会津の道路整備に精を出す兼続ら。
ときにすでに1600年を数えました。
謙信公の三十三回忌が行われたことで、久しぶりに仙桃院に会う二人は、
越後に新しく入った堀秀治によって、言われなき疑いをかけられます。
そして、家康より書状が彼らのもとに。
内容は、上洛し申し開きをせよ、というもの。
家内では、家康のやりかたに憤るものの、強気に出る者はおらず。
そのころ、景勝は亡き謙信公の言葉を思い出し、
われらに正義はある、とはっきり口にします。
そして、歴史に残るあの「挑戦状」がかかれます。
家康がぐうの音も出せぬほどの、あれです。
「直江状」
会津に対する疑いはムリもなきことであるが、
景勝は上洛できません。
それは、会津に国替えになったばかりで、たびたび上洛するひまはない。
さらに、
告げ口したやつの言い分を確かめもせず、疑うなど、
本当に公平だと言われている家康殿のすることでしょうか。
・・・・・・・
景勝に謀反の心があるのか、
家康殿に裏表があるのか。
うそつき者のことをお調べにならないなら、
いつでも受けて立ちましょう!
かなり意訳しましたが、
だいたいこんな内容でした。
これを、日本中の名のある武将が読んでいたとすれば、
かなり痛快です。
このころ、ここまで家康をコケに出来る人物はほかにいませんものね。
家康は当然、激怒。
そして、ついに諸将を集め、上杉を討伐する軍を編成します。
世に言う「会津出兵(討伐)」です。
そのころ、会津では、
大軍に攻められるとわかっていても、
いわゆる「上杉軍法」によって、大軍をぶっつぶす作戦を立て、
迎え撃つ気満々。
革籠原に陣を敷き、
「正義の砦」
とします。
自軍にこそ、義ありという思いが伝わってきますね。
一方、石田三成の下に、あの盟友が呼ばれます。
大谷吉継です。
らいを患いながら、その智将ぶりは天下に轟いていました。
古くの友人である二人は、固い友情によって手を取り合うのでした。
七月。
ついに石田三成が、多くの将を抱えて、十万の軍をもって挙兵します。
一方上杉は、
北の伊達によって白石城を落とされ、緊張が高まりますが、
石田軍の挙兵が勇気付けられるのでした。
そのころ、家康のもとでは。
十万の軍をもって挙兵した石田軍に、少々焦り気味。
そこへ、逆賊になってしまった?家康軍に参加したことに憤る福島正則は、
家康の下にねじこんできます。
しかし、口のうまい家康により、
秀頼君が人質になっているといわれ、心を動かされてしまいます。
形としては、明らかに主君である秀頼に向けて弓引く逆賊行為なのに…。
さすが「たぬき」家康です。
ここで余談ですが、
家康のバックにかかっていた掛け軸が気になります。
「八万大菩薩」
さて、家康は、石田軍に向かい、
ついに上杉討伐をいったんやめ、西へ引き返します。
後ろを見せた家康を、追うべきという意見が出ますが、
景勝は、「やり方がフェアでない」ということで断固拒絶。
兼続が弟・大国実頼は、それを振り切って軍を動かそうとします。
そして珍しいことに、兼続も同様の意見を述べ、景勝にはむかいます。
あまり見られない光景ですね。
さらに、景勝はこんなことを言います。
「ならぬものはならぬ。
上杉の義にかなわぬものは。
それでもいくなら、わしを斬ってからにせい!」
一触即発。
兼続は、刀に手をかけ…。
しかし、もちろん景勝を手にかけたりはしません。
そこへ、最上勢の侵攻が伝えられ、兼続はそちらに向かいます。
本当に、納得できない気持ちでいっぱいだったでしょう。
しかし、主君あっての武士。
逆らうことなどできません。
歯噛みしながらも、兼続は、今日の一言をいいます。
「われらは義を守ります。
われらを守りたまえ。
そして、石田治部輔に武運があるように!」
ついに、ついに、
関ヶ原の戦いに向かう日本の行方は、いったいどうなってしまうのでしょうか。
わかっていてもドキドキしてしまいますね。
さて、次回『ふたつの関が原』。
関ヶ原の合戦に臨む武将たち。
さまざまな思惑が渦巻く中、いったいどうなる!?
次回もお楽しみに。