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次は以前にも出てきました「倭の女王」の話になりますが、
ここで半島情勢を踏まえて、もう一度邪馬台国から、神功皇后に至る流れをまとめておこうと思います。
そもそもこのブログはヤマトタケル伝承のことを書きたくて始めましたので、
邪馬台国については語らない❗(答えに到達できそうにないからw)というスタンスをとっていたのですが(^^;)
それを覆したのが久住猛雄さんを中心とした九州考古学の成果を知ったことでした。
ですから今回は朝鮮半島南部の加耶カヤや北部九州の遺跡から出土する土器の産地をもとにわかってきた当時の交易と、
「魏志倭人伝」や「日本書紀」から、
歴史を推測していこうと思います。
ただ、これまでもこういった動向はずっとお話していましたので、そこは適当に読み飛ばしていただければと思います。
さて、当時の西日本と朝鮮半島の図を見てみましょう。
今の北朝鮮のあたりの帯方郡と楽浪郡は、漢代に置かれた中国の郡で、後漢末の争乱(いわゆる三国志の世界)で、群雄が割拠すると公孫氏が実効支配していましたが、238年に三国(魏・蜀・呉)の魏の司馬仲達が公孫氏を滅ぼし、
同年に卑弥呼が魏に遣使します。
魏は曹操が、後漢献帝から禅譲を受けた国なので正規の中国王朝です。
卑弥呼はそれをちゃんとわかって、魏の都洛陽への取り次ぎを頼んで帯方郡に遣使しているのです。
その時代、弥生時代末期の日本と
朝鮮半島にあった弁韓・馬韓や中国の楽浪・帯方郡との交易の中心は、
土器の移動から原の辻遺跡(壱岐)と三雲遺跡(糸島)とであったと見られています。
とくに糸島市にある三雲遺跡は、「魏志倭人伝」の伊都国の遺跡ということです。
邪馬台国が伊都国に置いた「一大率」を諸国が畏怖したという記述が「魏志倭人伝」にあり、当時の交易は邪馬台国が管理していたと見られる(田中史生氏)ことがわかります。
ところが、その後の交易は弥生時代終末期に博多湾貿易に移行し、弥生時代終末期には福岡の西新町遺跡が貿易の中心になります(吉松大志氏)
この博多湾貿易の時代に、壱岐や半島の加耶カヤ地方(弁韓)でも、北部九州に次いで多くの土器が出るのは山陰のものです。山陰の土器は北部九州以外の本州西部の土器を圧倒し、
当時の交易の中心が北部九州と出雲の古志本郷遺跡を中心とする山陰だということになります。
原の辻・三雲交易の時代の出雲市の山持サンモチ遺跡からは、
半島系や楽浪系に加えて、北部九州系の土器、さらには丹後・但馬(当時は丹波)=京都府と兵庫県の北部系の土器、
吉備=岡山・広島県や近江=滋賀県の土器も出土していました。
(糸魚川市のヒスイも半島から出土しますが、ヌナカワヒメの神話に見られるように、糸魚川と出雲はヒスイの交易で結び付いていました。)
それが次の博多湾貿易の時代になると、
その中心の西新町遺跡(福岡市)では山陰系の土器の比重がさらに増して、
一方で大和の纒向マキムク遺跡では、北部九州~瀬戸内~東海・南関東、北陸諸地域の交流が確認されますが、半島系の土器はほとんどなく、
当時の日本には博多湾を窓口に全国に交易拠点が同時多発的に生まれ、ネットワークを形成していたと言えます。
(以上は「古代史講義」収録の「邪馬台国から古墳の時代へ」吉松大志氏による)
最近は、特にマスコミ中心に邪馬台国=纒向遺跡といった論調が盛んですが、
交易を考えた考古学の成果は、
むしろ北部九州と山陰が交易ネットワークの中心であったということになります。
さて、これを読んで思い出したのは「古事記」「日本書紀」に描かれている高天原と出雲という対立構図です。
まさに「古事記」「日本書紀」の神話の構造に一致しませんか⁉️
高天原が北部九州であることは、戦前に平原遺跡から八咫鏡と同サイズの内行花文鏡の出土などから原田大六氏が唱え、
安本美典さんも地名の頻出度などから指摘されていたり、
高天原=北部九州という説は昔からあります。
もし北部九州が高天原なら、高天原の神々が出雲の制圧を行った理由が、博多湾貿易の利権に絡むと想像できます。
「魏志倭人伝」によると邪馬台国は狗奴国と戦争状態でしたが、
狗奴国と思われる九州中南部の土器は免田式といい、その出土は南西諸島にひろがり、江南の呉とも通交していたと思われます。
交易という点では別方向を向いているので、おそらくは境界を接しているために争っていたと思われます。
ところが、貿易というところで見ると、山陰=出雲は協調関係にありながらライバル、
邪馬台国にとって、魏や弁韓との通交で本当に邪魔だった目の上のたんこぶは出雲であったのではないでしょうか?
つまり出雲の国譲りの神話は、決して作り話ではなく、当時の事情を内包した物語だったのです。
ここからはわたしの推論ですが(^_^;)
当然、貿易の独占のためには、北部九州を統治する邪馬台国は出雲の弱体化を狙ったでしょう。
ところが出雲の背後には丹後ー近江ー越へ広がるネットワークがあります。
出雲の弱体化を狙うには、丹後や越を出雲から切り離す経済封鎖が必要でした。
そこで邪馬台国は畿内式銅鐸の中心であった大和にを制圧し、邪馬台国の息のかかった政権を作り、丹波・近江・越を懐柔しようと、同じく瀬戸内のネットワークの拠点である吉備と結んで大和に圧力をかけたのでは?と考えました。
(西新町遺跡の出土品は河内のものが多く、大和とはあまり通交がなかったようなのです。)
その理由なのですが、
纒向では御間城入彦ミマキイリヒコの名を持つ崇神天皇が、御間城姫と結婚します。
不思議なのは御間城姫自身もその生んだ子のうち即位した活目入彦イサチ=垂仁天皇を除く4人の皇子女には「イリ」が付かず、
その他のほとんどの皇子女に「イリ」が付くものが多いこと、そして垂仁天皇のすぐ下には
「入」のない「彦イサチ」という皇子が見えることです。
かつて吉井巌氏や上田正昭氏が提唱された「イリ王朝」は皇子女に「イリ」が多いという特徴をして名付けられたものですが、
皇后並びにその子に「イリ」がつかないのは、外来者に「イリ」がつき、
前の王統の継承者である皇后に、崇神天皇が婿入りしたため、皇后の子には「イリ」が付かず、2代目の天皇になった彦イサチは、外来の天皇の血を引くということで「活目入彦」を名乗ったか、追贈されたということにならないか?
しかしながら崇神天皇の時代にあたると思われる纒向遺跡には、新しい祭祀が持ち込まれていることが明らかです。
纒向遺跡の特徴の最大のものは纒向型前方後円墳の出現なのですが、
その副葬品は、弥生時代の北部九州の甕棺墓で見られる鏡剣玉のセット、三種の神器です。
また、そこに置かれている埴輪の前段階とされる特殊器台は、吉備の首長の葬礼に由来し、吉備の弥生墳丘墓「楯並墳丘墓」で祀られていた亀石と同様に「弧帯文」が施されていたりもするのですが、
最古かと言われる「纒向石塚古墳」でも周壕から「弧文円板」が出土するなど、吉備の影響もとても強いのです。
つまり御間城入彦=崇神天皇の新しい纒向の政権は吉備と北部九州の支援を受けて誕生したと、言えるわけです。
すると、ここで思い当たるのは、
神武天皇が東征に先立ち3年を吉備ですごし、船団を整えたという「日本書紀」の記述です。
崇神天皇が纒向に北部九州と吉備の葬礼を持ち込んだことと、神武天皇が九州南部から出立し、宇佐や岡水門(北九州市)に立ち寄ったのち、吉備で船団を整えていることは同じ史実を指しているようにに思えます。
神武東征とは崇神天皇の大和入りを反映しているのではないでしょうか?
西新町遺跡の畿内との交易は、布留式土器の様式から河内が相手であったと想像されます。神武天皇が生駒山を越えるあたりから、大和との戦いが始まったのとも一致しますね。
神武=崇神天皇説は、二人がハツクニシラス天皇と呼ばれるのもあって、以前から指摘されている説なのですが、崇神天皇の祟られ方を見ると、かなり強引に大和入りした「入彦」のような気がします。
傍証ですが、
崇神天皇の直前の「欠史八代」の天皇の多くは「古事記」や「日本書紀」の「一云(別伝)」で、磯城県主系の后を娶っています。
磯城郡内で纒向遺跡の直前にある都市遺跡と言えば「唐古・鍵遺跡」(奈良県田原本町)です。ここが磯城県主の本拠だとすると、この遺跡には銅鐸工房があり、いわゆる「銅鐸文化圏」の国なのです。
そこからわたしは
「欠史八代」とは畿内が銅鐸の祭祀を行っていた時代の伝説的な王の名前を連ねたもの、と推測するのですが、
それなら後世、「日本書紀」を編纂する際に、
神武天皇を崇神天皇から分化させて、より古い時代に置くために、名前や后妃が伝わっていた古王朝(銅鐸政権)の王を間にいれて神武天皇をそれ以前にした、と解釈することができます。
まあ、こういった同一人物論の是非はともかくも、
崇神天皇の時代に前方後円墳が始まり、九州と吉備の葬礼と、「卑弥呼の好物」の鏡の祭祀=天照大神の祭祀が始まるのは間違いないので、
その後ろ楯に北部九州つまり邪馬台国がいたとするのは、意外と合理的だと思うのです。
こうして纒向に入った崇神天皇は、鏡を祭器とする天照大神の信仰を広めて、同盟した政権に鏡を贈るといった宗教改革と外交政策を展開します。これが三輪王権です。
そして、出雲を弱体化させるという邪馬台国側の使命を受けて、
越(北陸)と、東近畿に顔の効く阿倍氏の祖の大彦命や武淳名川別、丹波政権の日子坐王、そして吉備の大吉備津彦と、同盟を結んだのが、四道将軍に反映されていると思います。
とくに越はヒスイの産地として、丹後は越と出雲、あるいは畿内と出雲の中継地点として、出雲政権にとってはたいへん重要な交易相手でした。
この2地点を押さえられたら、出雲の交易網は破綻します。
そしてついに出雲の王であった出雲振根は、大吉備津彦と武淳名川別に討たれます。
これが国譲りではない、真の出雲制圧になります。
ここで「古代史講義」の吉松大志氏の説明に戻りますと、
四世紀初めの高句麗の南下、楽浪・帯方郡の滅亡は、朝鮮半島情勢に大きな影を落とし、その影響は列島にも波及する。先述したように四世紀半ば頃から西新町遺跡や福岡平野の大集落が衰退し博多湾貿易は衰退に向かう。ほぼ同時に古志本郷遺跡や纒向遺跡も衰退しており、博多湾岸を核として西日本諸地域間に形成された交易網はここに終焉を迎えたのである。
代わって畿内主導の新たな交易システムが構築され始めた。この時期加耶地域の王墓に畿内勢力との直接の関係を示す遺物が多数確認されることから、畿内のヤマト王権が直接加耶地域を中心とする朝鮮半島諸国と交渉・交易を行うことが可能になったと考えられている。
ということで、
博多湾貿易の恩恵を失った邪馬台国も衰退の一途をたどり始めたのでしょう。
それでも「日本書紀」に描かれる4世紀半ばの景行天皇の九州遠征は、
もっぱら熊襲=狗奴国の征討を目的とし、北部九州の安全を担保するものでした。
邪馬台国の後裔とも思われる神夏磯媛も景行天皇に救援を求めたと伝えられます。
このころ大和の三輪王権は丹波や越と結び、出雲滅亡後の日本海交易の盟主となっていたように思います。
そのため宮も墓所も北方に移動し、
景行天皇の纒向日代宮のあとは、
成務天皇の近江高穴穂宮(滋賀県大津市)や、仲哀天皇の敦賀笥飯ケヒ宮(福井県敦賀市)など、大和より北方の宮が伝えられるようになります。
さらに陵墓は大和最北部の佐紀古墳群に移動します。佐紀陵山古墳の相似形の陵墓は、
丹後の網野銚子山古墳(京都府京丹後市)、
伊賀の御墓山古墳=伝大彦命墓(三重県伊賀市)、
近江の膳所茶臼山古墳(滋賀県大津市)
などに築かれますので、三輪王権時代に同盟した北近畿の勢力がこのころの大和王権の担い手であったと考えられます。
結局三輪王権は半島との交易が破綻した日本国内の交易で独り勝ちして、より巨大な大和王権に変貌したように推測できるのです。
そういう情勢の中で、半島との交易で活躍していた海人族(安曇氏、宗像氏、あるいは和珥氏も?)や北部九州の沿岸の国(伊都国、奴=儺国、岡水門)は、半島に出ていく航海技術は身に付いてるわけですから、かつての邪馬台国に代わる新しい盟主を求めていたのではないでしょうか?(「魏志倭人伝」で、倭人が鯨面文身=入墨するとありますが、これは海洋系の民族の風俗であるのも傍証になるでしょう。)
そこに大和王権の王、仲哀天皇が妃を連れてやって来ます。
紀伊によっていたというのは渡海するための大型船の築造のためでしょう。
「日本書紀」には仲哀天皇は渡海に消極的とされていますが、そんなことはなかったように思えます。
ただ、博多湾岸の国々は喜んで大和軍を迎えたでしょうが、内陸部には邪馬台国の後継を名のる羽白熊鷲や田油津媛がいて、背後を脅かしていました。
ここで大和王権はついに宗主国ともいうべき邪馬台国を滅ぼし、北部九州を掌握したのでした。
そして半島との交易システムの盟主が交代します。
しかし仲哀天皇は戦闘か急病で亡くなってしまい、あとに妃と幼い皇子が残された。
さてその妃は半島系の血をひき、半島進出には意欲的だと思われる氏族の出身であった。
とすればどうでしょう?
かつて卑弥呼という偉大な女王のもとで海をわたった海人族が、その妃と皇子、大和から来た葛城氏や和珥氏(もともと海人族?)を中心にまとまり、外征派といえる勢力になり、
何年間も九州にいたまま百済と同盟し、高句麗と戦火を交えたとすると、そこはあたかも「二所朝廷」というような分裂になったのではないでしょうか。
次の部分は前にあげた注になるのですが、例の倭の女王のところです。
他の外交記録と比べて1世紀は違うので、干支で2周分、120年を繰り下げてつじつまを合わせています。
よく考えると、もし神功皇后が全くの架空の人物なら、ちょうどそこの時代に女帝的な人を作って入れればいいわけです。
起源を古くしたいなら、紀年をどんどんずらせばいいですよね。
実際、神武天皇は縄文時代の人になってるわけですから(^^;)
「日本書紀」の編纂の際に、外征の主役が神功皇后という女性になったのは、案外そういう位置に妃か皇女がいて、
巫女的なポジションで全軍をまとめあげたためで、それゆえに神功皇后は好太王の時代にいるべき人であったのではないでしょうか?
では、ちょっと注を見ておきましょう。原文ですみません💦
卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
ちょっと誤写が多いです💦
景初三年(239)は実際の年号では改元されてありません。「魏志倭人伝」では景初二年(238)です。教科書の年号は「日本書紀」に基づいているということかなσ(^_^;)?
難斗米も正しくは難升米ナシメ?です。
ただし「魏志倭人伝」の誤写の多いものを見たかもしれないので、編者のポカだとは断言できません(^ー^)
卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭国也。」
卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」
この卑弥呼=神功皇后は、今のところ時代が違うので学説で唱える人はいませんが、
なぜ干支を操作してまで、編者がこだわったのかという理由も考えてみることも必要だと思います。
このような九州派というか、外征派といった人たちは、百済との同盟で半島への足掛かりを作ったのですが、
大和王権の中には、国内で今の交易を維持しようという守旧派もいて、外征派の結集に危機感を感じる人も多かったのではないでしょうか?
それで起きたのが忍熊王の叛乱で、
忍熊王が敗れたあとは、丹波や伊賀の勢力は大和王権から手を引いてしまいます。
それは考古学的にも現れていて、
丹後も伊賀も5世紀になると巨大古墳は作られなくなるのです。
そして、日子坐王の子孫である山城大筒木真若王や迦邇米雷王のいた南山城は和珥氏が蟠踞するところとなり、丹波の勢力は大きく後退します。
そして外征派として九州から戻った葛城氏は大臣オオオミとして仁徳・履中天皇の后妃を輩出し、和珥氏も反正天皇の妃を出します。
こうして考古学的な遺物の語るところを見ると、「日本書紀」の大まかな流れと一致するので、
もちろん干支や年代の修正や、神話的な物語の見極めは必要ですし、人名もそのままではないでしょうから、すべて史実とする考えには反対しますが、
わたしとしてはもうちょっと「日本書紀」を信用してあげて!と思ってしまいます(^^;)
今回は大まかな流れの説明で、「日本書紀」は注だけしか読みませんでしたが、
次回からは外交関係になりますので、気分を変えて進みたいと思います。
またのご訪問をお待ちしています。