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前回、新羅花郎ファランとヤマトヲグナの女装のつながりを書いたのですが、

その続きとして花郎で信仰されていた弥勒ミロク菩薩と聖徳太子のつながり、

そしてヤマトヲグナと聖徳太子のつながりから、ヤマトヲグナ伝説の推古朝の成立の可能性を説明する予定だったのですが、


少々事情が込み入ってましてまとまらない_φ(TдT )


それで、まずは弥勒菩薩信仰を先に説明させていただくことにしました・゚・(●´Д`●)・゚・


さて、我が国で弥勒菩薩といえば、これ‼️というのは京都太秦ウズマサの広隆寺の弥勒半跏思惟像でしょう。



この弥勒菩薩はどういう仏様かというと、

現在仏である釈迦如来(ゴーダマ=シッダルダ)の次にブッダ(悟りを開いた者)となることが約束されている菩薩(修行者)で、

兜率天トソツテンで修行を続け

釈迦の入滅後56億7000万年後にこの世に現れ、悟りを開いて人びとを救済するとされている仏様です。


そしてちょうど日本に仏教が伝来した6世紀ごろの東アジアでは、兜率天に往生することを望む「上生信仰」が盛んでした。


この「上生信仰」では弥勒の兜率天での修行中の姿を表した思惟像(原始仏教での修行は瞑想による思索を深め、この世の真理を見いだすことです。)が多く作られたようです。印は結ばず、片手の指を頬に当てて、考えているポーズです。


一方で「半跏」というのは片足をもう一方の大腿に乗せたポーズを指します。

あぐらをかくようなふつうの仏様のポーズは結跏趺坐といいますが、その片方をやっているということで、椅子に座るか、もう一方の脚を立て膝にするか、の形になりますが、6世紀では椅子に座るのがほとんどです。


椅子に座る仏様も、西域から東アジアには多く分布し、

脚をまっすぐ下ろした垂脚像や

脚をクロスさせた交脚像なども多くあります。


北魏の雲崗ウンコウ石窟での交脚菩薩像は、銘文によって弥勒と推定され、中国では遅くとも5世紀より前には西域から弥勒信仰が伝わっていたと考えられます。


この雲崗で交脚弥勒像の脇侍として作られているのが、半跏思惟像です。


川崎滋子さんによると(青字水無瀬注)


第六洞明窓の右に見られる半跏思惟像にはうつくまる馬と山嶽とが共に刻まれている。これは出城後、悉達太子(ゴーダマ=シッダルダ王子)が愛馬カンタカと別れる仏伝中の一 場面と思われる。こうした半跏思惟像と馬のとりあわせは他にも多く見られ、馬だけでなく従者シャノクの姿が表わされることも多い。出家前の釈迦は「 過去現在因果経」にもあるように、病者や死者又は比丘を見ては思惟しており、出家に臨んでも思惟を重ねている。このように思惟苦脳は悉達太子の根本的性行であることから太子を半跏思惟像で表わしたと思われる。


というように、出家前または修行中の釈迦如来を表したものだったようです。


ゴーダマ=シッダルダはシャカ族の王子として生まれ、王国の跡取りつまり太子として育ち、妃や男児にも恵まれていましたが、

ある日宮殿の4つの門から外出し、この世に「生病老死」の四苦があることに気づいて、その苦しみを消す方法について思惑します。


そしてすべての栄華を捨て、出家し、

さまざまな教団で荒行や断食を試みるものの、意味がないことに気づいて、

ひとり菩提樹の下で思惟を重ね、真理に至るのです。


半跏思惟像はまさにシッダルダ王子の姿だと思われます。


ところが


北斉頃に河北定県附近に見られる中山派とも呼ばれる白玉製(大理石)半跏思惟像には多く樹木が配されている。樹木の配された半跏思惟像は雲岡第九・ 十洞や竜門の魏字洞にも数例見られるが、中山派の半跏思惟像には竜樹思惟像と銘記されている。この竜樹で思いあたるのは弥勒の竜華三会である。釈迦が思惟し成仏した所は、菩提樹下であり、もしこれらの像が悉達太子像であるなら菩提樹思惟像とされるはずだから、この竜樹思惟像は竜華樹下の弥勒とみることができる。


という変化が現れてきます。


そして川崎さんは


朝鮮半島と日本で半跏思惟像を弥勒とみなしていたとすれば、その根源は北斉頃のこれらの半跏思惟像に、起因するのではないかと思われる。中国における半跏思惟像は、その様式が続く隋に至るまで主に悉達太子像として造られたと見る方が正しく、半跏思惟像が弥勒として造られたのは倚座垂脚像が弥勒として造られる以前、北斉に限られていたと考えられるのではないだろうか。


と、中国で弥勒菩薩像が倚座垂脚像に変化するなかで、北斉では脇侍の半跏思惟像を弥勒と見なすことになったのではないかと指摘されます。


朝鮮半島で半跏思惟像が、どの尊像名で造仏されたかは現存している像の中に銘文等で尊像名の入ったものがないため、推測の域を脱し得ない。だが、北魏における悉達太子半跏思惟像も半島に伝わってきたはずであろうし、中山派の弥勒半跏思惟像も河北に近い高句麗から広まったという可能性も充分考えられる。田村円澄氏は半島でこの像は弥勒として主に造られたとされ、その宗教的又は社会

的背景には新羅花郎制度が大きく存在したのではないかといわれている。田村氏は花郎制度が弥勒信仰を受けいれ制度を確立した真興王治世( 五四〇ー五七五)と、弥勒半跏思惟像が伝来した六世紀後半がほぼ同時代であることからこの説を打ちだしておられるが、果してそれだけで花郎と半跏思惟像が結びついたといいきれるだろうか。


と述べられています。


故田村円澄さんは仏教史の第一人者といえる方ですので、その方の指摘に新羅花郎が覗いているのは心強いことなのですが(*´▽`)

今しばらく川崎さんの論説を見てみると


平安中期の「聖徳太子伝暦」が聖徳太子を救世観音グゼカンノンの化身として以来、中宮寺の半跏思惟像四天王寺の本尊の「半跏像」が救世観音または如意輪観音とされるようになる、ということが説かれています。


じつは東京の国立博物館では「弥勒菩薩半跏思惟像」とされる中宮寺(法隆寺に隣接する尼寺)の半跏思惟像や広隆寺の「泣き弥勒」が寺伝では「如意輪観音」とされるなど、不審だった点が多かったのですが、

川崎さんがそれを解き明かしてくださっているのがたいへんありがたかったのです。


川崎滋子さんの論文「半跏思惟像考」にはちょうどわたしの知りたいことが載っていましたので、今回はそれをもとに弥勒菩薩半跏思惟像について見て参りました。


次回は聖徳太子と弥勒、さらには花郎とヤマトヲグナをつなぐことでわかる最初のヤマトタケル像に近づきたいと思っております。


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