ハルピンに安重根記念館が建設され、一般公開されました。
ただのテロリストに対してここまでするかとという思いが日本人にはあると思います。
というのは、歴史の捏造をしていくこと、つまり息をするように嘘を吐き続けるとこのようになるという典型のようなものです。
でも、日本人の中にどれだけ伊藤博文公についてご存知の方がいらっしゃるのかも疑問です。
伊藤博文公は、長州・萩の出身です。
侍身分になったのは、英国留学に行く直前であり、それまで軽輩といういわゆる小者でした。
そのため明倫館という藩校には入れてもらえず、自分で努力をして学問をする頑張り屋さんでした。
そうしている時に、ペリーの船に密航を企て、謹慎処分を食らっている吉田松陰寅次郎先生が松下村塾を開かれたという噂を聞きつけました。
身分や素性に関係なく、真摯な態度で学問を教えてくれるため、利助青年(伊藤博文の幼名)は松下村塾に通いました。
とはいっても学費を払える財力もなく、塾の外で師の講義を一所懸命に聴いていました。
毎回真剣なまなざしで講義を聴く利助に関心を持ち、ノートを見てみるときちんと要点を捉え整理されていました。
それに感心した松陰先生は利助に俊才の意味を込め、俊輔という名前をつけます。それほど、松陰先生は伊藤の才能を買っていたのです。
彼は身分が低いのですが、松下村塾では身分や性別に関係なく、実力主義であり、平等主義でした。
だから、初めは塾の外で聞いていた伊藤も縁側になり、そして狭いながらも部屋に入って講義を聴くようになっていきます。
しかし、伊藤のすごいところは、自分の才を鼻にかけず、高杉晋作などから用事を頼まれると「はいっ!」といって笑顔でその用事を相手の期待を良い方に裏切りながら可愛がられていました。
周旋屋の俊輔ともいわれ、喜んで諸先輩の小間使いをしていたのです。
それでも胸の内には青雲の志を秘め、桂小五郎の付き人や高杉晋作の子分として自分の分を一所懸命に果たすのです。
人は伊藤を見て、そこまでしなくてもいいだろうと思うくらい頼まれごとを真剣にします。
そして、身分という信用はなくても、あいつに頼めばからなずやってくれるという人間的な信用を持つのです。
吉田松陰先生が安政の大獄で死罪になった時も、その遺骸を引き取る役目をします。
これからも分かるようにまだ藩では小者扱いだったのです。
しかし、仲間からは絶大な信頼を寄せられていました。
井上聞多と仲がよく、海軍を学びに英国に留学します。その時に初めて侍身分となるのです。
長州と薩摩が英国に留学生を送りますが、その待遇は雲泥の差で潤沢な留学資金をもらっている薩摩に対し、長州藩は藩の事情が許さず、しばし薩摩藩留学生から食事をごちそうになったりしていたと言います。
その留学中に長州が異国船打ち払い、つまり攘夷を実行し、英仏蘭米の四か国から攻められるという噂を聞きつけ、井上と共に長州に帰ってきます。
しかし、下関戦争は勃発し長州の砲台は四か国に占領されるような失態を見せます。
そして英国との講和条件を話し合う会議の時に、高杉晋作の通訳として伊藤が表舞台に登場するのです。
高杉晋作は宍戸大全という家老を名乗り、正使として英国と交渉をするのです。
そして高杉の一番の功績ともいえる彦島割譲をきっぱりと断るのです。
グーグルの地図で見ていただければわかるのですが、下関市の彦島は島と言っても橋で渡れるほど近い場所にあり、関門海峡の入り口に位置する軍事的な要衝です。
もしここを英国に割譲すると、この彦島は香港のようになり、下関海峡は英国の影響下に置かれたでしょう。
しかし、当時の軍事力は圧倒的に不利なので、砲艦外交をする英国に普通の人であれば、屈したかもしれませんが、そこは長州の狂である高杉の真骨頂が見て取れます。
その緊迫した場面で高杉晋作は朗々と古事記を暗誦し、それを伊藤が訳して延々と議論を延ばしていくのです。
しびれを切らした英国代表は彦島の割譲をあきらめるのです。
もし彦島割譲を認めていたら、日本は独立国として明治を迎えられなかったかもしれないほど、重要なことでした。
松陰先生が亡くなり、高杉も肺病で亡くなり、その遺志を継ぐのが伊藤博文でした。
伊藤は徹底した平和主義者であり、政府内にも敵を作りませんでした。
そして内閣制度ができ初代の総理大臣を選ぶ時に、政府内で二人の候補者の名前が挙げられました。
一人が三条実美、もう一人が伊藤博文だったのです。
三条実美は皇室に最も近い家柄であり、勤王公家として七卿落ちも経験した新政府の太政大臣ですが、それは名目上であり、行政手腕はありません。ただ家柄としては申し分なかったのです。
その反面、伊藤博文は小者からの成り上がりであり、政府の首脳の中でも一番家柄が低く、というよりも家柄といえるものすら無いような身分の出身でした。
しかし、ここが明治期の日本の凄いところです。
この二人が遡上に上がることもすごいのですが、結局初代の総理大臣に伊藤博文が選ばれるのです。
それは親友の井上聞多がひとことから始まったそうです。
「これからの総理大臣は英語が読めないと」
この一言で、実力的には圧倒的に伊藤だと認めていましたが、家柄を気にして伊藤を推せなかった人たちが一斉に同意し、ここに初代内閣総理大臣伊藤博文が誕生するのです。
さらに44歳という年齢は最年少総理として今でも破られていません。
明治期の先人たちは家柄よりも実力と人柄を選んだのです。
すごく日本的だと思いませんか?
これは伊藤が苦労人で相手の意見をよく聞き、相手の頼みを親身になることを長年してきて、信頼を築いていたからです。
そして大久保利通亡き後の明治新政府を事実上切り盛りしてきた実力が買われたのです。
日露戦争も最初は大反対でした。
しかし、今戦争を始めないと日本は負けるという児玉源太郎の魂を込めた説得を聞き入れ、開戦を明治大帝に奏上するのです。
苦労人の伊藤です、1905年初代の朝鮮の総監となります。
朝鮮は朝鮮人の手で統治させようと初めは努力しますが、遅遅として進まない現状と、国際情勢の悪化に伴い、日韓併合の閣議決定に賛同します。
日韓併合は日本が軍事力を持って高圧的に進めたのではなく、伊藤博文がこつこつと朝鮮の民衆のためになる政策を実現してきたから、朝鮮人の中から、今までの両班が好き勝手にする政治よりも日本の統治の方がよりいい暮らしができると理解し、併合を持ちかけてきたのです。
もし、伊藤が初代の総監でなく、高圧的な政治体制を5年間取っていたら日韓併合を朝鮮人から言い出すことはなかったと思います。
それだけ今迄の李氏朝鮮の政治がひどかったのであり、明日の朝鮮の光を日本人、いや伊藤博文公に託そうとしたのです。
そしてそれを暗殺したのが安重根と言われていますが、その事実は闇の部分が多いのです。
はっきり違うと主張する学者もいます。
つまり、本当かどうかわからないのです。
それを英雄にしなければならない韓国の歴史捏造は哀れなものです。
韓国の歴史ドラマはファンタジーと言われていますが、それは李氏朝鮮時代がよかったという全く事実に反するものです。
そうでもしないと安重根が英雄にならないからです。
ただ政治的なプロパガンダでCHINAの国内にそういうでたらめの記念館を作るということは、CHINAもあとできっと後悔するでしょう。
日本の歴史学者と言われる人は、きちんとこのことを発信し、政府の理論武装を助けねばならないと思います。
そのためにも東京都知事に自虐史観の持ち主がなってはいけないのです。
また平気でCHINAや韓国に土下座するような人が推す候補がなってもならないのです。
ネットを見ている人はそれに気づいていますが、テレビ新聞だけの層は全く情報を遮断されており、国民の知る権利さえも気づいていません。
ぜひ、皆さん教えてあげてください。日本の首都にだれがふさわしいかと。
私は田母神候補を応援しています。