河村市長の勇気にエールを! | 井上政典のブログ

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 歴史ナビゲーターの井上政典がお贈りする祖国日本への提言です。
 
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 ただし、社会人としての基本的なマナーは守ってくださいね。

 私は河村名古屋市長のことはあまり好きではありません。減税減税と大衆受けするようなことばかりをいっているように思えてならないからです。

 ところが今回大変勇気ある発言をしました。

 「南京事件」についてです。

 「南京事件」はなかったと言い放ちました。たくさんの関係者が感激したことでしょう。そして勇気ある発言にエールを送ったことでしょう。

 そして、CHINAの怒りをかったでしょう。南京市は名古屋市との関係を一時凍結するとまで言っています。名古屋への観光客も大幅に減るのでしょうか。

 市長としてはなかなか言えないことをきちんといってくれていただき、ありがとうと感謝しています。

 「南京事件」は、その推移をきちんと歴史的に見ていけば捏造であるということが簡単に理解できることですが、村山談話に始まり、自民党の「まあなんとかそこは穏便に」政策のツケと、現民主党の中枢に居座る左翼の格好の日本を貶める材料に使われ来ました。

 「南京事件」の始まりは、1937年8月9日の大山海軍大尉の殺害事件を発端とする第二次上海事変を理解しなければなりません。

 強いて言うなら、1900年の義和団事変にさかのぼらねばなりません。義和団が北京に在住する外国人を襲った時に、時の清国政府はこともあろうにその義和団を支持したのです。

 そのために、北京城の篭城戦が行われました。このときの映画が「北京の55日」です。

 国際法上、合法的に入国している外国人を保護するのは当然のことですが、CHINA政府はそれを怠ったために、自国民保護の為に外国軍隊が駐留するようになりました。その時から日本軍も大陸に駐留するようになったのです。

 無理やり大陸に敵前上陸したのではありません。CHINA政府が保護をきちんとしないために、外国の軍隊の駐留を許さざるを得なかったのです。

 今でもCHINAは国際法や国際的慣習を無視しています。商標権問題もそうです。売ってやらなければ良いと思うのは利害関係がないからですが・・・。

 話を元に戻します。日華事変(日中戦争ではありません)、事変と戦争は違います。

 戦争は国家間同士の争いになりますが、事変は宣戦布告ができない相手との戦いになります。当時大陸は、国民党政府や共産党勢力、さらに馬賊や豪族が乱立しており、統一国家ではありませんでした。国民党政府は、中立国という立場を保たないと欧米からの援助が受けられないために、宣戦布告をしませんでした。

 教科書に書かれていることがあまりにもでたらめなので、なかなか簡単に書けませんが、CHINA人同士殺し合い、奪い合っていた時代なのです。

 日本は戦線不拡大方針を持って対処していましたが、ことごとくCHINAによって裏切られていました。大東亜戦争の講和条約にサインをした重光葵(まもる)氏は、第一次上海事変の停戦交渉を手がけ、調印する矢先にテロによって重傷を負い、それでも調印式に臨み、そのすぐ後に右足切断をするという気概を見せた人です。後の駐米大使となった野村吉三郎海軍大将もこのときに右目を失明しています。

 そういう中で起こった大山海軍大尉殺害事件はCHINA軍が関与していました。大山大尉の体から30発以上の機銃弾が検出されました。機銃は普通の人は持っていないものです。この大山大尉の親戚が私と同じ校区に住んでおられ、当時の資料を見せていただきました。

 それがきっかけに国民党軍と戦闘に入るのですが、国民党軍は60万の兵力で、ドイツの武器で武装していました。対する日本軍は最終的に25万になりますが、最初は少ない兵力で兵器も優秀な国民党軍と戦闘を行い、10倍の兵力を持つ敵を打ち破り、当時の首都南京まで対激戦を展開します。

 そして国民党軍が退却する時に、自国民だろうが関係なしに略奪放火をしていったのです。上海事変のときも、国民党軍がホテルや民間施設を爆撃し、千人以上の死傷者をだしますが、それを日本軍の仕業と言いふらします。

 この国が自分の都合のいいように捏造するのは今に始まったことではありません。

 続きは、明日に書きます。