⁷ご訪問ありがとうございます。

大阪公立大学が1gで地球を破壊してしまうほどの宇宙線(粒子)を発見し、「アマテラス粒子」と名付けたそうです(◎o◎)

そんなにすごいなら、どっちかというと破壊神シヴァかスサノオの方がかっこいいような気もw

さて、いよいよ崇神天皇ですが、
神様に祟られまくるので、めちゃくちゃ神様をお祀りします。それで崇神天皇なんですよね。

おまけに天皇の御殿にお祀りしていた天照大神も、御神威が強くていっしょに居れなくなり、例の倭姫巡幸になるので、そこはアマテラス粒子で良かったのかもしれません(^^;)


さて第10代崇神天皇、
すごーーーーーく前(2016.9.6)に一度書いていますが、その頃から読んでいただいている方は少ないでしょうし、
こちらの見方も変わった所もあるので、
もう一度検証しておこうと思います。

さて、前回もチラッと書いたのですが、

崇神天皇のことは「日本書紀」も「古事記」も「ハツクニシラス天皇」と呼んでいます。


ハツクニシラスとは初めて国を治めたという意味ですが、まず10代目にして「初めて国を治めた」って意味がわかりません(´-ω-`)


そのうえ初代天皇の神武天皇について、

「日本書紀」は「始馭天下之ハツクニシラス天皇」と称されていますが……


「古事記」にはありません‼️

えええ( ̄□||||!!


太陽暦に直すと2月11日に即位したことで、わたしたちもみんな「建国記念日」でお休み🎌ということになっているはずの神武天皇が……

「古事記」では「ハツクニシラス天皇」と認められていないのです(;∀; )ナンデ?


もちろん、神武天皇は「初めて天下を治めようと立ち上がられた」天皇で、

崇神天皇は「初めて天下を統一された」天皇だという意味だという意見もあるのですが、

それでも「古事記」の説明はできませんね。


それで戦後、水野裕氏が欠史八代を架空とし、崇神天皇からを「古王朝」と呼び、

吉井巌氏や上田正昭氏が系譜の特徴を検証され、「三輪王朝」「イリ王朝」説を唱えられてからは


崇神、垂仁天皇を「三輪王朝として、古墳時代の最も早い時期に、大和で最初に生まれた王権」

と考えるのが、通説になっています。


そして、三輪山のふもとの地に、前期古墳である箸墓(ヤマトトビモモソヒメ墓)や行燈山古墳(崇神天皇陵)が出現する3世紀末~4世紀初頭に、

箸墓を包括する大都市遺跡である纒向マキムク遺跡が発見されると、


年代こそは引き延ばされているものの、崇神天皇については実在説が優位になっています。


では、神武天皇は?といいますと


南九州にいた神武天皇たちは、良い土地を求めていましたが、

先に大和に行った同じ天孫族の饒速日ニギハヤヒの話を聞き、自分たち兄弟も大和を目指すことにします。


で、これまで述べたように、結局いろんな苦難や戦いを経て、兄たちをすべて失いながらも、大和の勢力を破って初代天皇となります。


ところが今のところ、彼らやその後の欠史八代のいた橿原や葛城には、纒向遺跡より古い遺跡や古墳が見つかっていないというので、やはり崇神天皇が一番古い王権の出現とリンクするということになります。


そこで欠史八代を架空とするのが、通説となるのですが、

上田正昭さんは、やはり欠史八代の前半と後半では名前の付け方や宮居、陵墓に位置に差異があり、

前半の磯城県主と関わる部分には、何らかの系譜があったのかもしれないと示唆しておられます。


わたしが磯城県主の関係する2~6代目

(第6代孝安天皇に関しては、名前が後世風なので上田さんは怪しい方に入れられていますが、「日本書紀」本文では孝安天皇だけが磯城県主の一族と婚姻していて判断しにくいんですが……)

唐古・鍵遺跡の首長であった磯城県主と結んでいた葛城地方の古い王権の系譜があり、おそらく彼らは「近畿式銅鐸」を奉ずる人びとと考え、


崇神天皇からは纒向遺跡に生まれた

「画文帯神獣鏡」などの鏡を奉ずる新しい王権とするのは、このようなご意見を踏まえてではあるのですが、

ここで神武天皇=崇神天皇説(同一人物説)を検証してみます。


ご存じのように「日本書紀」はきっちり編年制をとっていますが、神武天皇が橿原で即位するまでは神武天皇即位前紀の物語です。

その後、神武元年から4年までは戦後処理とか即位をめぐる記事がありましたね。


ところが、神武4年の記事の後、神武31年の日本を「あきづしま」となづけ、42年に皇太子を決め、76年に127歳で亡くなるのですが


記事の内容が即位までと比べて超スカスカ、でした( ̄▽ ̄;)


対してこちらの崇神天皇はといいますと、もう10代目の天皇であるにもかかわらず、天照大神や倭國魂、三輪山の大物主神などの霊威に悩まされ、武埴安彦の叛乱の鎮圧等、ご苦労が絶えない感じです。


だいたいこのあたりの「日本書紀」の記事は、編年制と言ってもどの天皇も寿命が異常に長く、即位から崩御までもがたいへん長く引き伸ばされているので、大体後半の記事はスカスカですが、


崇神天皇は3年までは即位したこと、后妃と皇子女のこと、宮の名前だけで、実質的な記事は崇神4年から始まります。

ちょうど神武天皇と入れ替わりになります。


それで、もしかしたら一人の初代天皇の物語を、即位までを神武天皇に、即位後を崇神天皇に分けた(分化)のでは?という意見もあります。

それなら、実際の三輪王権の出現より、時代を古くできますしね。


そこで神武天皇を古い時代に設定して、その間に名前だけ伝わっていた銅鐸政権時代の王の名前(欠史八代)をいれこんだのではないかと、わたしはそう考えているのです。


それでそういう話を前提に、ちょっと「日本書紀」の崇神天皇のところを見ていきますと、いろいろと問題点が出て来るのです。


御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ天皇は、稚日本根子彦大日々(開化)天皇の第二子なり。

母を伊香色謎イカガシコメ命といい、物部氏の遠祖大綜麻杵オオヘソキの娘なり。

天皇は十九歲の時、立って皇太子となった。

善悪を判断することに優れ、若くして大きな計画を好まれた。

既に壯年になって心広く慎み深く、神祇を崇め(崇神)重んじ、常々天下を平らかに治めたいと思われる御こころを持たれていた。

(開化)60年夏4月、開化天皇崩御。


(崇神)元年春正月13日、皇太子は天皇に即位された。

皇后を尊んで皇太后という。

2月16日、御間城ミマキ姫を立てて皇后とする。

これより先、后は活目入彦五十狹茅イクメイリビコイサチ(垂仁)天皇・彦五十狹茅ヒコイサチ命・国方クニカタ姫命・千々衝倭チヂツクヤマト姫命・倭彦ヤマトヒコ命・五十日鶴彦イカツルヒコ命をお生みになった。


又、妃の紀伊キノ国の荒河戸畔アラカワトベの娘、遠津年魚眼眼妙トオツアユマクワシ媛、一に云う大海宿禰オオシアマノスクネの娘、八坂振天某邊ヤサカノフルアマイロベ、豊城入彦トヨキイリビコ命・豊鍬入姫トヨスキイリビメ命を生む。

次の妃、尾張大海オワリノオオシアマ媛、八坂入彦ヤサカノイリビコ命・淳名城入姫ヌナキノイリビメ命・十市瓊入姫トオチニイリビメ命を生む。

是の年、太歲甲申キノエサル。


3年秋9月、都を磯城に遷す。是れを瑞籬ミズガキ宮という。


崇神天皇の諡号は「御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ」天皇と言います。

奥さんは御真城ミマキ姫です。

一見、姫彦制によくある男女ペアの名前に見えますが、崇神天皇にだけイリがついています。


そこで后妃と皇子女をまとめてみます。


皇后 御間城姫(孝元天皇皇子大彦命の娘)

 活目五十狭茅天皇=垂仁天皇

 彦五十狭茅

 国方姫

 千々衝倭姫

 倭彦

 五十鶴彦


この皇子女を見ると、垂仁天皇以外は「イリ」がついていません。

しかも垂仁天皇のすぐ下の弟は彦五十狭茅という名で、垂仁天皇とモロ被り(太字の部分)です。


どう考えても同一人物でないと、ややこしすぎですよね(^^;)


もし垂仁天皇が天皇にならなかったら、本当はヒコイサチという名前だったのではないでしょうか?


続きです。


妃 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊國荒河戸畔の娘)

 豊城入彦

 豊鍬入姫

妃 尾張大海媛

 八坂入彦

 渟名城入姫

 十市瓊入姫


ほかの妃たちの産んだ皇子女は「イリビコ」「イリビメ」がついています。


どうして御真城姫の子どもたちには「イリ」がつかないかのか?

それは彼らだけは「イリ」ではなかったから、つまりはもともとミマキにいた血統と見なされているためではないでしょうか?


つまり、御間城姫だけがもともとの纏向、あるいは磯城の王女であったのではないかと、わたしは考えているのです。


しかも御間城姫は「古事記」の方では「ミマツヒメ」というのですが、5代前の孝昭天皇の諡号「ミマツヒコカシエネ」に似ています。
(「ミマキ」は「ミマ城」、「ミマツ」は「ミマの」という意味なので、異同があってもここは大丈夫です。)

後世の例で言えば、

第26代の継体天皇が、皇嗣が絶えたために畿外から大和入りした時、

すでに成年の勾大兄皇子(安閑)と檜隈高田皇子(宣化)がいたにもかかわらず、先代の武烈天皇の姉妹の手白香皇女を皇后に迎えました。そして「日本書紀」ではその所生の欽明天皇を「嫡子」としています。


欽明天皇が幼少であったために皇位はいったん安閑・宣化天皇に移りながらも、最終的には欽明天皇が即位するのですが、
なにか同じようなことが崇神天皇の即位時にあったような気がするのです。

それまで奈良盆地に勢力を持っていた「ミマ城キ」があり、その地域に妃や子供を伴って入ってきた「イリヒコ」が「ミマ城」の姫君と結婚し、「ミマ城入り彦」と名のって新しい政権を築いたのではないか。

この系譜を見るとそのようなストーリーが見えてきます。



さてその「イリ王朝=三輪王朝」の始まった地域(桜井市)には、
「邪馬台国」ではないかという巨大遺跡が2つあります。
唐古・鍵遺跡と纏向遺跡です。
唐古・鍵遺跡はどちらかというと銅鐸文化の都市遺跡ですが、

纏向遺跡は運河や祭祀遺跡が中心で住居が少なく、性格も違います。


纒向遺跡の位置


考古学のほうでも、連続性という点でこの2つの遺跡はなかなか悩ましい関係であるようですが、

纏向遺跡は祭祀遺跡が中心ということで、イメージ的に大和の神々の祭祀に追われていた崇神天皇にぴったりの遺跡です。黎明期のホケノヤマ古墳や箸墓があります。



対して唐古・鍵遺跡は銅鐸文化の中心地のひとつではないかと言われ、
鏡がご神体の天照大神を奉じる大和朝廷との関連が見えにくいのです。
(「古事記」「日本書紀」には銅鐸の記述はありません。)

唐古・鍵遺跡が弥生時代に近畿を中心に栄えていた銅鐸文化の中心のひとつであれば、御間城姫の実家「ミマ城」もそれと共存していた国のひとつだと考えられます。


新しく来た崇神天皇が大和の神々の祭祀のために作った都市が纏向遺跡だったのか、と考えてもいいのではないでしょうか?

纏向遺跡は3世紀後半にピークがあり4世紀中頃には衰退するようです。
それはまさに「イリ王朝」の時代と一致するものです。

逆に3世紀前半の人物である卑弥呼との関連は薄いということになります。


天皇でありながら、崇神天皇はこのあと神々の祟りに悩まされるのですが(;^_^A

そんな伝承からも外から来た人っぽいのです。


そして吉備の特殊器台が初期の古墳(箸墓など)から出ることを考えると、
出身地はともかく、吉備が後背にいたことは否めないと思います。

そうすると吉備で水軍を調達した神武天皇とも重なってきます。

吉備の勢力とともに大和に入った神武天皇と、

吉備の影響を受ける纒向遺跡の主と考えられる崇神天皇が、

同一人物でないと否定はできないと思います。


次回からは崇神天皇の事績を追っていきます。

またのご訪問をお待ちしております。