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今回はヤマトタケル(日本武尊)の東征です。ヤマトタケルの中ではメインです。
(景行天皇)40年の夏6月に、東夷アズマエビスが多く叛乱を起こし、辺境の地には動揺が起きていた。
秋7月16日、天皇は群臣に、
「今、東国は安定せず、暴れる神が多く起ち、また蝦夷もことごとく背いて、しばしば人民から略奪している。
誰を遣わして、その乱を鎮めようか?」と問われた。
群臣は皆、誰を遣わすべきか判断できなかった。
日本武尊は
「私は先に西の征討に働きました。この度の戦いは、必ずや大碓皇子の任務でしょう。」とおっしゃった。
そのとき、大碓皇子はびびって草の中に隠れた。そこで、(天皇は)使者を遣わして召し出した。
天皇は(大碓皇子を)責めて、
「お前が望まないのを、どうして無理矢理に遣わすことはあろうか?いったい何でまだ敵にも相対していないうちから、そんなに怖がりようがひどいのか(´-ω-`)」と仰せになった。
これによって、ついに美濃ミノ国(岐阜県)を治めるようにされた。(大碓皇子は)これによって任地に下られた。
これが身毛津君ムゲツノキミ(岐阜県武儀郡、美濃市付近)、守君モリノキミの二氏族の先祖である。
ここで情けない大碓皇子が描かれます。
しかし、身毛津君は継体天皇とも繋がり、壬申の乱でも活躍する氏族です。
大碓皇子については4年2月の条に
とありますが、特に処罰はされず、身毛津君はこのときの子供から出る氏族です。
「古事記」には小碓命に殺される大碓命ですが、ここでは殺されることもなく、罰せられることもなく、
他の子供とともに征服した土地に遣わされています。
その密通事件の前に
とあるので、日本武尊(小碓尊)の双子の兄の大碓皇子は、美濃に封じられたということより、ここで皇位継承資格を失ったと考えられます。
さて、一般的に古代(律令制以前)の皇位継承者の呼称である「大兄オオエ」は、
「同母兄弟内の長男を大兄にしたので、複数人いた。」と説明されているのですが、
よく見ると大兄は複数人登場する例は、645年の大化の改新に先立つ乙巳の変の時の中大兄皇子と古人大兄皇子に限られ、これも詳細に見ると、古人大兄皇子が直後に出家しているので、もしかすると中大兄皇子(葛城皇子)が大兄になったのは、変後である可能性も考えられます。(10代で大兄になった例がない。)
ところが「大兄複数論」の論証に、よくこの例があげられるのです。
とくに「古事記」では
若帯日子命与倭建命、亦五百木入日子命、此三王、負太子之名。
と書かれるので、古代は太子が複数いたと言うのですが、
そもそも三太子の伝承があるのは景行天皇だけで、
若帯日子命(稚足彦尊)は成務天皇になり、
「古事記」では倭建命は曾孫が景行天皇の妃になるという系譜を持つため、本来景行天皇の前の大王であった可能性もあり、
子供が仲哀天皇になるという草壁皇子ポジのために「日本書紀」では「尊」の尊称を与えられて、
五百木入日子命の系統は、仁徳天皇に続き、5世紀の王権の祖神的な位置にあることが関係すると思われます。
あるいは三輪王権に新たに入ってきた血統かもしれません。
どちらにしてもこの例をもって大兄制を論じるには、一例のみという特殊さや、ヤマトタケルのような伝承的英雄を含むこと、成務天皇の実在性などをかんがみると、適切な例とは言えないでしょう。
さて続きです。
ここに日本武尊は、雄叫びして
「熊襲が既に平定され、まだ幾年も経たぬのに、今また東夷が叛乱を起こした。いつ平定できるのだろう。私は疲れているが、急いでその叛乱を平定しましょう!」とおっしゃった。
天皇は斧鉞オノマサカリを取って、日本武尊に授けて(中国の将軍任命の賜り物)、
「かの東夷はその性は狂暴で強く、侵略する事を基本としている。村には首長もなく、各境界を侵略して互いに奪い合っている。
また山には邪悪な神、野には無法の鬼がいて、往来を邪魔して道もふさぐ。人々はたいそう苦しめられている。
その東夷の中でも、蝦夷エミシは特にたいへん強い。男女が混じり暮らして、親子の秩序もなく、冬は穴に寝、夏は木の上に棲む。毛皮を着て、血を飲み、兄弟でも疑い合う。山に登るには飛ぶ鳥のようで、草原を走ることは逃げる獣のようであるという。恩は受けてもは忘れ、怨敵には必ず報いる。
そこにもって矢は髪を束ねた中に隠し、刀を衣の中に带ぴる。あるいは、仲間を集めて辺境を犯し、耕作や養蚕の時期を狙って人々を侵略する。
撃っても草に隠れ、追えば山に入る。昔よりいまだに王の道に従ったことがない。
まあこの辺りは中国の蛮族の描き方ですね(;^_^A
縄文人とか異民族とかあまり考えなくていいと思います。
今、お前の有り様を見ると、身長は高く、容姿は美しい。力は強く、青銅の祭器を持ち上げるほどである。
勇猛なことは稲妻のようで、向うところ敵なく、攻めるところには必ず勝つ。
私はわかった。見た目は我が子だが、本当は神人であられることを。まことにこれは、天が自分に叡慮がなく、国が乱れるのを哀れんで、天子の義務、祖先の祭祀を絶えさせないようにして下さっているのであろう。
この天皇の位はそなたのものである。どうか深謀遠慮をもって、騒ぐ者を探り心変わりするものを見極めて、威儀をもって示し徳をもってなつかせ、兵力を使わず、自ずから従うようにさせよ。そして言葉を巧みに用いて暴ぶる神を鎮め、あるいは、武力をふるってよこしまな鬼を打ち払え。」と仰せになった。
そこで日本武尊は斧鉞を受け賜わり、再拝して、
「以前、西征の時は皇威により、三尺の剣をもって、熊襲の国を討った。それからいくばくの時を経ず賊の首魁は罪に服しました。
今また神々の霊力に頼り、皇威をお借りして、行ってこの国の境に到って、徳を教えて、なお従わないことがあれば、その時は兵を挙げて討伐しましょう。」とおっしゃった。
中国風美辞麗句のオンパレードです(;^_^A
そこで天皇は、吉備武彦と大伴武日連タケヒノムラジとに命じて日本武尊に従わせられた。
また、七掏脛ナナツカハギを膳夫カシワデ(コック👨🍳)とされた。
冬10月2日、日本武尊は出発した。
7日、寄り道をして伊勢神宮を拝む。
そして倭姫命にお別れの言葉を述べ、
「今、天皇の命令を承り、東国であちこちの反乱者を討伐しに行きます。それで、お別れのご挨拶に参りました。」とおっしゃった。
倭姫命は草薙剣を取って、日本武尊に授けて
「おごることなく、油断をしないように。」とおっしゃった。
ここでは伊勢神宮にいるのは、先ほど交替した五百野皇女ではなく倭姫命です。
草薙剣の話は持統朝以降の挿入と思われますので、やはり不安定な内容になっていますね。
ここから東国です。
この年、日本武尊は初めて駿河(静岡県西部)に到着された。そこの賊は朝廷に従うふりをして嘘を言い、
「この野には大鹿がたくさんいて、その息だけで野は朝霧のように曇り、その脚の数は林の木々のように見えます。ぜひお出かけになって、狩りをなさってはいかがでしょう。」と申し上げた。
日本武尊はその言葉をお信じになり、野の中に入って、狩りをなさった。賊は、王ミコを殺そうという心があり、王とは日本武尊のことを言うのである(原注) その野に火をつけた。
王は欺かれたと知り、直ちに火打石で火を打ち出し、向かい火をつけて脱出された。一に云わく(別伝)、王の御佩刀の叢雲ムラクモが、ひとりでに抜けて王の側の草を薙ぎ払った。これによって脱出が可能になった。それゆえ、その劔を名付けて草薙という。(原注)
王は「すっかりだまされてしまった。」とおっしゃった。そして即刻その賊徒を焼き滅ぼされた。それで、その場所を名付けて焼津ヤキツと言う。
東国に入ってまもなく、日本武尊を表すことばが「王」に変わります。
私はこの「王」を使う部分は、もとは「王」と呼ばれる人を主人公とする、古い物語からコピーされているのでは?という疑問を提示しました。
そこで「王」の表記のところと「日本武尊」の表記のところを色付けしておこうと思います。
また、相模サガミ(神奈川県中西部)に進み、上総カミツフサ=カズサ(千葉県房総半島)に渡ろうとした。海を望んで言挙げコトアゲ(言葉に出して明言すること)して、
「ここは小さい海だ。ひとっ跳びに渡れるだろう。」とおっしゃった。
すると海の真ん中に来た時に暴風がたちまち起こって王船ミフネは漂って渡れなくなった。
時に王ミコに従っていた女性がいた。弟橘媛という。穂積氏忍山宿禰の娘である。王に(弟橘媛は)
「今、風が起き、波も速く、王船は沈みかけています。これは絶対、海神のお怒りです。願わくは賤しいわたくしの身を、王の命に代えて、海に入ろうと思います。」と申し上げ、
いうや否や波を押し分けて海に入ってしまった。
すぐに暴風はやんだ。
船は岸に着くことができた。それゆえ、当時の人は、その海を名付けて馳水ハシルミズ(現在の浦賀水道)というのである。
弟橘媛は「古事記」には出自がなく、ここの穂積臣忍山宿禰の娘というのも、かなり疑問があります。
ここの記述も「王」表記です。
おそらく東征の部分は、何か先立つ文章があったのではないでしょうか?
そしてそれは、関東に根をおろした「タケル王」と「タチバナ姫」の物語で、
そこから一度は「景行天皇の3代前の天皇」に設定され(天武朝?)、
天武天皇が草薙剣の祟りで倒れ、剣が熱田神宮に奉還されるに及んで、景行天皇の皇子小碓命との合体が行われた、
というのが、「続ヤマトタケル」の論考なのですが、
これはすごく長い話になるので、割愛させていただきます。
関東での原伝承はこちらから
次回はこの「王」表記によって、
「日本書紀」のウソが見えてきます。
次回もぜひご訪問下さいませ。