ご訪問ありがとうございます。

今回は山背大兄王襲撃事件の詳細を検証するつもりでしたが、
この検証の途中で、どうしても「日本書紀」の各巻の成立順の説明をしないといけなくなりました。ところがそれを始めるとややこしい(*_*;

それで入門編を入れることにしました。

この事件の検証には、「日本書紀」や「家伝」のほかに数多くの聖徳太子伝があり、それらの原文は漢文ですが、それもあげる必要があります。

じつはいつも拝見している「古代史獺祭」というサイトに、
主さまが古代史の史料を原文(漢文)と読み下し文であげてくださっているので、
次回の山背大兄王襲撃事件と乙巳の変の入鹿殺害事件は、そちらにリンクさせて頂き、要点だけを抜粋することにいたしました。

このサイトがないと、「古事記」「日本書紀」などのメジャーなもの以外は、図書館で「群書類従」(禁帯出)をコピーしなければならず
夜中に何か思いついても確認できないので、
本当に本当に助かるのです。

その「古代史獺祭」にはコラム的なページがあり、そこで主さまが「書紀区分論」をまとめてくださっております。つまり各巻の成立順の考証です。

その内容を参照させていただくにあたりのご挨拶と、
また膨大な史料をよくぞあげていただいたと、ありがたく思うお礼の気持ちをお伝えしたいのですが、

メールやコメント欄が見当たらず・・・

とりあえずこの場を借りてお礼申し上げたいと思います(*_ _)

今回は書紀区分論をできる限りあっさりまとめて、「日本書紀」の成立時期を説明したいのですが

かといって、このブログを古代史の読みものとして楽しんでいただいている方には、ちょっと煩雑になるかもしれませんので、ご興味がなければ今回は飛ばしていただいて大丈夫です!必要があればこのページにリンクできるよう貼っておきます!

次もまたご訪問をお願いします。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

ということで・・・
続きを読もうとしてくださっている皆さまには、改めてお礼申し上げます(*_ _)

( ・∀・)つ より詳しく知りたい方はどうぞ

さて、
この「書紀区分論」、
このブログのヤマトタケルの最後の方は、まさにヤマトタケルからの一点突破で「古事記」はただひとりの小説家、おそらく柿本人麻呂による編纂ではないかと検証いたしました。

一方「日本書紀」は大筋が決められ、それぞれの巻は担当した官人が書いているということで終わっていたのですが

その文章にはそれぞれ一定の傾向があり、それを分類するのが「書紀区分論」になります。

それは
使用語句、形式の偏在
万葉仮名の用法
分注の偏在
特定漢字の用法
など多岐にわたり、
それぞれ多くの論文が発表されています。

そのいずれもが「安康紀」と「雄略紀」のあいだに断裂を示すのですが、

「古代史獺祭」さんでは、特にひとつの到達点として、森博達さんの区分論を紹介しておられます。

それによると「日本書紀」の特徴はα群β群に分かれ、

α群
1.中国語の発音を正しく理解して、歌謡などを記している。
(中国人が読むと日本人にはちゃんと日本語に聞こえる)
2.中国語の文法を正しく使っている。
3.カップルの女性を表す妹(いも)に疑問を持つなど、日本の慣習的な漢字の使用法に明るくない。

β群
1.日本語なまりの発音の漢字を使って歌謡などを記している。
2.日本語の語順に引きずられて、文法を誤っている箇所がある。
3.日本の慣習的な表記に違和感を持たない。

という特徴があるようです。

これらで分類したのが「古代史獺祭」さんから転載した下図です。



といっても、この2群は、それぞれがひとりずつで書いていたわけではなく、おそらく何人かの官人によって書かれていたはずです。

ではこのどちらが先かというと、「安康紀」の最後の安康天皇が眉輪王に殺されるくだりに「詳しくは雄略紀に書いてあります」とあり、先に「雄略紀」が成立していたと思われることから、α群が先と思われます。

また先ほどの妹(いも)への疑問も、既出のことばにもかかわらず、「雄略紀」で初めて出てきます。

どうも「日本書紀」は「雄略紀」から書き始められたということになりそうです。

これは万葉集が雄略天皇から書き始めるのと軌を一にしていて、雄略天皇が古代のあるエポックであったということになるのでしょうが、
私は継体天皇と宣化天皇の皇后がともに雄略天皇の孫であり、
嫡子欽明天皇と皇后石姫が共に雄略天皇の曾孫だという、現王統の父祖意識を感じてしまいます。

さて、この2群の転換点はもう一箇所あり、それが「皇極紀」です。

すると、「雄略紀」~「崇峻紀」と
「皇極紀」~「天智紀」の2つのα群があることになりますが、
この2つにも書き癖というべき差異があり、
「雄略紀」~「崇峻紀」をα1群
「皇極紀」~「天智紀」をα2群とすると
それぞれが別人によって書かれたと推定されます。

「皇極紀」~「天智紀」といえば、まさに中大兄皇子の物語、つまりα2群は大化改新以降の天智天皇の業績について書かれたもので、わざわざそこから書き始められた・・・

たとえば戦後の政治史を語るのに玉音放送以降だけでは連続性がない。少し前、昭和初期ぐらいから語るのに似ているかもしれません。

そういう点から「皇極紀」開始が決められたように思います。

「古代史獺祭」さんはそれと天文学者の小川清彦さんの歴法の研究
統計学者安本美典さんの天皇の年齢の研究を合わせて次の表を作られました。



一番右の抹茶色は「倭の五王」で有名な南宋の「元嘉暦」が実際に使われた時期で、

群青色が天文学が進んで改訂された唐の「儀鳳暦」が使われた時期です。

切り替わった持統朝は併用が許されていました。(黄緑)

ところが「日本書紀」各巻の一日(朔)の干支がどちらに合うか調べると、

允恭・安康は持統朝と同じく併用で、それより古い時代はなんということでしょう!文武朝以後に使われる(中国では唐の665年以降)新しい「儀鳳暦」で書かれていたのです!
あらあら、びっくりΣ(・ω・ノ)ノ

単純に考えると第13巻「允恭・安康紀」が持統朝、わがヤマトタケルを含む「神武紀」~「履中・反正紀」は文武朝~元正朝に書かれたということになります。(少なくとも持統朝以降でしか編纂できません。)

しかも安本美典さんの統計からは安康天皇以前の天皇に年齢を引きのばしたことがわかりますが、それがピンクの部分で、
引き伸ばし無しがミントグリーンの部分です。

こうして見ると最初に書き始められたα群は天武朝以前に書かれ、何らかの記録があり、ネイティブな中国語が身についている人物が書いたと言えるでしょう。

さて、ここまでこういう話をしたのは、山背大兄王襲撃事件や乙巳の変がまず最初に書かれた「皇極紀」にあるからなのです。

「皇極紀」はとにかく何かしら凝った構成を持っていて、暗示的な童謡(ワザウタ)も多く、天候の記述も多い。

また突然蘇我氏が横暴になって、天皇家と対等にいろいろやらかします。

この唐突さの秘密がここにあるのではと思うのですが・・・

ここまで読んでおられない方のために、ここからは次回に続けましょう。

どうぞ次回もご訪問くださいませ。