高浜虚子 | 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」

本格的歴史エンターテイメント・エッセイ集。深くて渋い歴史的エピソード満載!! 意外性のショットガン!!

高浜虚子は1874(明治7)年2月22日、伊予・松山
の生まれ。正岡子規の7歳年下である。19歳の時、親友
の河東碧梧桐と共に京都の第三高校に入学するが、学科
改変により、翌年の9月に仙台の第ニ高校に転入する。
このあたり、ビミョーに郷土史だ!! 

旧制二高は現在の青葉区上杉(かみすぎ)宮城教育大学付属
小・中学校の敷地に在った。2町南に下れば県庁市役所と
いう、それほど辺鄙な地ではなかったものの、武家屋敷の
名残を残す屋敷町にあり、静寂な環境であっただろう。
南国伊予の虚子・碧梧桐と仙台の環境は、相性が悪かった。
たぶん寮生活で先輩のいじめに遭ったとか、そういう理由
なのだろうが、2ヶ月で中退し、東京の子規庵に転がり込む。

俳句雑誌ホトトギスは、1897(明治30)年、子規の
友人・柳原極堂が松山で創刊。翌年から虚子が東京で継承
した。虚子は俳句の他、和歌や散文も掲載する方針をとった
為、夏目漱石が小説「我輩は猫である」「坊ちゃん」を発表
する事になる。子規が闘病する根岸の子規庵は、明治文学
の梁山泊の様相を呈していった。

○芭蕉忌や 遠く宗祇に遡る(虚子)

この句の元ネタは、芭蕉「笈の小文(おいのこぶみ)」の
「西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の絵、利休の茶、其の
貫道するものは一(いつ)なり」に由来する。これに芭蕉本人
を加えると、日本精神文化の高峰を担う彼らのバックボーン
は禅、あるいは禅なるものに貫かれていると気づかされる。
虚子は子規の志を受け継ぎ、生涯20万句を詠む。それらの
句は、芭蕉を意識しつつ禅味に溢れている。

○荒海や 佐渡に横たふ 天の川(芭蕉)
○銀河西へ 人は東へ 流れ星(虚子)

俳句への道 (岩波文庫)/高浜 虚子
¥630
Amazon.co.jp

ペタしてね