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「美夜受比売」といいながら、「万葉集」た「柿本人麻呂」まで行ってしまったのですが、そもそもこの部分は新しい時代の誕生なのです(^^;)
今回からは美夜受比売の時代から熱田神宮に祀られている「三種の神器」のひとつ、草薙剣をめぐる謎を検証したいと思います。
さて、草薙剣というと、ヤマトタケルの最強アイテムなのですが、
「古事記」「日本書紀」ともに、東征の出発に際して斎宮倭姫命から与えられ、尾張の美夜受比売のもとに置いて伊吹山に向かったために、神との戦いに敗れたような雰囲気で(実際は書いてないのですが)展開していきます。
ヤマトタケルの最期の絶唱は
嬢子ヲトメの床の辺ベに 姫の寝床の辺りに
わが置きし 剣の太刀タチ 私が置いた草薙剣
その太刀はや あの太刀はどうしただろうか。
というものです。
なんだか悔やんでいるように見えますね(´・ω・`; )
その後は、美夜受比売がそのまま草薙剣を祀り、現在に至るまで名古屋市の熱田神宮に置かれています。ここは尾張氏の神社ですが、皇位の象徴である三種の神器にもかかわらず、なぜか天皇のもとに返すこともなく、今も祀られているのです。
倭姫が美夜受比売に
「あれは伊勢神宮に返してちょうだい」とは言わなかったのでしょうか?(・_・;?
さて、この草薙剣ですが、もとは「天叢雲劔アメノムラクモノツルギ」といいスサノオノミコトが八岐大蛇のしっぽから出てきたのを、天照大神に献上したものです。
のちに天照大神の孫で、地上を統治するために、いわゆる「天孫降臨」をするニニギノミコトに「皇位の象徴」として与えられます。
ただし、八岐大蛇のところで草薙剣に言及しているのは、
「日本書紀」本文、
本文の注、
第2の一書アルフミ、
第3の一書
なのですが、
そのうち後世の挿入の可能性がある本文の注のみが、もとは天叢雲劔であったと言い、
あとはすべて尾から出た時点で「草薙劔と名づく」と書かれています。
もともと「クサ」は獰猛という意味があり、「ナギ」は蛇の意味があります。
ウナギとかアナゴはそこから来てるらしいです。
インド神話にも「ナーガ」という蛇神がいます。関連はわかりませんが(^^;)
出雲に行ったホムツワケが帰るときに蛇体になって追いかけてきた肥長比売ヒナガヒメなんかは、まさに「肥の河の蛇ナガ姫」=斐伊川の蛇姫ですね(´゚ω゚`)
つまり八岐大蛇から出た時点で「クサナギ」なのは別段おかしいことではありません(*´・ω・`)b
また、以前に述べたように
「草を薙いだから草薙剣」という話は「古事記」「日本書紀」のうち、わずかに「日本書紀」の「一に云う」にしかないのです。(これも注です。)
今、一般に言われていることと、「古事記」「日本書紀」の記録とはどうも違うようです(-_-;)
どうも草薙剣はヤマトタケルの行動とはと関係なく、
初めから「クサナギノツルギ」だった可能性が高いのです。
もしかしたら、「東国のタケル王」に火難の話があったので、
「こいつに草薙剣を持たせよう!」となったのではないでしょうか。
まず天皇の位の象徴である三種の神器を、倭姫命が甥とはいえ、一介の皇子にほいっと与えてよいのかも気になりますが、
その後の天皇は草薙剣が手元にない状態で即位していることになりますよね(ーー;)
ずーっと時代が下って、平家滅亡の際に安徳天皇と共に壇ノ浦に沈んでしまったのが草薙剣ですが、
即位式でご覧になったように、宮中には今も三種の神器があるということも不思議ですね。
種明かしをすると、これは草薙剣の神霊を別のご神体にも移して分祀するから、それは草薙剣そのものだからOKという事なのですが、
それでも本体の草薙剣がずっと尾張氏のところにあるのも納得できないです。
もっと不思議なことがあります。
朱鳥元年(686)年6月10日、
天武天皇が病の床に就いたために占いをしたところ、
その病気の原因が草薙剣の祟りであることがわかり(・д・oノ)ノ
剣は即刻熱田神宮に送り返されます。
まず、なぜ草薙剣が熱田神宮にないのか!?というのはちょっと後回しにして、
なぜ三種の神器が天皇に祟るのか???
しかも即刻送り返したのは祟りを鎮めるためですから、草薙剣は尾張に帰りたがっていたようです。
「尾張国風土記」(逸文)には
ヤマトタケルが尾張にいたときに、夜中にトイレに立ち、剣を桑の木にかけておいたところ、剣が神霊のごとく光り輝いていて、手に取ることができなくなったため、
ミヤズヒメに「この剣は神の気を宿しているようだ。斎き祀ってわたしの形代とするように」と言ったとあります。
この時も剣はヤマトタケルと伊吹山に同行するのを拒んでいるように見えます。
極めつけは熱田神宮に伝わる「笑酔人エヨウド神事」です。
朱鳥元年の草薙剣の帰還に際し、社中こぞって歓喜笑楽した様を伝える、といい、
神事の中心となる神面は見てはならないとされ、すべては浄闇のうちに斎行されると言われています。
天皇の病気という事態のもと、漆黒の闇の中で、草薙剣の帰還を喜んで忍びやかに笑う尾張の神官たち···
人前で喜ぶことははばかられても、この時の尾張の人々の安堵と喜びが何物にも代えがたかったことを表す祭りなのです。
そう、やはり草薙剣は尾張に帰りたかったのです。そして尾張の人々も、草薙剣の帰還を心待ちにしていたのに違いありません。
吉井巌氏は
◇王権のシンボルの剣が、なぜ皇族でもない尾張氏の祭る熱田神宮の祭神
になっているのか?
◇クサナギには獰猛な蛇という意味があり、草を薙ぐ話はそこから思い付かれたのであって、天叢雲劔からの改名はこじつけではないか?
◇天武天皇の病気の原因が草薙劔の祟りとされたが、これは天皇を守るはずの神剣の在り方としておかしい。
◇天武天皇の死後、持統天皇が即位した際、忌部宿禰色夫知が鏡剣を奉っているが、これは(熱田神宮に返された)草薙劔ではあり得ない。草薙劔は真の神器ではなかったのではないか?
◇草薙劔が神器であるという伝承は、劔が熱田神宮に帰った後も、「記」「紀」に取り消されることなく伝えられる。
等の疑問を呈された上で
「草薙劔は本来熱田神宮の神劔であり、『古事記』、『日本書紀』の成立の時代にもそうであった。だが、いつの時かこれを王権のシンボルに含みいれようと意図したことがあり、草薙劔は天叢雲劔と同一視されて、天皇の側に置かれるようになった。この意図は成功するかに思われたが、破綻が来た。それが天武朝における草薙劔の祟りという事件であったと思う。そこでやむなく劔は熱田神宮に返送したが、また事実、それ以後草薙劔を王権のシンボルとして宮中に置き、即位の儀式に用いるという神器らしい扱いをしなかったが、草薙劔が神器であるという伝承だけは、皇室側にとっても別に取り消す必要もなく、神宮側にとっても光栄な伝承であると受け取られたに違いないので放置されたものと考える。」
と述べられました。
吉井氏は「笑酔人神事」について触れられてはいませんが、
ちょうど卒論の提出も終わった4回生の終わりに、サークルの行事で熱田神宮を訪れたわたしは、
その時社務所で買った「熱田神宮」という本でこのお祭りを知り、
こんなに明確な証拠が伝わっていたのかと、すごく悔しい思いをしました。この「笑酔人神事」と建部大社の布多遅比売は、ヤマトタケルの謎解きにけっこうびっくりな鍵になりました。
それはいったいなぜ、草薙剣が神器にされたのか?という謎ですが、ここはまた複雑になるので、それを解くのは次回にいたします。
それより、ヤマトタケルが尾張に置いていったはずの草薙剣が、なぜ天武天皇の時に宮中にあったのかだけをお伝えしておきましょう。
それは盗難にあったのです。
「日本書紀」天智7年(668)の条に
沙門(僧)道行、草薙劔を盗みて、新羅に逃げ向く。而シコウシテして中路に風雨にあひて、荒迷マドひて帰る。
とあり、
おそらく、この時に西国で捕まった道行から、時の朝廷が草薙剣を保護して、そのまま宮中に留め置いたと、言われています。(定説と言っていいと思います。)
後世の史書では、このお坊さんは新羅の人と言われたりもしていますが、正体は不明です。
そもそも新羅の人がなんで草薙剣を欲しがるのかも疑問ですが、
小掠一葉さんが、面白い史料を提示されていて、
「尾張名所図会」や「尾張志」といった後世の本なのですが、
愛知県知多市の法海寺というお寺が、
新羅僧道行が、天智天皇の病気平癒を祈祷して成功したので、天智7年に法海寺を創建し、勅使が下されて山号寺号を賜って国家鎮護の勅願所となった。
という旨の記載があるそうで、
調べてみると薬王山法海寺のサイトがありました。
それによると
法海寺の開基は、新羅国明信王(しらぎのくにめいしんのう)の太子の道行法師といわれ、 由緒は「日本書紀」巻27の天智天皇7年の条につながっている。 そこには、「沙門道行、草薙劔を盗みて新羅に逃げ向く、而して中路に雨風にあいて、荒迷ひて歸る」と道行の名前が登場している。 後世に編纂された寺伝の「薬王山法海寺儀軌」によれば、この後、この沙門道行は帰国を断念し当地に堂宇をいとなんでいた。 そして、天智天皇の御不例を当山御本尊に祈願して平癒した功によって、「薬王山法海寺」の勅額と寺田280町歩を賜った。