ご訪問ありがとうございます。

さて、これからサロンの雰囲気を描こうと思うのですが、

本家ヨーロッパのサロンが主人(女主人の場合も多い)が、自宅の客間を日を決めて開放し、そこに文化人や思想家、芸術家が集まるという形であるのに対し。

日本ではもう少し緩やかに、貴族たちの交流の場としてのサロンがありました。

それは平安時代の建物が非常に開放的で、さすがに後宮の屋内にいきなり入ってくる貴公子はいませんが、すのこ縁などから声をかければ、すぐに室内にいる女房(女官)が応答するという構造上、日時を約束し、客間に招くという慣習が儀式以外はなかったからでしょう。

実際、日本家屋では縁側や玄関先で、ふいに来た来訪者と話をするようなことは
最近でもよくありました。(サザエさんのアニメでも日本家屋の開放的な感じがしますね。)
そんな感じで、公用の人もそうでない人もちょこちょこと訪問するような場であったわけです。

もちろん来訪者の多寡は、その後宮の主の権力にもよりますが、
そこの御殿の雰囲気が面白いとなれば、そこにはおのずと教養のある文化人たちが集まってきます。ご機嫌伺いやちゃんとした用事でなく、ちょっと遊びに行こう的な訪問も増えます。

女主人の中宮定子はさすがに姿を見せることはありませんが、まず応対する女房たちの受け答えや雰囲気がよければ、楽しいサロンという印象になるので、
中宮のおそばに仕える上臈たちより、少し下の取次などをする中臈あたりにはよりタレント性が求められるのでした。

清少納言はまさにその中心にいて輝いた中臈階級の女房でした。

少し後の時代、中宮定子が苦境に立ってから後宮入りし、一条天皇の中宮になった藤原道長の長女彰子の御殿では、紫式部、赤染衛門、和泉式部といった有名な面々が集められますが…残念ながら紫式部は知識のあるのをひけらかすのは浅はかなことと清少納言を罵倒した人物ですし(*´Д`)、
赤染衛門は「栄花物語」を書いた歴女( 一一)
和泉式部は恋に生きた女性なので(・。・)
はたしてその後宮はどうだったのでしょうか?
雰囲気は少し違ったように思いますね。

「枕草子」のような、まるでブログのように日常や自分の好みを書き連ねたようなものはほかにないので、何とも言えないのですが
定子の後宮サロンのような雰囲気があったかどうかでいえば
やはりあの雰囲気は明るく機知にとんだ定子がいてこそのもの…
そして清少納言のような相方?がいてこそであった気がします。

「枕草子」には清少納言が評判をとった(要はウケた)やりとりが多く残されていますが、
それはけっして自慢話ではなく、定子のサロンにあって活躍した自分を描くことで
定子のサロンの楽しさ、知的レベルの高さ、宮廷内での注目度の高さを表現している気がします。

それでは、ちょっとばかりその掛け合いをのぞいてみましょう。

まだ、定子の父道隆が関白として世にあったころ…

中宮の弟隆家が見事な扇を姉の中宮に差し上げようと思うのですが、
あまりにも見事な扇の骨なので、それに張る紙がいいかげんなものでは釣り合わないので、探しているということを言います。

中宮はいったいどんな骨なのかと問うのですが
隆家は
「何もかも素晴らしいのですよ。皆も『本当にまだ見たことのない骨の様子だ』と申します。本当にこんなに素晴らしいのは見たこともありません」と声高に話すのです。

あれあれ?ほんとうにこの骨は実在するのでしょうか?
あまりこういう指摘は見ないのですが^^;私は本当にそんな骨があるのかな?
扇の骨というなら、象牙だとか、塗に細かい螺鈿がしてあるとか、唐渡の香木だとか…
何かしら説明できるものだと思うのですが、隆家の話はぜんぜん具体性がありません。

清少納言もそう思ったのではないでしょうか?

そこで彼女は
「さては、それって扇の骨ではありませんね。クラゲの骨でしょう!」といいます。

そう。見たこともない骨って、クラゲ(には骨がないので)の骨なんですねーって茶化したわけです。

そうすると隆家も大ウケ( ゚∀゚)アハハ
「それは僕が言ったことにしちゃおう」といいますが

やっぱり骨は話のネタで実在しなかったのではないかしら?
隆家は素晴らしいオチを清少納言が考えてくれて、喜んでいた気がします。

快活で明るく、向こう見ずで負けん気の強い彼は、上皇である花山院とやり合ったりしていましたが、挙句の果てには花山院を誤射し「長徳の変」を招いてしまいます。

隆家は長徳の変の後、出雲権守に左遷され、のちに許されて中納言にもどり
その後、大宰権帥(これは流罪ではありません。普通の転勤です)になり、

当時中国本土の日本海沿岸にいた刀伊(女真族)が北九州に攻めてきたとき(これを「刀伊入寇」といいます)
九州の豪族らをまとめて勝利しました。

その後は道長にも一目置かれる存在となり、辛口歴史物語の「大鏡」でも賛辞を寄せられています。平安貴族にしてはなかなかかっこいい男です。
花山上皇を誤射したくらいなので、弓矢の練習などもしていたのでしょう。

道隆は糖尿病らしき病で、43歳で死去しますが、性格的にも道隆に似ていた隆家がもう少し大人になるまで生きていたら、歴史も変わっていたかもしれません。

その道隆の軽口も清少納言は書き留めています。

正歴5年(995)の春先、
道隆が父の屋敷跡に建立した積善寺というお寺の供養に参加するために、中宮定子は二条宮という里邸(宮中から出て実家に下がるときの御殿)に入られるのですが、

そこへ現れた関白の道隆は女房達を見まわし
「中宮様はこんなにすばらしいかたがたを並べてごらんになっているのはうらやましいね。一人たりとも劣った人はいない。また皆さんしかるべき家のお嬢様なのだからたいしたものだ…それにしてもあなた方は中宮様の御心をどうだと思ってお仕えするのやら。
このケチな中宮様といったらひどいお方ですよ、私は生まれたときからお世話申し上げているのに、衣一つも賜ったことがないんです。もう陰口では済まないから、御前ではっきり言っておきますよ。」といい、打ち笑う女房たちに
「ほんとうに私をあほな男だと思って笑われているのですね。恥ずかしいなぁ。」といいますが、こういう自虐ネタはいつものことらしく

ほかにも居並ぶ女房たちをかき分けて出る際に
「やあ、素敵なお方たちだね。こんな年寄りを馬鹿だねと笑っていらっしゃるんだろうな。」と、声をかけている場面もあります。

まだ40歳すぎのころですが、いつも女房たちに軽口をたたく、気さくなおっちゃんで
その気質を受け継いだのが定子と隆家だったといえます。

この積善寺の供養は、「枕草子」の中でも長大な段なのですが、
清少納言にとっては、主家、道隆率いる「中関白家」の最も晴れやかで、華やかであった記憶としてとどめられていた出来事だったと思われます。

その積善寺供養の前、中宮定子が宮中から宿下がりした二条宮の、
御前の階段の前に、3mばかりの満開の桜が咲いていました。
清少納言はまだ梅が満開の季節なのに???とよく見ると、なんとそれは道隆が用意させた造花なのでした。

その出来栄えも本物のようで、少納言(清少納言は「清原氏の少納言」という意味、通常の呼び名は少納言)は
どんなに作るのが大変だったでしょうね…雨が降ったらしぼんでしまうだろうに…
と思うのですが、新築の御殿にはまだ趣のある木立もなく、明るく、すがすがしさの残る御殿ということですから、きっと似合っていたと思われます。

ここには定子の母高階貴子や妹たちも集まり、当日のために女房も夜は里帰りして準備をしたり、みんな何を着るのか、どんな扇を用意したかと大盛り上がりなのでしたが、

御前の桜は日が当たって褪せてきたところに夜の雨にあってしまいます。

少納言は早く起きだして
「こんなになっては泣いて別れようとするときの顔よりひどいわね」と漏らすと
中の定子も目を覚まし
「雨の降る気配があったわね。桜はどうなったかしら?」とおっしゃいます。

するとそこへ、侍や下仕えのものがおおぜい、花のもとに駆け寄ってきて、
「こっそり行って暗いうちに撤収しろといわれたのに、夜が明けてしまったぞ。まずいことをした。早く早く!」と、桜の木を倒して持っていきます。

教養のある相手なら和歌に引っ掛けて洒落たことを言ってやりたい少納言ですが、
なんせ武骨な侍たちですから
「あの花盗人は誰?それって悪いことなんですよ。知らなかったのね。」といってやると
侍たちも笑って、大急ぎで木を引きずって持って行ってしまいます。
少納言、侍相手にも笑いを取りに行くんですねw

翌朝定子も花のないことに気づき、「明け方、花盗人がいるって言ってたのは、枝を少し折る人がいるということだと思ってぼんやり聞いていたけれど、誰がしたの?見たんですか?」と少納言に問われます。

少納言は関白の趣向だと思い、
「いえいえ、違います。まだ暗くてよく見えませんでしたが、白っぽい影が見えましたので、花を折るのではと気がかりになって言っただけです。」ととぼけます。

定子も
「それでもこんな根こそぎは誰が盗るでしょう、殿がお隠しになったのでしょう」と言いますが
少納言は
「まさか、そのようなこと!
春風のしわざでございましょう。」
ととぼけます。

定子は「春風なんてしゃれたことが言いたくて隠すのね。ふりにこそふれっていうことだわ」と言いますが、
これは
「花の色は 移りにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」のように、世に長くあって古くなったことと雨が降ることの掛詞です。

人麻呂の歌を踏まえているという説もありますが、とっさの機転で自分の考え(雨で古びたので関白が捨てさせた)をうまくまとめています。

しかし関白道隆が登場し例の軽口で
「あの花を盗まれるなんてええ加減な女房たちだね。寝坊して気づかなかったのかい?」というと

少納言はつい、「『我より先に』と思っていた人もおりました」と言ってしまいます。

これは壬生忠見の歌をひいて
早くから花見をしようとしたら先客(朝露)がいた⇨私が起きた時に花盗人が先にいたんですよ。という意味にもとれるのですが、
「もう雨に濡れて花はクタクタでした=花盗人より先にいましたよ」
という方が話に合うような感じを受けます。

さて、それを耳ざとい道隆に聞かれて
「やっぱりそうか。他の人は物音を聞いてもわざわざ出ては行かないね。見つけるとしたら、宰相かお前さんだろうと思っていたよ」と言われると

定子にも
「それなのに少納言は春風のせいにするんですよ」と少納言は笑われてしまいます。

「風のせいと言って、本当は私の命令と知っていて文句を言ってるんだね。今は山の田も耕しているだろうさ、私のせいじゃないよw」
と道隆
これも紀貫之の歌

山田さへ 今は作るを 散る花の
かごとは風に 負(お)ほせざらなむ

山の奥の田も今頃は耕す時期になったのだ
桜が散るという恨み言を風に負わせてはいけないな

を口ずさまれます。桜が散ったのは時期が来たからで私のせいじゃないよって、そもそも季節はずれの造花だろ!ってツッコミたくなりますw

「しかし見つけられたのはくやしいね。あんなに念押しして言いつけたものを、こちらの御殿にはうかつな奴がいるもんだ」
「しかし、春風とはうまいでまかせを言ったもんだ。」とまた貫之の歌を吟じ
中宮定子も
「歌をひくのではなく答えるにしては、ずいぶんとこみいったことを思いついたと思っていましたよ」と
笑っておっしゃるのでしたが

実際のところ貫之の歌をひねると

かごと(恨み言)は風に任せておきましょう( ´艸`)
(花盗人の件は殿の)仰せ(命令)ではありませんよね

というイヤミ?にもとれるんですね^_^;

それを中宮親娘がえらくばかうけしたのですが、
少納言はそこまで考えていたのやら?単に言いつけたりすることが無粋に思っただけではないかと思うのですが・・・

どっちにしても機転をきかした受け答えには
たとえイヤミであろうとウケちゃうというのが
中関白家の権力者らしからぬ親しみやすさだと思われます。

(逆にそのフレンドリーなゆるさが長徳の変を招いたとも言えるのかもしれません)

法要の当日もいろいろとあったのですが、
それはおいといてw

少納言はその日は晴れの衣装に
赤い表着に桜重ねの五つ衣(いつつぎぬ)でした。



いつもながら拙い絵ですが^_^;

桜重ねというのは、
紅の単衣(ひとえ)に白い袷を5枚重ね(五つ衣)その上に紅梅(青みがかったピンク)の表着
蘇芳(赤紫)の唐衣を重ねます。
女房たちは仕える立場でたえず正装なので後ろには裳(も)をつけていたということで
こんな色合いでした

全体的に赤いこの装束が高位のお坊さんの正装の赤い衣っぽかったので
道隆に
「お坊さまの引き出物の衣がさっき一つ足りなかったので、借りればよかったな」と言われてしまうと
離れたところにいた伊周にまで
「清の僧都様だね」とからかわれます。

ひと言も面白くないことがないと少納言は言いますが
屈託のないこの雰囲気が清少納言をよりいきいきと活躍させたと思われます。

しかし、ジョークひとつ言うにも、和歌の知識が必要なこの世界・・・
いやはやかなりたいへんですねえ

次回のこのテーマの折は
ほかの貴公子たちとのもっとハイブロウなやりとりです。
清少納言の本領発揮ですよ( ´艸`)

ステイホーム癖がついてしまいまして、次回はまた簡単DIYです。

その後は飛鳥時代蘇我氏に注目したいと思います。

またの訪問をお待ちしております。