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久しぶりに「日本書紀」にもどり、続きを読んで行きましょう❗


冬10月2日、群臣は皇后を尊び皇太后と申し上げた。是年太歲辛巳カノトミ、この年を神功皇后摂政元年とする。


2年冬11月8日、仲哀天皇を河內国長野ナガノ陵に葬られた。


3年春1月3日、誉田別ホムタワケ皇子を立てて皇太子とし、大和国の磐余イワレに都を造った。

これを若桜ワカザクラ宮という。

磐余イワレと言えば、神武天皇ですね。
突然磐余に都を作ったのは、ここから新しい王朝が始まることを象徴的に表しているという意見もあります。

ただ以前、飛鳥時代の大兄の立太子の年齢を推定したところ、25歳以上という一定のラインを見ました。
天皇の即位に関しては30歳を越えないと無理というのもわかっているので、3歳の立太子はちょっと(ヾノ・∀・`)

文武天皇が15歳で立太子したときも大モメでしたからねえ(;^_^A

しかも摂政といいながら、神功皇后は100歳で死ぬまで摂政で、応神天皇は70歳になっていましたw
平安時代でも天皇が元服すると摂政から関白に名目上変わるわけですから、もうこの場合は摂政ではないわけで、明治時代に天皇の代数が確定するまでは天皇に数えられたりしていました。

そうすると最初の女帝は推古天皇ではなく神功天皇になりますね。

皇后(大后)が天皇位につくか、どうするかは安閑天皇の皇后春日山田皇女が初出なので、神功皇后のあり方は特異です。

特異なので、
後世の反映ではないとするか、
あり得ないから架空だとするかは
意見のわかれるところでしょう。

年齢に関しては、このあたりは干支を120年ずらして編集されており、戻すと半島の情勢と一致するので、一部で唱えられている「二倍年歴」は適用できません。

ですから常識的に考えると神功皇后も応神天皇ももっと治世が短いはずですし、伸ばしたとはいえ120年は回収できないので、ここ以降の天皇の治世も伸ばされていると考えないといけません。

「倭の五王」になるとけっこう中国の記録と日本の干支を合わせて考える方もいるのですが、それは簡単にやっていいとはいえません。

さて、仲哀天皇の長野陵ですが、近年古墳のできた順番をかなりわかってきました。

白石太一郎氏作成、「古代史講義」より転載


仲哀天皇陵は伝承がでは、大阪平野では佐紀陵山型の摩湯山古墳(岸和田市)を除くと、
巨大古墳で初めて古市古墳群につくられている古墳ということになるので、考古学的には津堂城山古墳か、次に古く規模もずっと大きい仲津山古墳ではないかといわれています。(津堂城山古墳は同時期の佐紀五社神古墳=伝神功皇后陵や馬見巣山古墳より小さくなる。)

宮内庁治定は岡ミサンザイ古墳ですが、
ここは出土埴輪より古墳時代中期の5世紀末の築造と推定されています。4世紀の仲哀天皇と合わないのです。

仲津山古墳が仲哀天皇の場合は、津堂城山古墳は応神天皇の皇后の父誉田真若ホムタマワカ王のものじゃなかろうか、ということになります。

近年は古墳の築造年代が明らかになり、応神天皇陵より孫の履中天皇陵の方が古くなり、
さらに佐紀古墳群でも古墳の築造が続くので、真陵はどこかというのも考え直さないといけませんね!


さてこの後は新羅再征伐の話ですが、
葛城襲津彦が登場します。
武内宿禰の長男ですが、武内宿禰の子孫には葛城氏、平群氏、蘇我氏などの大臣オオオミを輩出した氏族が名を連ねます。

そこから武内宿禰は、大臣のイメージを集約して作られているといわれます。
また「たまきはる内の朝臣」といわれるので、
藤原京時代になって、藤原不比等によって中臣(藤原)鎌足=内臣ウチツオミと重ね合わせて、天皇の側近くにいる忠臣のイメージになっていったとも指摘されています。

この時代は「好太王碑」によって、倭が高句麗と交戦していたことがわかりますが、「日本書紀」には全く出てこず、
新羅の征伐の話が多いので、飛鳥時代の国際関係を反映して記事が作られていて、日本の方にはこの時代の記録が残っていなかったということが想像できます。

ですから、神功皇后-応神天皇の時代もまだまだ伝承の時代でしょう。
「古事記」は3巻のうち、
上巻を神話に当て、
中巻は神武天皇~応神天皇で、最後に神話的な物語やアメノヒボコ伝承をかためて突っ込んでいます。
神の託宣も多く、伝承の時代であると定義しているようです。

下巻になるとちょっとグロい描写で権力闘争が語られますが、そこには神など出てこないので、天孫思想ができる前の、例えば蘇我政権下で編集された「天皇記」などを踏襲している可能性を考えてもいいでしょう。

「日本書紀」の方は外国の記録も出てきますが、大筋はまだまだ神様が現世に現れるという時代であるのは変わりありません。

ではとりあえず、新羅征討の話です。


5年春3月7日、新羅王が汗礼斯伐ウレシホツ、毛麻利叱智モマリシチ、富羅母智ホワモチらを遣わして朝貢した。
それによって先の人質である微叱許智伐旱ミシコチホツカンを取り返しなさろうという気があった。

そこで、許智伐旱コチホツカンに嘘を言わせ、
「使者である汗礼斯伐ウレシホツと毛麻利叱智モマリシチらが私に、
『我が王は、私が久しく帰らないことで、妻子をことごとく官に没収して婢奴カとしてしまった。』と告げました。どうか本国に還って、嘘か本当かを調べさせてください。」と申し上げた。
皇太后はお許しになった。

そこで葛城襲津彦カツラギノソツヒコ(武内宿禰の子)をつき添わせて遣わした。
対馬に着いて鰐浦ワニノウラに泊った。

そのとき、新羅の毛麻利叱智モマリシチらは、密かに船と水夫を手配し、微叱旱岐ミシカンキを乗せて新羅へ逃した。
そして草人形を作り、微叱許智ミシコチの床に置き、病気になったようすに偽り、襲津彦には、
「微叱許智は急に病気になり、死にそうになっています。」と告げた。

襲津彦は人を遣わして病人を看させた。
それで騙されたことが分かり、新羅の使者である三人を捕えて、檻の中に閉じ込め、火をつけて焼き殺した。

「三国史記」や「三国遺事」に
新羅の奈勿尼師今王(17代)は実聖尼師今王(18代)がまだ子供の時に高句麗に人質として送ったため、
実聖尼師今王(18代)はそれを恨んで、
即位後は奈勿尼師今王(17代)の子供の未斯欣を倭国の人質に、
訥祇麻立干王(19代)を高句麗に人質として送ったとされています。
どっちかというと取り返すというのは間違いで、国の家族に危機が迫っていた方が本当かもしれませんが、新羅を攻める口実にしたのでしょうか?

そして新羅に行って多大浦タタラノウラに駐屯し、草羅城サワラノサシを攻め陥して還った。
このときの捕虜たちは、すべて今の桑原、佐糜サビ、高宮、忍海オシヌミなどの四つの村の漢人アヤヒトの先祖である。

13年春2月8日、(皇后は)武內宿禰に命じて太子=応神天皇に従わせ、角鹿ツヌガの笥飯ケヒ大神を拝み参らせた。
17日、太子は角鹿から帰着して、是日に皇太后は、太子のため大殿で宴会をされた。皇太后は御盃を捧げて太子に酒祝サケホガいをなさり、それで歌われたのには、

この御酒ミキは 我が御酒ならず
神酒クシの司カミ 常世トコヨに坐イマす
磐立たす 少御神スクナミカミの
豊寿トヨホぎ 寿ホぎ廻モトほし
神寿カムホぎ 寿ホぎ狂クルほし
奉マツり来コし御酒ミキぞ
あさず飲オせ さ、さ、

このお酒は私の造ったお酒ではない
神酒の司で、常世の国にいます
(磐立たす)スクナヒコナ神が
豊作を祝いながら 立ち回り
神を祝いながら 狂おしく踊り
お造りになったお酒です。
残さずお飲みなさい。さぁさぁ

武內宿禰は太子のために答えて歌い、

この御酒ミキを 醸カみけむ人は
その鼓ツヅミ 臼ウスに立てて
歌ひつつ 醸カみけめかも
この御酒の あやに甚ウタ楽しさ さ

このお酒を醸した母君は
その鼓を 臼のように立てて
歌いながら 醸されたのでしょう
このお酒の 美味しいこと。さぁ。

皇太子(応神天皇)も15、6歳になり、成人式として気比神宮にお詣りしたということだと考えられます。

「古事記」ではここで気比大神(イザサワケ)と名を交換したというのですが、ほなら応神天皇はイザサワケやったんか?というと、気比大神が誉田別ホムタワケだったことになり、かなり疑問?

そもそもイザサワケのイザサは、

アメノヒボコの持ってきたイザサの太刀と共通すること、

敦賀ツルガには女神を追いかけて日本に来たという伝承を持つツヌガアラシト(大加羅王子)が来たという「垂仁天皇紀」の記事があるがが、
「古事記」では同じ話がアメノヒボコを主人公に語られていること、

などから、同一人物とかんがえられ、
イザサワケはアメノヒボコのイザサの太刀と関係する名前ではないかと思われます。

気比神宮には摂社角鹿ツルガ神社にツヌガアラシトが祀られているので、気比大神はイザサの太刀の神霊とも解釈してもいいくらいです。

「古事記」では太子と名を替えようと神託したあとに、鼻を傷つけられたイルカが浜に集まっていたので、
「神より食料を賜った❗😆」と、
応神天皇が「御食津ミケツ大神」と名付けたというので、
ナ(菜=おかず)と「御食津大神」のナ(名)を交換したという説がわたしにはしっくりきます(^^)

例えばナニワというのは、大阪湾にはいっぱいお魚がいるので「おかずのいっぱいいる庭」が語源といわれますし、
酒のサカナ(酒肴)は、魚に限らず「酒のおかず」ですよねv(・∀・*)
だからナは食料だと思うのです。

また忍熊王が逃げてきていたという福井県の剣神社の社伝では、この時応神天皇が剣神社にいって忍熊王の鎮魂と気比大神の祭祀を行っているので、気比大神の神威で忍熊王の祟りを鎮めたということになります。

気比大神が応神天皇にとっての守護神、私たちが七五三に行く氏神さんのようなイメージです。
気比大神は社伝では、神功皇后がここから九州に発つ時に、海神(綿津見神)を祀って出陣するように神託をくだされたとあるので、神功皇后の守護神だったともいうことでしょう。
神功皇后は「古事記」にアメノヒボコの子孫と出ていますので、その縁だと思われます。

なお息長氏と関連付ける説も多いのですが、息長氏との繋がりはあまりはっきりはしません。

御子が成人したんだから、摂政ではなくなるかと思いきや、神功皇后は死ぬまで摂政をやり、応神天皇は70歳になりますw

ここから考えて、やはり神功皇后の原型は女帝でしょう。オオタラシヒコという国内を制圧した伝説的大王に対して、
オオタラシヒメという伝説的女王がいて、半島に進出したという伝承を持っていた。

だからこそ「日本書紀」の編者さんたちも彼女を「魏志倭人伝」の倭の女王にあてたのだと思います。

彼女は気比神宮と関わりが深く、海人族系の氏族に奉じられていたと思われます。気比大神は御食津大神ですが、穀霊ではなく海の幸ですよね。まさに「海の神」だといえます。
神功皇后にふさわしい神社なので、御子神である応神天皇の元服が行われたのです。

そこで成人式を終えたので、帰ってきたらお酒を飲んで宴会をするわけです。
そこは今も変わりません。

歌謡はそういう神事でお酒を飲む時の歌でしょうね。


この後は外交記事が増えてきます。
やっと歴史っぽくなってきますね(^^;)

わたしはいちおう文献史学を専攻していたので(すごい昔ですがw)
ここまで来るとやれやれ( ´-ω-)y‐┛~~
喫煙しないけどこんな感じw

「椿井文書」のことで、一から神功皇后について考え直さなくてはならなくなり、ここを書いてる間はかなり青息吐息でしたが、筑前由紀さんにいただいた情報には助けられました。ありがとうございます。

わたしにとっては思春期を過ごした阪神間の古代も見えてきたのは面白かったです。なんせすごく西欧化したイメージの土地柄なので(;^_^A(宝塚歌劇のせい?w)

この先、もう少し神功皇后や忍熊王をまとめておきたいので、「ちょっと横道」ぐらいの感じでアップすると思います。

さてさて、「神功皇后紀」はまだまだ続きます。

またのご訪問をお待ちしております。