攘夷/松下村塾と薩英戦争 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

下田条約の金銀交換比率で日本の金が
流出するからくりや、日米修好通商
条約が不平等であると気づいたのは、
長州で松下村塾を主催した吉田松陰と、
塾生たちだった。特に経済問題に
明るい久坂玄瑞は、土佐から遊びに
来た坂本竜馬に、熱心に鬼畜米英の
本質について説いている。


一般庶民は赤鬼・米英人を「彼らは
畑の牛さえ食べるのだから、いまに
町中の赤ん坊を八つ裂きにして食べる
だろう」と噂していた。十字軍の頃の
彼らは、本当に異教徒の赤ん坊を
串刺しにして焼いて食べていたが、
さすがにそこまで野蛮ではなくなって
いた。だが日本の金銀収奪は、赤ん坊
殺しに例えられるかもしれない。


当然鬼畜米英のずる賢い手口に腹が
立つ。異人は打ち払うべしという
「攘夷(じょうい)」という感情と行動
となる。松下村塾四天王の一人、
高杉晋作も、火の玉のような尊皇攘夷派
だった。その高杉が、幕府が募集した
上海視察の長州代表として、アヘン戦争
で開港した上海へ渡航視察した。


上海は英米仏の植民地と化して、港には
軍船・商船数千隻が停泊していた。
支那人は奴隷の如き惨状だった。
租界地には「犬と支那人入るべからず」
の張り紙があった。英米人は「有色人種
を植民地にして文明を教えてやることは、
神によって与えられた明白な使命である」
と言いきって憚らなかった。だが弱体化
した清政府は、何もしなかった。


高杉は幕府が米英人に対して御人好し
で接していれば、いずれ日本も米英仏
に食い散らかされてしまうだろうと
いう危機感を募らせた。だが坂本竜馬へ
の土産にした6連発拳銃など、銃砲や
蒸気機関の技術力などは、圧倒的な開き
があった。早急に日本を眠りから醒まし、
政治体制を作り変える必要があった。
高杉はまず、狂気によって攘夷を煽る
ことにした。


1863(文久3)年1月31日、
高杉晋作は子分の伊藤俊輔(博文)、
井上聞多(馨)、久坂玄随らと共に、
品川に建設中の英国領事館を焼き討ち
した。そんなテロを決行しておいて、
5月に伊藤と井上は、高杉に説かれ、
サッスーン財閥長崎営業所のフリー
メーソン、トーマス・グラバーの
手引きと資金援助によって英国に
密航留学に旅立つのである。2人は
9月にロンドンに着き、英語と礼儀作法、
海軍施設見学などの研鑚を積み、
開国派に転向してゆく。留学中学んだ
ドイツ憲法は、大日本帝国憲法の土台
になってゆく。


一方、文久2年8月、横浜・生麦村で、
薩摩藩の大名行列に、観光していた騎馬
の英国人4名が割り込んだ。彼らを無礼
討ちにして、死者1名負傷2名を出す
生麦事件が起きた。薩摩藩の対応は当然
のものだったが、英公使は賠償金10万
ポンドを要求。幕府は英を恐れ、薩摩を
憎みつつ、のらりくらりと交渉を先延ばし
にした。


1863(文久3)年6月、英は薩摩藩
と直接交渉する為に、英艦隊7隻が
鹿児島湾に向かった。だが島津と
しては当然の事をしたまでで、賠償金
とはふざけるなと、交渉決裂。英艦隊
が薩摩船を拿捕した事をきっかけと
して、薩英戦争へと発展した。英砲撃
で鹿児島の城下はかなり破壊されたが、
英艦隊も、大破1隻、中破2隻、死者
13名、負傷者50名とかなりの損害
を出した。西洋式武器を使う戦略が
予想外に優秀で、支那・朝鮮などと
違って武力とアヘンで降伏させるのは
難しいと、英国ロスチャイルドに思い
知らせたのである。



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