「博多の恩人 聖一国師物語」制作秘話 その2 日本のあいまいさ | 井上政典のブログ

井上政典のブログ

 歴史を通じて未来を見よう。

 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
 ご意見は賛成反対を問わずどんどん書いてください。

 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 聖一国師の所作を演ずる上で、細かい作法についてどうしてもわからず、承天寺の住職にいろんなことをお尋ねしました。

 というのも世界の宗教の戒律はとても厳しいものがあり、ユニホームの関係でイランの女子サッカー選手が頭にかぶるへジャブは危ないと失格となり不戦敗となったというニュースを知っていたからでした。

 それに役者としてできるだけ本物に近づけようといろんな作法を取り入れようとしていたからです。

 その時に、日本文化の凄さに気付きました。

 聖一国師役の日微貴君が住職に「托鉢のおわんはどちらで持てば良いのでしょうか?」と聞きました。

 彼も色んな勉強をし、宗教上の制約があることを知っていたからの質問だと思います。その時、住職は不思議そうな顔をされました。
 
 「どっちということは、どういうことかな?」と聞き返されたのです。

 「どっちの手に持つか決まっているのではないですか?」というと、「いやいやそれはおかしい」と笑われました。

 そこで私は住職の言われる意味がぴんときましたが、日微貴君にはわからないようでした。

 というのも、禅の教えには、『物事に捉われるな!とらわれた瞬間に心も囚われる』とのがあるからです。

 どちらの手で持つかということに心が捉われた瞬間に托鉢という仏の代わりに布施を受け取るという気持ちが崩れてしまうのです。布施する人も受け取る人もその布施自体も清らかなものであることが求められています。

 これを「三輪清浄(さんりんしょうじょう)」といい、これが受け取る側が形にこだわった時点で、その透明な仏の代わりということが消えてなくなってしまうのです。つまり、心のあり方がとても大切なのです。

 これは、宗教上の戒律の厳しい他の国の仏教であれば、その形にこだわることも多いのでしょうが、日本は形よりもその心のあり方に重点を置かれているということに気付いたのです。

 インドでは左手は不浄の手で左手で握手することは絶対にありえませんし、そうしようとすると相手は怒ります。

 しかし、日本では「方便」という事で、あまり厳しくないのです。

 物事に捉われず、心に重点を置く柔軟さが日本の宗教の特徴でした。それが臨済宗が鎌倉時代に入ってきてから400年間、日本で独自に発達して言った日本の禅宗になっていったのではないでしょうか。

 江戸時代に黄檗派の隠元禅師が日本に来た時に、あまりにも違うものだったので、臨済宗黄檗派だったものが明治になって黄檗宗という形になったものもわかるような気がしてきました。

 菅原道真公の和歌に「心だに誠の道にかないなば 祈らずとても神や守らむ」がありますが、まさにこれが日本の文化ではないでしょうか。

 融通無碍(ゆうずうむげ)とでもいいましょうか、これが他の文化や習慣を受け入れることの「しなやかさ」であり「強さ」ではないでしょうか。

 色んな新しいものをどんどん取り入れ、変化していていった日本文化の凄さだと思います。そこには、衆生を救うという民衆のための仏教が根付いていた証左ではないでしょうか。

 お寺で三日間の公演をしたものですから、作法について住職から色んな注意を受けました。私をはじめ、若い人たちには知らないことばかりでした。でも、基本的な心、次に使う人が気持ちよく使えるように気持ちですべての所作が決まっていました。

 そこでは基本的な形はありますが、基本的な心にかなっていれば何も文句を言われません。逆にそういうやり方もあるねといわれるほどです。
 
 今回のプロジェクトでいろんなことを学びました。それは、そこに足を踏み入れたものしかわからないものが多数あるのです。ほんとうにやってよかったとつくづくと思う毎日です。