0ご訪問ありがとうございます。少し期間が空いてしまいましたが、清少納言に戻ってきました


さて、清少納言と定子の家族とのやりとりを前回ご紹介しましたが、
他の女房たちはどんな風にしていたのかといいますと、

いわゆる平安時代のお姫さまのイメージとは違い、読んでいると意外なほど現代的な姿が描かれています。

まずは「故殿の御服の頃」という段です。

故殿というのは、定子の父道隆のことです。
前回の積善寺供養からわずか1年と2ヶ月のち、道隆は持病の糖尿病が悪化して亡くなってしまいます。


豪放磊落、酒好きでお茶目なところも愛された関白でしたが、享年43歳、次女の原子が東宮(皇太子)に入内したばかりの早すぎる薨去でした。

御服の頃というのは、その服喪の期間をさします。

6月末の大祓の行事に中宮がお出ましになるのに、服喪中ということですので宮中には入れません。

こういう時には、内裏の外側にある官庁街「大内裏」にある中宮の世話をする「中宮職=ちゅうぐうしき」の集会室の建物「職の御曹司=しきのみぞうし」が、中宮の御座所として使われるのですが、

この時期はあいにく方角が悪いということで、
太政官庁(内閣府みたいなもの)の
「朝所=あしたどころ➡あいたどころ」
という場所に定子の御座所が設けられました。

朝所というのは、当時夜明け前から出勤していた官人に朝食が供されていたのですが、
参議以上の、今でいえば内閣に相当する超高官たちの朝食が出される建物でした。

とはいえ、太政官庁なので、檜皮葺きの優雅で日本風の宮中とは違い、
少納言によれば
狭く、瓦葺きで格子も無く、御簾だけが周りにかけてあり、珍しくて面白い。
萱草(かんぞう)というオレンジ色の花で籬を作っているのが格式ばった所に合っている。
ということですが

母屋の周りを一段低い庇の間が取り囲み、外側にある簀の子縁との間に
も格子、つまり蔀戸が壁と窓のように使われ、
それぞれの空間は御簾や壁代というカーテンで幾重にも仕切られるという普段の空間からは考えられない簡素な造りです。

そんな場所にきた定子の女房たちは
不安にもならず、庭に降りたって遊んだり
北隣の陰陽寮の漏刻司で毎時に鳴らされる鐘を見たがり、若い女房20人あまりがなんと鐘楼に登ってしまいます。

少納言は朝所にいて、見上げていたようですが、
薄鈍色(喪服の色、薄いグレー)の裳や唐衣、表着に紅の袴で登っているのが、天人とは言わないが空から降りたってきたようだと描いています。

若い女房というのは今でいえばJKでしょうからキャピキャピなのでしょうが、真っ昼間に十二単の正装で梯子段を登っていくって、さすがにびっくりですね!思ったより行動力があるもんですww

夕暮れになると、今度は少し年輩の女房たちも加わって、左衛門の陣に見物に出かけます。

そこは陰陽寮の北の賢春門で、左衛門府の詰め所があったのですが、
女房たちはそこで三位以上の公卿の座る椅子(いし)や役人の座る床几に上ったり、倒したりと大騒ぎ
宿直の人の注意にも耳を貸さず、笑っていたとか・・・

こういうことを聞くと、二十歳前後の女の子たち、平安時代の貴族層であっても、集団でいればこんなものなんだなあと思います。

こういう物語にはない普段の姿が見られるのが「枕草子」の面白い所です。

さて、この時は若い女房たちのパワーに押され気味の少納言ですが

長徳の変後に定子が「職の御曹司」で過ごしていたとき、
清少納言の「左衛門の陣に行って見よう」という誘いに、
皆がぞろぞろとついてきます。

するとそこへ殿上人たちが大勢現れ、漢詩の朗詠する声もするので、
さすがに見知った殿上人との鉢合わせはきまりが悪く、逃げ帰るのですが、
御曹司にいると
殿上人には
「月を見ておられたのですね」と感心する声もして、
あらあら、見られてますね( ´艸`)

女房たちは当時の貴族層の女性にしては、とても広い世界にいたようですが、それとて内裏の中だけのこと・・・

内裏の外側に広がる男性社会に好奇心いっぱいで覗きに行った、遠足気分の彼女たちはとてもいきいきと愉しそうです。

そんな女房たちに定子はよくクイズを出して楽しませています。

それはまだ定子の周辺の華やかなりし頃、天皇の日常の御殿である清涼殿に定子が参上していたときのことです。

定子が女房たちに古歌を書かせます。
皆がその場にふさわしい歌をとおもい悩みこむのですが、少納言は

年経れば 齢(よわひ)は老いぬ
しかはあれど
花をし見れば 物思ひもなし

という歌の下の句を

君をし見れば 物思ひもなし

と中宮を讃える歌に変えて書きつけました。

中宮は
「そうそう、こういう機転が欲しかったのよ」と、かつて道隆が一条天皇の父の円融天皇に対して同様のことをしたと話し
少納言はお褒めに預かり恐縮します。

そのあと中宮が古歌の上句を示し
女房たちが下句を答えるというクイズが始まりますが、
あらあら、他の女房たちばかりか、いつも機転をきかせて和歌を引っかけたやりとりをしている少納言も、天皇と中宮が並んでおいでになる緊張でか、ぜんぜん下句が出てきません。

少納言と並び称されていた才女の宰相の君も十首ばかりしか答えられず、誰も答えられないものもあり、答えを聞けば有名な歌なのに、これではせっかくの中宮の遊びが台無しになってしまうわと女房たちは嘆き合います。

そこでまた定子はかつて村上天皇が宣耀殿女御の藤原芳子に古今集全巻の和歌をテストした時、女御がすべて答えた故事を話すのですが
こういう遊びの中でも定子自らが女房たちの知的水準向上を図っているようにも見えます。

「枕草子」は定子のサロンを絶賛し、定子の産んだ第一皇子の敦康親王の立場の向上を図ったとも言われていますが、

そういった意図を考えなくても
こういう日常の風景の中に、定子がサロンのリーダーとして存在していた様子が見えます。

もちろん少納言は定子の素晴らしさを喧伝するために「枕草子」を書いたのでしょうが、
女房たちにとって年若い定子が先生でもあり、憧れでもあったことは真実のように思います。

もう一つ、有名な逸話で絵の題材にもなった「香炉峰の雪」の話です。

ある雪の深く積もった日に、寒いからでしょうか、格子を上げず、炭櫃に火をおこして伺候していると
中宮が
「少納言よ。香炉峰の雪はいかならむ」と仰せになります。

そこで少納言は格子を上げさせ、御簾を高く巻き上げると
中宮は笑って喜ぶのでした。

これは白楽天の「白氏文集」に
「香炉峰の雪は簾を掲げて見る」とあるのを踏まえたもので、
他の女房も
みんな知っていて、和歌にも歌い込んだりするのに、こういうことは思いつかないわね。やっぱり少納言さんはこの宮の女房として、なくてはならない方だわ。
といいます。



上村松園(「上村松園・松篁・敦之展」図録より転載)

紫式部が自ら、一の字も読めないふりをしていたと述べたのと対照的に
ここでは漢詩の教養が当然のように描かれています。定子の母は女流漢詩人の高内侍(高階貴子)ですから、
女性が漢字を読み書きすることに対してアレルギーがなかったのかもしれませんし、

そういった事情があり、女性が男性と同じことをすることにも違和感が少なかったのかもしれません。

そういった定子の価値観が
女房たちののびやかさを育てているように見えるのです。

皆が憧れる中宮の思うように答える少納言、まさに定子のサロンには必要不可欠な人材となっていったのです。

ところが、その少納言が耐えがたい事態が起こります。

長徳の変で伊周、隆家が失脚した頃、
定子は、自分の二条宮に逃げこみ妹の手をとって逮捕を拒否する兄が目の前で連行されるのを目の当たりにし、鋏で髪を切ってしまいます。

それは天皇に愛され、自分には家族を守る力があると思っていた定子には、たいへんなショックであったでしょう。また、天皇への抗議であったとも考えられます。

ところがこの時、少納言は里下がりして、定子のそばにはいませんでした。

清少納言はもともと関白の弟、伊周にとっての政敵の藤原道長のファンであったようで、定子にもからかわれいますが、
それは伊周の政敵になるとは思いもよらず、(道長は4男坊なので、政権を握る位置にはいませんでした。)道隆の一族への憧れ半分のものでした。

けれども、事態が変わると少納言のことを悪く言う人も出てきて
何か噂をしている女房たちが少納言を見ると口をつぐむというような雰囲気が続き、
さすがの少納言も宮仕えから身を引いていた時期だったのです。

しかも仲良くしていた藤原斉信、
この人は先代の花山天皇の外戚でしたが、道隆の父兼家の策略にひっかかって花山天皇が出家してしまったために、出世コースから外れた人物でした。

長徳の変のそもそもの発端は
花山天皇がかつて溺愛し、その死が出家の契機となった忯子の妹四の君に通い始めたところ
同じ屋敷にいた三の君のところに通っていた伊周が、花山天皇を恋敵と勘違いし、相談を受けた隆家が花山天皇の一行を襲撃した事件です。

花山天皇は出家の身で女性のところに通っていたのも外聞が悪く、院の御所に閉じこもっていたのですが、それがどこからか洩れて
関白に準じる内覧の地位にいた道長の耳に入ります。

その出所が、忯子や三の君、四の君の兄弟であった斉信ではないかと疑われるわけで、
実際斉信は長徳の変の当日、中将のまま参議(宰相中将)に任じられ、公卿に列することになります。

天皇の秘書官の頭中将時代は役目がら定子のもとにもよく顔を出し
もともと貴公子ぶりがほめそやせていた斉信は、
かっこいい貴公子love♡の清少納言とも親しかったのですが、

それが裏目に出てしまったのです。

長期にわたる里下がりの間、定子の御殿二条宮は放火で焼け、定子は祖父高階成忠の屋敷に移ったあと、母貴子と死別し、
その後小二条殿という屋敷を御所にしました。

そして第一皇女修子内親王を出産します。

こういう時に清少納言がお側を離れることを「絶えてあるまじけれ」
あってはならないと本人も述懐していますが、
さすがに定子からも連絡もなく、
自分の立場の微妙さもあり、出仕できずにいたのでした。

そこを源経房という貴族が訪ねてきます。

彼は中宮御所を訪ねた時の様子を語ります。

中宮御所はすべてがしみじみと趣深いたたずまいで、
女房も朽葉(表紅・裏黄色)の唐衣、薄色(薄紫色)の裳を身につけ、その下にそれぞれ紫苑襲(紫~萌黄の重ね)や萩襲(紫~赤紫系の重ね)の袿を重ねた秋の装いで
気を抜かず優雅な様子でお仕えしていました。

そして御所の庭に草が生い茂っているのを見た経房が「お手入れはなさらないのか」と聞くと
宰相の君が
「刈らずにおいて露を置かせてご覧になるのです」と答えます。
どこまでも風流な雰囲気なのでした。

そして経房は
こんな折にこそ清少納言が伺候するはずなのに、どうして出仕しないのでしょう?と言っていたという女房たちの言葉を伝えます。

この後、定子からも連絡があって、少納言は再出仕を果たすのですが、

この御所の様子に少納言以外の女房たちの様子も見えてきます。

突然親兄弟の後ろ盾をなくし、頼るところは母方の中流貴族の高階氏のみ、御殿ももとの二条宮よりはるかに小さく、庭の手入れまで行き届かなかったのでしょう。

しかし女房たちはけっして弱みを見せず、装束も宮中同様に整え、庭の草も露の美しさを愛でるために刈らないのだと答えるのです。

「枕草子」は中宮の悲劇にはいっさい口を閉ざし、中宮の素晴らしさを称えていることは以前から指摘されていることですが、

それは清少納言ひとりの意志ではなく、定子に仕える女房たちの総意であったと思います。

「枕草子」は定子サロンの日常、
さまざまなものへの価値観など
多彩な内容で構成されています。

このブログにも似たユニークな作品は、まさに共感によって世に伝わって行きました。

その最初の段階でいいね!をつけた人々が、彼女たち同僚の女房たちならば、
彼女たちも少納言と同じく、凜とした態度で、定子のサロンを守っていたのがうかがえます。

次回は今日登場した斉信との交流を見ていこうと思います。

またのご訪問をお待ちしております。

この続きはすごく飛びますのでこちらからどうぞ(*´∀`)つ