咸臨丸は木造3本マストの620トン
蒸気船で、オランダで建造され、
1856年に進水した幕府長崎海軍伝習所
の練習艦である。全長488m全幅
8.74m、最大船速6ノット。大砲
12門を装備していた。
1860(安政4)年1月31日、日米
修好通商条約批准書交換の為、咸臨丸は
米軍艦ポーハタン号の別船として太平洋
を渡ることになった。これは奥州仙台の
支倉常長一行が、1613(慶長18)年
にサンファン・バウティスタ号で
ヨーロッパに向けて旅立って以来、
247年ぶりの事だった。
ポーハタン号の遣米使節は、正使・
新見正興(しんみ まさおき)、副使・
村垣範正。目付として勘定奉行の小栗
上野介忠順が金銀兌換交渉の為に乗船
した。一方、咸臨丸艦長は勝海舟と
木村摂津守。木村の従者は福沢諭吉。
航海の技術指導員としてジョン万次郎。
勝艦長は船酔いで使い物にならず、
ジョン万次郎とジョン・ブルックス大尉
ら米船員の力を借りて何とか航海出来た。
この苦い体験で、勝海舟が日本自前の
海軍創設を、弟子の坂本竜馬に力説する
ことになった。
ハワイからサンフランシスコへ。咸臨丸
はここで任務を終え、損傷個所を修理
した後に帰国する。ジョン万次郎は
ここで、父・ホイット・フィールドと
再会する。彼は息子が髷を結い、和装
で腰に大小3本の刀を差す姿を見て
感激し、「ジョンがショーグンになって
戻ってきた」と喜んだ。ジョンは長い
船旅で勝海舟や福沢諭吉と濃密な時間
を過ごし、ウォーレン・デラノの支那
情勢を伝え、彼らに開国の精神を注ぎ
込んだ。福沢諭吉は後に、この時の
情報を基にして「脱亜論」を書く。
遣米使節一行は、サンフランシスコ
からパナマに向かった。まだパナマ
運河は未開通だった為、パナマ鉄道で
大西洋に出て、ロアノーク号に乗り
換えてワシントンに向かった。
カス国務長官を訪ね、ブキャナン大統領
に謁見した。4月2日批准書交換の後は、
スミソニアン博物館、国会議事堂、
ワシントン海軍工廠、米海軍天文台
などを見学した。
小栗上野介はフィラデルフィア造幣局
で、一分銀と同額面を持つ一分金を
分析させた。これによって一分金は
89セント相当と確認。洋銀と一分銀
の交換を禁止して、90セントを一分
として一分金と交換することを主張
したが、米側は正当性を理解しつつ
合意には至らなかった。切れ味鋭い
小栗は「タフ・ネゴシエーター」と
評価されたが、小栗の主張が通って
いればアメリカは儲けを大幅に失う
事になる。日本の正当性を曲げてでも
アメリカ側に有利にもっていく必要が
あったわけだ。
使節一行はフィラデルフィアから
ニューヨーク・ブロードウェイ
パレードで、50万人から大歓迎
された。腰に日本刀を差すサムライは、
よほど珍しかったのだろう。日本人に
とっても、これほどの大群衆に
出くわすことなど、まずないこと
だったであろう。帰国はアフリカ・
ルワンダから喜望峰を回り、インド
ネシア、香港経由で世界一周して
品川沖への航海となった。
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