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日本武尊の西征ですが、今日は視点を変えて見ていこうと思います。



20年春2月4日、五百野イオノ皇女を遣わして、天照大神を祭らせた。


倭姫は(・・?

後で倭姫が出てくるときは、例の草薙剣を日本武尊に授けるときですが、

草薙剣の話自体が持統朝の挿入であるのは、ヤマトタケルの検証で出てきております。


ということは、本当の倭姫命は「倭姫命世記」のとおり、ここで老齢のため引退して、斎宮が交代してたりするのでしょうか?

わたしは崇神天皇の皇女の千々衝倭姫命が、本来の倭姫命ではないかと言ったのですが、

景行天皇の叔母さんならここで引退するのもありですが、景行天皇の妹ならお兄さんの治世下で、そこまで老齢とも言えません。もちろん記事の信憑性は❓️なのですが、千々衝倭姫命が初代斎宮だったと言うのも、否定はできないようです。


25年秋7月3日、(天皇は)武内宿禰タケシウチノスクネを遣わして、北陸と東方の諸国の地形、あるいは人民の有様を視察させられた。

27年春2月12日、武内宿禰は東国から帰り、
「東国の田舎の中に、日高見ヒタカミ国があります。その国の人は、男も女も、髪を椎ツチのような形に結い、身体に入墨をして、性格は勇猛です。これらをすベて蝦夷エミシといいます。また土地は肥えていて広大です。攻略するべきでしょう。」と申し上げた。

2年がかりで東国をスパイに行った武内宿禰が、良い土地だから攻めていって奪取すべきと言います。基本、大和朝廷は侵略国家ですね。


秋8月、熊襲がまた反乱を起こして、辺境に侵入することが止まなかった。

冬10月13日、日本武尊を遣って熊襲を撃たせた、時に年十六。

その時日本武尊は「わたしは弓で射るのが得意な者を得て、共に行きたいと思っている。どこかに弓の得意な者はいないものか。」と言われた。

或る者が申し上げて「美濃国に弓の得意な者がいて、弟彦公オトヒコノキミと言います。」と申し上げた。

そこで日本武尊は、葛城の人で宮戸ミヤト彦という者を遣って、弟彦公を招いた。それで弟彦公は、ついでに石占横立と尾張田子之稻置・乳近之稻置も率いて、すぐに日本武尊に従って行った。


12月、(尊は)熊襲国に到った。そこで、そこの情報や地形の険しいとか行きやすいとかを窺った。時に、熊襲に首領がいて、名を取石鹿文トロシカヤ、亦は川上梟帥タケルといい、親族をすべて集めて新築の宴を行おうとしていた。

そこで日本武尊は、髪を解き童女の姿となって、密かに川上梟帥の宴の時を窺った。そして劒を(着物の)裀ミソの裏に佩いて、川上梟帥の宴の部屋に入って、女性たちの中にいた。

川上梟帥は、その童女の容姿をめでて、すぐに手を取って席を共にし、盃をあげて飲ませながら、戯れまさぐった。

時は深夜になり、人もまばらになって、川上梟帥はまた酒に酔っていた。
そこで日本武尊は、着物の中の劒を抜き出して、川上梟帥の胸を刺した。

未まだ息のある川上梟帥は地に頭を下げ
「お待ちください、わたしから言うことがあります。」と言った。そこで日本武尊は、剣を留めてそれを待つと、川上梟帥は「あなた様は誰ですか。」と申し上げた。

(尊は)「吾ワレは大足彦オオタラシヒコ天皇である。名は曰本童男ヤマトヲグナという。」と言った。

川上梟帥はまた「吾ワレは国の中でも强力の者で、それゆえ、今の人びとは、我が威力に勝てず従わないものはおりません。吾は多くの力のあるものに遭遇しましたが、未だに皇子のような方はいませんでした。

そこで、賤しい賊徒の卑しい口をもってでも尊號を奉りたいので、お許し願いますか。」と申し上げたので「許そう。」と言われた。

そこで
「今より以後、皇子を名付けて日本武ヤマトタケル皇子とお名乗りください。」と申し上げたので、終わるや否や胸を貫通してこれを殺した。それで、今に至るまで日本武尊と称賛するのは、こういう理由である。

このあと、弟彦らを遣わし、その仲間をことごとく斬って、残るものはなかった。

こうして、海路よりに倭に帰って、吉備に到り、穴海(広島県福山市付近)を渡った。そこに荒ぶる神がいて、すぐにそれを殺した。また難波に帰りついたころには、柏(大阪府淀川河口)の渡ワタリの荒ぶる神を殺した。

28年春2月1日、日本武尊は熊襲を平定した様子を奏上して、
「私は天皇の御霊の力によって、兵をひとたび挙げて、熊襲の首領も殺して、その国をことごとく平らげました。
それで西の国も鎮まり、人民は平穏になりました。
ただ、吉備の穴の渡の神と難波の柏の渡の神のみは、人をあやめる心があって、毒気を放って通行人を苦しめ、それぞれ災いのもとになっていました。そこで、その悪神をことごとく殺して、水陸の両方の道を開きました。」と申し上げた。

天皇は日本武尊の功績を褒めて、特別に愛された。

大碓命を殺したことによる悲劇性もなく、お供も多く(いまいち活躍しないけど💦)
帰ってきた尊ミコト(天皇級の尊称)を景行天皇はことさら愛されます。
えらい違いですね。

ただ物語としては平板ですが、「古事記」にない情報も入っています。

熊襲の首領、つまり首魁を魁帥と書いてタケルと言います。景行天皇の時は梟帥と書き、ダークヒーローの梟雄に近いですが、「八十梟帥ヤソタケル」は「神武紀」にもあり、敵軍を指します。
どうもあんまり良いイメージの言葉ではないですが、川上魁帥タケルは「タケル」の称号を献上するので、さすがに「梟」は避けたのでしょう。

この人の本名は取石鹿文トロシカヤ、
厚鹿文、迮鹿文、市乾鹿文、市鹿文、
すべて熊襲の人には「鹿文カヤ」がつきますので、彼らが大隅国姶羅アイラ郡鹿屋郷(鹿児島県鹿屋カノヤ市付近)にいたと考えられています。

ここは大隅半島の西側ですが、東側には曽於ソオ郡(曽於市付近)もあり、「襲の国」であったと言うことになるようです。

いつもの地図で、ピンクが日本武尊関連

ところが川上魁帥となると、これは佐賀県に伝承が残っています。

佐賀市 地域振興部 文化財課が運営されている「さがの歴史・文化お宝帳」には
龍造寺島の起源、小碓宮・王子権現の由来が日本武尊の川上魁帥討伐にあるとされる伝承を紹介しておられますが、

また「肥前国風土記」の逸文に

佐嘉サカ郡
日本武尊が楠の繁り栄えるのを見て
「栄サカの国」と名付けた。
(日本武尊とは別に佐嘉川の川上に悪神がいたという伝承がある。佐嘉川は現在の嘉瀬川で上流を川上川という。)

小城オキ郡
日本武尊の討伐の際、土蜘蛛の城塞があった。

藤津フジツ郡
日本武尊の船のとも綱を藤の木に繋いだ。

とあるのですが、九州の風土記だから日本武尊に結びつけることもあろうかと💧

佐賀県の語源が日本武尊絡みというのはびっくりw

佐賀県は肥前で、筑紫ではないので、邪馬台国の外とは言え、近くに吉野ヶ里遺跡があるので、川上川ならギリギリ敵でしょうね。

まあ、西征はもともとヤマトヲグナの名で語られた小さ子の英雄譚で、史実性はないと考えられるので、
その範囲はやはり邪馬台国ではないということで想定されていることがわかればいいです(^^)

ということで次回は東征ですが、
こっちは「日本書紀」が重要なポイントになるので、もう少し丁寧に見ていきます。

またのご訪問をお待ちしております。

ヤマトタケルの西征についての記事です。


ヤマトヲグナと聖徳太子