ご訪問ありがとうございます。

前回は予想外に長くなって^^;
お疲れさまでございました。

今回は続きです(*^-^)ノ
とりあえず前回貼り忘れた


では、さっそく太子伝を見ていきましょう。

太子伝は完本、残闕を合わせると数多くあるのですが、そのうち山背大兄王襲撃事件を記すのは以下のものです。

「上宮聖徳法王帝説」


平安初期の成立と見られ、聖徳太子関連の史書(「日本書紀」など)及び銘文の集大成。

これによると
飛鳥天皇(皇極)癸卯年十月十四日、
蘇我豊浦毛人大臣の児入鹿臣□□、
伊加留加宮に坐す山代大兄及びその昆第(子孫)等合わせて十五王子等を悉く滅す。
とあります。

わりとあっさりですが、記録類を記録した感じの書物なのでこんなものですかね。


成立時期は不詳だが992年成立の「伝暦」に引用部分があり、それ以前に成立したと見られる。太子の妃菩岐々美郎女の実家である膳(かしわで)氏と、太子の近習であった調使麻呂の調(つき)氏の家伝に基づいて編纂したと記す。

ここには何度も出ましたが

癸卯年十一月十一日丙戌、亥の刻
宗我大臣ならびに林臣入鹿、致奴(ちぬ)王子の児、名は輕王(かるのみこ=孝徳天皇)、巨勢徳太臣、大臣大伴馬甘(うまかい=長徳)、中臣盬屋枚夫等六人、悪逆を發し太子が子孫を計るに至る。男女廿三(23)王、罪無くして害を被る。今見て名を計るに廿五王有り。

という文があります。

この記事は「日本書紀」などと典拠が異なり、「補闕記」の名前の通り、これまでに書かれていない部分を補うという目的があるので、この襲撃メンバーは注目に値します。

前回ご紹介した「家伝」で「諸王子」とあるのは、軽王の参加を暗示していると解釈できるので、後の孝徳朝で大臣となる巨勢徳太や大伴長徳も参加していたとすると、この3人は当初からつるんでいた「孝徳派」であり、

軽王を天皇にしたい派と言えるでしょう。

そうすると「家伝」で、軽王を必ず天皇にすると言っていた中臣鎌足もまた、この派の一員であり、
中臣塩屋枚夫が鎌足でなくても、その一族の可能性は高いのです。

(中臣鎌足の先祖は「中臣氏系図」によると、いわゆる排仏派の鎌子・勝海らと異なる別流=分家?の黒田・常磐・可多能祜カタノコの系列であるが、
黒田ら初期の段階で塩屋連氏との姻戚関係があり、
鹿島出身説を採らなくても、中臣塩屋氏がこの系列を指す可能性はなくはないと・・・)

このうち巨勢徳太は、「日本書紀」では山背大兄王襲撃に際して入鹿の命令で実働部隊を指揮しており、
蘇我氏の同族(葛城氏系)というより、家臣に近いポジションになっていました。

ところが乙巳の変では、蘇我氏の家臣の渡来系の東漢(ヤマトノアヤ)氏らが武装して天皇家と戦う準備をしている時に、
武装解除の説得に派遣されるのです。ということは、改新派に寝返っておりますΣ(・ω・ノ)ノ

前回覚えておいてくださいと言っていた人物はこの巨勢徳太と、もうひとり高向国押ですが、
この時、蘇我方の高向国押もまた、これ以上の戦いはやめようと東漢氏に呼びかけます。

この高向国押は、山背大兄王一族が生駒山で生きていたことがわかった時に追捕を命じられる、やはり蘇我氏の家臣的な渡来系氏族ですが、
その時も
「私は天皇の宮を守って、あえて外に出ません。」と断ります。

この時宮にいたのは皇極天皇ですが、彼女は舒明天皇とは再婚でした。

彼女の前夫は用明天皇の孫高向王、子は漢皇子といいますが、
高向氏も東漢氏も蘇我氏の家臣で、彼らが養育した皇子と考えられるのです。

高向王は蘇我系の用明天皇の孫ですから、年齢的にも父は聖徳太子の庶兄田目皇子(豊浦皇子とも)の子では?と思われます。(聖徳太子の兄弟子孫は記録にあるので・・・)

田目皇子は用明天皇と蘇我石寸名の子で、のちに継母の間人皇后と結婚して佐富女王が生まれるのですが、
もっと早くに別の女性との間に王子がいても不思議ではなく、

田目皇子自身も蘇我系なので、王子や孫も蘇我氏に近い氏族が養育にあたったと考えてよいでしょう。

一方、皇極天皇は父こそ彦人大兄皇子の子茅渟王(致奴王子)ですが、
母は蘇我堅塩媛が生んだ桜井皇子の子の吉備姫王です。

おそらく蘇我系皇族として蘇我氏がバックアップしており、
最初の結婚も蘇我氏が引き合わせて成立したと思われますし、

(たぶん死別後)推古皇女と彦人大兄系の間に皇子が生まれなかったために、推古天皇の期待を受けて(男子を産んでる実績?)舒明天皇と結婚したと考えられます。

同様の例としては

奈良時代に藤原仲麻呂(恵美押勝)の
息子の嫁の粟田諸姉が、息子の死後に舎人親王の子の大炊王と結婚し、そのまま亡夫の父仲麻呂の邸宅に住んでいたため、仲麻呂は大炊王を養子のようなかたちで皇嗣に推薦し、淳仁天皇にしてしまうことがあり、

身内の死別後の未亡人も身内扱いすることもあるようなのです。

その皇極天皇の宮を高向国押は守ると言うのです。

おそらく高向王の養育氏族として高向国押は皇極天皇と面識があり、
天皇とともに入鹿のコントロール下から外れていたように思います。

皇極天皇は山背大兄王襲撃の計画と、そしてそれが入鹿を孤立させるための罠だということも知っていて、高向国押を入鹿から引き離したのかもしれません。

古人大兄皇子も入鹿を止めに行ってるので、襲撃は知っています。
だからこそ「家伝」は、「諸王子」と表現した・・・
鎌足の子孫には伝わっていたのですが、さすがにそれは書けずにぼやかしたのではないでしょうか?

皇極天皇が知っていた、ひいては天智天皇の即位がその先にあったればこそ、法隆寺は国立の寺院でもないのに、国立寺院並みに国費を投入されたのだと思います。

ここからは想像ですが、
入鹿とはおそらく僧旻の私塾で鎌足が知り合い、軽王を紹介し、山背大兄王排斥のために手を組もうと入鹿をけしかける一方で、

蘇我氏滅亡後は巨勢氏が大臣、大伴氏が大連復活(欽明朝以来失脚中でした)とか言って、両氏を味方につけたのでしょう。。

そして、最初の段階では、
表向き山背大兄王反乱の疑い(「家伝」)という理由づけで出兵したように思います。

ですから大臣蝦夷も(大臣を入鹿にしたと伝えるのは「日本書紀」のみなので、ほんとうは大臣は蝦夷だったと考えてよいでしょう。)ともに出動し、
古人大兄皇子は本拠地を空けると、反乱軍にそこを奪われると危ないと怯えたのです。

入鹿は反乱はねつ造だと知りながら斑鳩宮を襲ったが、思いもよらず山背大兄王は逃亡し、東国へ入るおそれもあるとしって、入鹿はあわてた。(「日本書紀」)

そこで追捕隊を派遣したので、山背大兄王は逃亡が不可能と判断して、斑鳩寺で自害、連座するであろう一族もまた従った。

というのが真相ではないでしょうか?

また蝦夷が怒った話は、蝦夷もともに斑鳩宮を襲ったとする「補闕記」にも出ています。

それは初めの斑鳩宮襲撃が蝦夷の思っていたところと異なって、
山背大兄王逮捕ではなく、殺害を狙ったものであったことに怒ったのであろうと思います。

このあとさっそく入鹿は古人皇子を大兄皇子に立てたでしょう。

また次代の葛城皇子には古人大兄皇子の長女倭姫王を嫁がせ、外戚の地位を確立します。

そして古代中国(漢)からあった外戚政治、そして高句麗淵蓋蘇文のような傀儡の君主の擁立・・・

国際通の入鹿は、日本をもっと新しい強い国にするため、強いリーダーが必要だと考え、そのリーダーにおのれがなろうとしたのでしょうが、

蝦夷が危惧した通り、蘇我氏への恐怖は入鹿の理想と反比例して広がって行きます。

それを裏で工作したのが軽王と中臣鎌足でしょう。

「日本書紀」では入鹿の従兄弟である石川麻呂を味方につけるために、中大兄皇子(葛城皇子)に石川麻呂の娘との婚姻を勧めたのは鎌足になっています。

しかし石川麻呂は軽王にも乳娘(チノイラツメ)を嫁がせています。

中大兄皇子の妃は遠智娘(ヲチノイラツメ)ですが、ヲは小です。(ヤマトタケルの本名小碓命はヲウスと書きます。)

いうことはヲチノイラツメとは小乳娘、とうぜん姉の乳娘が先に軽王妃になっていたと考えてよいでしょう。

また皇極天皇は母として、山背大兄王襲撃事件の際の陰謀を我が子に知らせることはためらった気がします。

一方、すでに飛鳥寺の蹴鞠会で仲良くなっていた中大兄皇子が、山背大兄王襲撃と入鹿の独裁について鎌足に意見を求め、鎌足が謀りごとを授けたと「家伝」は伝えています。

この飛鳥寺の蹴鞠会ですが・・・

研究者の方はだいたい嘘だとおっしゃいます。反蘇我氏のふたりが蘇我氏の氏寺で、そんなに接近したら怪しいだろうというのが理由ですが、

私の見方では、中大兄皇子こと葛城皇子は、蘇我氏の同族葛城氏の養育ですし、
蘇我堅塩媛の血を引く皇極天皇から生まれた、嫡流初の蘇我系皇子だと蘇我氏から思われていたのですから、

飛鳥寺に招かれるのも自然であるし、そこに入鹿の学友鎌足が来て、蹴鞠で脱げた皇子の沓を拾っても怪しいことはないと思うのですが・・・^^;

まあ、どっちでもいい話ですw

こういう内緒話が繰り返される間に、鎌足と軽王は葛城皇子に
入鹿が傀儡の君主を立て、いつかは王朝交替のため禅譲を迫るか、
葛城皇子を亡き者にするかを考えていると吹きこんでいったとしたら・・・

山背大兄王襲撃の真相を知らない葛城皇子が、入鹿に対して怒りや憎悪を覚えるのは当然といえるでしょう。


992年平基親撰?太子伝説の集大成と言える。上下二巻。「補闕記」を引用

こちらの山背大兄王襲撃事件は入鹿の独断、上宮王家滅亡後の幡蓋伎楽や、それを入鹿が見ると黒雲に変わった。などは「日本書紀」より簡略ですが、ほぼ同じ内容です。

そのあと注が入り、
「一説に曰く」として、上の「補闕記」の文章が引用されています。


かくして、ここに大化改新の顔ぶれが揃いました!

家臣だと思っている巨勢徳太、高向国押、従兄弟の石川麻呂、
夢を語れる学友の鎌足、なにかと天皇との間に立ってくれる軽王、

そしてようやく嫡流に蘇我氏の血を加えた葛城皇子、

彼らすべてが裏切り結託していようとは、入鹿は全く気づかないでいました。

皇極4年6月12日はそこまで迫っていました。

長くなってしまいましたが、ついに次回は蘇我氏本宗の滅亡です。

最後までお付き合いをよろしくお願いいたします(*_ _)