物置
全焼

今月07.15. 福岡県糸島市
志登神社 拝殿、本殿 全焼

 あまりにも多すぎはしませんか?

 ご存知のように神社に基本的に火の気はありません。小さな神社は人も住んでおらず、だれでも出入り自由な場所です。

 でも、今までの日本人であればそこで悪さをすることは心が咎めたり、ましてや火をつけたりすることは到底できませんでした。

 せめて、逢引をしたり、陰で未成年がタバコを吸ったりするくらいでしょうか。

 この犯人が日本人だとか、外国人の仕業とかをここで言及するつもりはありません。

 ただ、皆さんに知ってほしいのです。私たちの周りで何かが起きていることを。昔から日本人の心の拠り所である神社がこのような無残な姿を晒さねばならなくなるということはどういうことなのかを考えてほしいのです。

 私の町内でも古くからの神社のお祭りが元校長先生の尽力と子供会の協力によって毎年続けられています。

 私もいつものように私にできることでお手伝いをしています。でも、この元校長先生がいなくなったらどうするのかと考えるとその存続は難しくなってきます。

 人間はそれぞれの役割があり、国政という大きな舞台で活躍する人、県政や市政で活躍する人、さらに企業で活躍する人などなどがあります。

 私のような普通の人ができることは、まずは自分の住んでいる街を少しでも住みよくすることだと思い、自治会活動をもう10年ほど続けています。

 なんでもいいんです、自分のできる範囲でいいんです。たいそうなことはしなくていいんです。

 たとえば毎日の散歩のコースに近所の神社に行くようにして、手を合わせるだけでいいんです。さすれば、よからぬことをたくらんでいる人が人目を気にしてその悪だくみを注視するかもしれません。

 マザーテレサの有名な言葉である「愛の反対語は、無関心」というのがありましたが、近所の昔からある神社にちょっとずつでいいから関心を持ってほしいと思います。

 最近越してきた人が神社の祭りに参加することにより、以前からそこに住んでいる人たちとの交流ができるようになると思います。
 
 人々が挨拶をする街は、防犯上もいいのです。空き巣や泥棒が下見をして人々のつながりを確かめ、つながりのないところを狙うのは防犯上の常識です。

 いまは稲作という共通認識が無くなってきましたが、住民の心の交流を神社を中心に取り戻してはいかがでしょう。若い人がその活動をすることにより、歴史の復活、街の活性化、過疎化の歯止め、そして何より住民が仲良く暮らしているところに新しい人は吸い寄せられてくるのです。

 神社は「時」という資源が眠っているところです。それは新しい物を立てたり企画することもいいでしょうが、日本全国に存在する地域の神社を中心にもう一度町の形を考えることが必要だと最近の神社の火災が教えてくれているように思えてなりません。

 天下国家を語る前に自分の足元を固めねばなりません。

 机上の空論で天下や日本国のことを憂いても何も生み出しません。

 でも、身近な神社のお世話をすることにより、そこから新しいものが生まれてきます。それは太古の昔から日本人が連綿と受け継いできたことだからです。

 ぜひ、近くの神社のお世話をされている方のところに顔を出してみてください。夏から秋にかけてはお祭りの時期です。きっと大歓迎されるはずです。