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突然の再開( ̄▽ ̄)w


この前言っていた清少納言のダンナについて、です。


香炉峯の雪

「その5」の最後に、次は藤原斉信です、と言ってたのですが、このあたりから事情説明がややこしくなってメゲていました。


幸い斉信タダノブさん(はんにゃ金田さん)も、行成ユキナリさん(渡辺大知さん)も、F4とやらで話題になり(道長、公任とFUJIWARA4人衆的な?)、

だいたいのキャラがひろくわかっていただけるようになったので(;^_^A


ネタバレもあるのですが、再開してみました🎵


でも斉信のことを全面的に取り上げると、めちゃくちゃネタバレになるので、

今回はそのつぎに予定していたダンナさんの方で(^^;)



🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊🍊←橘


清少納言(大河ドラマではファーストサマーウイカさん)の夫は橘則光ノリミツという人でした。


母が花山天皇(本郷奏多さん)の乳母の一人で、当然花山天皇の側近でもあり、

橘三千代や橘諸兄に始まる橘氏の氏長者(本家)でもありました。


二人の間に生まれた橘則長ノリナガは982年生まれなので、当時則光は18歳、清少納言も同じような年頃で、二人とも初婚であったと思われます。


清少納言の父清原元輔は、天武天皇の末裔で「梨壺の五人」として当時の歌壇を代表する人物でありながら、

62歳でようやく従五位下河内権守に叙位されたやっとこさ貴族、

その後上国の周防守にも任じられ、それなりに蓄財できたと思われますが、

遅い出世でした。


毛髪がすっかり抜けておいでで、烏帽子が脱げちゃって……という逸話がおありの方なので、漢詩の会で登場したときは

元輔に大注目👀したけど、ドラマでは毛があったわw


一方の橘則光の橘氏は平安時代初期までは有力な貴族であった上に、

則光も花山天皇の側近、

かつ花山天皇最愛の女御♥️忯子ヨシコ(井上咲楽さん)のお兄さんの藤原斉信(はんにゃ金田さん)の家司=家来であったので、

けっこう将来性もあって、


この結婚は清少納言にとって、わりといい縁談であったと思います。


ドラマでは、打毬の試合の時に斉信はすでにききょうに手をつけていた?感じだったので、家司の則光が押し付けられた的なことになっちゃいますねw  斉信との交流がちょっと早すぎたかしら(^^;)


986年に清原元輔が肥後守になって、それも則光の推薦によるものと見られているので、

清少納言は中流の貴族の北の方として、それなりにいい生活ができていたと思われます。

(確かにききょうが着ているものは、まひろよりちゃんとしてますね。)


ところが則光も、例の寛和の変(986)で、兼家一家に騙された花山天皇が出家してしまうという悲運にあってしまいます。子どもは幼いし、前途真っ暗です。


そのせいでもないでしょうが、清少納言は、単なる北の方として収まらなくなってしまったようです。


ただ、当時は子どもは母の元で育つし、

清少納言の出仕は993年頃なので、息子の則長もそろそろ元服ゲンプク(成人式)で、まあまあ子育て終わりの出仕ということになるでしょう。


「清少納言集」で、則長の鞍馬山詣の帰りを待つ歌もあるので、則長への愛情はちゃんとあったようですが、この頃は共に住んではいないようでした。



さてこの二人は、夫婦としては疎遠になってからも、妹背イモウト·セウトと呼び合う仲で、宮中でも有名だったようです。


清少納言は、「万葉集」などを読んでいて、「妹背」が恋人や夫婦を表すのを知ってたのかもしれませんね。それでレトロで洒落た感じで「背の君」と使っていたのかも、と思うんですが、

だいたいそういうことをしても、周りは分からないのがオチで、

「兄さん・妹」にとられちゃったのでは?(^^)


橘則光はあまり頭の回転が速い人ではなさそうなので、清少納言が面白いことを言っても、反応がスカタンで

清少納言のロマンチックな恋のお相手には無理でしたが、


夜道で会った強盗を逆に撃退した(3人も斬った❗)ほどの武闘派だけど、俺が斬ったというニセの武勇者?が現れて、

「警察沙汰にならなくて助かった~💦」なんて言ってる人です。


わりと可愛げがあるのかもねぇ、と思います。


則光については「枕草子」に次のエピソードがあります。


「里にまかでてるに」より


(わたしが)自分の家に退出している時に、殿上人などが訪ねて来ると、何かあるんじゃと人々は言い合うみたい。まあ、わたし自身も何か深い志があって引きこもっているわけでもないので、そのような噂話には腹は立てるほどではないわ。

だけど、夜も昼もしょっちゅう来る人に対して、どうして「いません。」などと言って気まずい思いをさせて帰らせられるかしら?めちゃくちゃ親しく付き合っているというわけではない人でも、そのようにしきりに来る人もいるのよ。


(それが)あまりに煩わしいので、今度退出した所は、どこなのかは人に知らせずに、左中将(源)経房ツネフサの君、(源)済政ナリマサの君といった親しい人だけがご存知だったの。


これは清少納言が、道長推しで有名だったせいで、

中宮定子の兄の伊周コレチカ(三浦翔平さん)と、叔父の道長(柄本佑さん)の対立が深まるにつれて、その事を陰で非難され、宮中に居づらくなってしまったからでした。


道長は中宮大夫、つまり中宮定子の家政を司る役所の長官でしたし、

道隆一族みんな素敵~💕って思っている少納言にとっては、アイドルグループの○○くん推し❣️のレベルだと

(定子様一門の道長くん推し❣️)

思うのですが(^^;)


「あの人は道長派」とか「道長のスパイ?」( →_→)みたいなのに耐えられなかったのでしょう。


ただ里下がり先を教えた中には、橘則光も入っていました。


左衛門尉の則光がやって来て、雑談などした時に、

(則光が)「昨日、宰相の中将(藤原斉信)が殿上の間=天皇のいる清涼殿の殿上人の控室に参上され、

(斉信様が)『妹がいる場所を、まさか知らないということはないだろう。どこなのか言えよ。』と、めちゃくちゃお聞きになるんで、

ずっと知りませんていうんだけど、無理矢理に話させようとするんだよ。」などと言って、


斉信(はんにゃ金田さん)はドラマでも清少納言を気に入っていましたね。

実際に清少納言とは親しい間柄でしたが、この時は居場所を教えてもらっていません。


ドラマではそこまで書かれないような気がするので(書かれたらごめんなさい💦)

ネタバレ覚悟でいいますと、


伊周が失脚する「影の功労者」と考えられるのが、この斉信だったのです。


斉信は伊周が失脚した「長徳の変」までは、蔵人頭(天皇の秘書)と近衛中将を兼任する「頭トウノ中将」でした。


それが「長徳の変」で参議と近衛中将の兼任である「宰相サイショウノ中将」になっています。


華やかな定子(高畑充希さん)のサロンで、ひときわ注目されていた貴公子の斉信、

しょっちゅう中宮様のところに来ていた斉信だったのに、

それは清少納言にとっては裏切りに等しい行為だったでしょう。


じつはこの里下がりが長引いたために、清少納言は「長徳の変」の時に、

あの大好きな定子様のお側にいることができなかったのです。


そしてそのまま出仕の機会も失って、少納言はずっと世の中から隠れているような状態でした。


そのふがいなさも相まって、斉信は清少納言にとっては「顔も見たくない」人になっていたのです。


則光もそれはわかっていたでしょうが、

これは斉信の家司の則光にとっては、キツい❗


(則光は)「知っていることを知らないと言って抗うのは、ほんと困ったよ~💦ついつい笑いを浮かべそうになって、

左の中将(経房)が、ボク知らなーい( ̄▽ ̄)みたいな顔をして座っていらして、あの方と目が合うと吹き出してしまいそうだし💦

困って、台盤(テーブル)の上に和布=ワカメがあったのを取って、ただそれを食べに食べて誤魔化したけど、

食事の時間でもないのにおかしなものを食べているなと、周りの皆から見られてしまったね。

だけどそのお陰で、あなたがどこにいるのかを言わずに済んだ。笑ってしまっていたら、ヤバかったよね。それで本当に知らないようだと頭の中将(斉信)がお思いになったので、(私の演技力v(・∀・*)だと)嬉しくなっちゃったよ。」と語るので、


(わたしは)「今後も、絶対に教えてはダメよ🆖」などと言って、それから日にちもずいぶん経過したの。


斉信に詰問され、ひたすらワカメを口に詰め込んで、何とかやりすごしたって、バレてないか心配です。

なんか居そうな感じで、兼家一家に比べると親しみが持てるんですがw



夜がたいそう更けてから、門をすごい勢いで叩く人がいるので、なんでまたこうも無遠慮に、母屋からも遠くない門をドンドン叩くのだろうかと思って、人をやって聞かせると、宮中に勤務する滝口の武士だったの。

(武士は)「左衛門の尉様のお手紙です。」と言って、

手紙を持っている。もう皆寝ているので、灯火を持ってきて見ると、

(則光手紙)「明日は御読経の結願の日ということで、宰相の中将(斉信)が、宮中の物忌で殿上に籠っていらっしゃるんだよ。

『妹の居場所を教えろ、妹の居場所を教えろ。』責められて、どうしようもありません。もう隠し続けることができません。どこにいるか教えようかと思います。いかがでしょう?仰せの通りに致します。」

という手紙の文言に返事は書かないで、和布(ワカメ)を一寸=3cmほど包んで使いの者に持たせた。


かわいそうな則光ですが、ちゃんと聞きに来るのが律儀というか、信頼を失いたくないようです。


清少納言は、この前みたいにお口に詰め込んでも言わないで🤐と言うことで、ワカメを渡します。



その後、(則光が)やって来て、

「あの夜は宰相の中将(斉信)に責め立てられて、テキトーな場所へとあちこち連れて行ったりしたんだよ。(斉信様も)本気で私のことを非難するので、とても辛かった。

いったいどうして、あの時にちゃんとお返事をなさらずに、無意味な和布=ワカメの切れ端なんか包んで送ってきたんだい。おかしい贈り物だね。

人のところにそんな物を包んで送るということが普通あるかい?何かと間違えちゃったんですか?」と言う。


こちらの言うことがゼンゼン分からなかったのだなとがっかりして、物も言わずに、硯の中にあった紙の端に、


かづきするあまの住家をそことだにゆめ言ふなとやめをくはせけむ

(水に潜っている海女=隠れすんでいる私の住み家をそこだとは、絶対言うなという意味でワカメを食べさせようとしたのよ)


と書いて簾の外に差し出したところ、

(則光は)「歌をお詠みになったのですか⁉️絶対に見ませんよ❗」と言って、その紙を扇であおぎ返して帰ってしまった。


歌をパタパタとあおいで、シッシッとしちゃった則光ですが、「源氏物語」などでは花に思いを託して渡したり、

清少納言の勤務先が、ものすごく機知にとんだ中関白家(道隆、貴子、伊周、定子、隆家)だったために、


古典を読むと察しのいいオシャレな会話が交わされていたと思いがちですが、

あれはあくまでも理想像だったようです。


といってもKYが辛いのも変わらないけど💦清少納言も容赦ない~💦



このように語り合い、お互いに後見をしたりしているうちに、何かあったわけでもなく、少し仲が悪くなった時に

(則光が)手紙を送ってきた。


「不都合なことなどありましても、私と契りの約束を交わしたことはお忘れにならないで、遠くからでも則光だなと見て欲しいと思っています。」と言ってきた。


いつも則光は、「私を想ってくれるのであれば、どうか私に歌は詠まないで下さい。歌を送ってきたらすべて仇敵と思うことにします。もう絶交しようと思った時には、歌を詠んで送って下さい。」などと言っていたから、この手紙の返事に、


崩れ夜 妹背イモセの山のなかなれば 

さらに吉野の河とだに見じ


と詠んで送ったのだが、本当に見ないままだったのだろうか、返事もこないままだった。この後、(則光は)五位の冠位を得て、遠江介トオトオミノスケになったので、仲違いをしたままで終わってしまった。


則光は武勇のほまれ高く、いちおう「金葉和歌集」に入選するほどの歌人であったのですが、

清少納言の機知にとんだひねくった歌は苦手だったのでしょうか?


この話を読むと、清少納言のことを忘れず愛してるし、いい人そうなのですが、

清少納言も内心頼りにしてて、でもちょっと甘えがあって、意地を張って、歌を送ったりしちゃったのかと思います。


「光る君へ」では中関白家のウィットに富んだ楽しい雰囲気はあまり描かれてないので、その中にいる純朴な則光の魅力も見られないのは残念ですが、


まあ中関白家はヒールになるので仕方ないですね。


あまりにとんだので、この記事の前の清少納言のシリーズにリンクを貼っておきますね。

でもネタバレはご容赦くださいませ。

まだ「光る君へ」の発表前でしたので(^^;)



https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12569200258.html


https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12572921121.html


https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12597237866.html


https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12597684178.html


https://ameblo.jp/reki-sanpo/entry-12612614021.html


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