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蘇我氏の興亡という題で語るなら、乙巳の変がそのクライマックスになるのですが、そこにいたる直前のこの事件が、蘇我氏本宗の滅亡の序曲ということになるのでしょうか・・・

あの聖徳太子の弟や子孫23人全員が自害して亡くなるというショッキングな事件は、「日本書紀」や「家伝」にとどまらず数々の聖徳太子の伝記に伝えられてきました。

そのほとんどが蘇我入鹿の独断で、罪無き聖徳太子一族が殺されたことを記しています。

しかし、本当のところはどうなのか・・・なぜこのような凄惨な事件が起きたのか。

今回は様々な史料を見ながらの検証になります。

煩雑ですが、お付き合いいただければ幸いです(*_ _)

そこで各史料を見ながら、相違点などから事件の真相に迫りたいのですが・・・
いつものように原文を挙げるとかなりな量なので、読んでいただくのも一苦労かと思い、大筋をあげて原文はリンクを貼るようにしようと思います。

リンク先は前回ご紹介した「古代史獺祭」さんです。

「日本書紀」および「家伝」や「上宮聖徳法王帝説」「上宮聖徳太子伝補闕記」「聖徳太子伝暦」などの太子伝、
こういった史料をもとに検証したいと思います。

まずは基本的に「日本書紀」から・・・

太子伝というと、聖徳太子の伝記ですが、その結末は上宮王家の滅亡で終わっています。

「日本書紀」でも、推古天皇のところでお話ししましたが、聖徳太子(厩戸皇子)を聖人化することが行われていて、(「推古紀」)

1.丁未の乱で敗色濃厚な蘇我軍にあって、四天王に祈願することで形勢逆転に成功した。

2.十七条憲法の制定

3.片岡で飢者を真人(ひじり)と見破り、遺体が消えたあとの衣服を着る。

4.没後、僧慧慈によって「聖人(ひじり)」と評される。

などの伝承が記されています。

一方、山背大兄王ら上宮王家の自死の時に際して、「皇極紀」では

「五つの色の幡蓋(ハタ、キヌガサ)、種種(クサグサ)の伎楽(オモシロキオト)、空(オホゾラ)に照灼(テリヒカ)りて、寺(斑鳩寺)に臨み垂れり。」

という超常的な描写がなされます。

この時驚いた人々が入鹿にそれを指し示したところ、その幡や衣笠はたちまち黒雲に変わって、入鹿は見ることができなかったと書かれています。

前回の結論では、「日本書紀」は「雄略紀」と「皇極紀」から同時に書き始められたということになるので、

聖徳太子の聖人化は子孫全員の自死を美化するシーンがまずあって、

このクライマックスに向けて聖人聖徳太子が語られたことになります。いかにこの事件が重要視されていたのかが分かります。

ではもう少し詳細に事件の成り行きを見ていきましょう。

そもそも山背大兄王が大兄の地位にあった理由は、推古朝後期に大兄皇子であった厩戸皇子の長子であったことが理由です。

しかし、その決め手には弱い部分がありました。聖徳太子もその父用明天皇も嫡流ではなく、

欽明-敏達の流れを汲むのは、彦人大兄皇子の嫡子田村王だったので、
馬子も推古天皇も田村王には娘を嫁がせていましたが、

馬子の弟摩理勢が推す山背王が皇位継承権を主張し、
最終的には摩理勢が殺され、皇位は田村王が継いで舒明天皇になり、山背王は大兄になります。

「推古紀」は推古天皇の言葉として
「お前はまだ未熟です。もし心に望むものがあっても、あれこれ言ってはいけません。必ず、群臣の言葉を待って従いなさい。」
と言ったと伝えますが、

山背大兄王は、推古天皇に
「お前は以前から朕の思うところであり、寵愛する心は比べようもない。国家の大きな基盤は朕の世だけのことではない。当然のことながら努力しなさい。お前は幼いと言っても、慎重に発言しなさい。
と言われたと言って譲りません。

この下線の部分は
汝雖肝稚、愼以言 「舒明即位前紀」

「推古紀」は
汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。

その前の蝦夷が聞いたという遺言は
汝獨莫誼讙、必從群言、愼以勿違。
「舒明即位前紀」

三国王が山背大兄王に説明した(蝦夷から聞いた)遺言は
汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。
「舒明即位前紀」

とさまざま^^;

山背大兄王を美化したいならいっそ山背大兄王がすっきり辞退したという展開の方が、より入鹿の身勝手さが際立つと思うのですが、それも無し(^◇^;)

いったいこの脈絡の無さは何でしょう?

それでこの前の入門編に書いた「日本書紀」の成立順が問題になります。

「皇極紀」から書き始めた中国語のネイティブの(便宜上)「皇極」さんは無事、「天智紀」まで書き上げました。

おそらく天武朝末年か持統朝、天智天皇(中大兄皇子)は天武天皇の兄、持統天皇の父ですから、中大兄皇子がずっと大活躍!孝徳朝も斉明朝も政治をリードしたように書かれています。

ところが、「雄略紀」から書き始めたネイティブ(便宜上)「雄略」さんは、「崇峻紀」まで書き上げて、調子が悪くなります。(病気か死亡か、失脚もあり得ます。)

それで残りの「推古紀」「舒明紀」は漢文を得意にする日本人(便宜上)「推古」さんが書くのですが・・・

このころ法隆寺の建築が進み、斑鳩寺は「山背大兄王の悲劇の地」から
「聖徳太子顕彰の寺」に変貌したと思われます

こうして「推古」さんは「推古紀」で聖徳太子顕彰は行ったけれど、
山背大兄王と舒明天皇の皇位継承問題については、山背大兄王を称えると天武天皇の父舒明天皇をディスることになって(◎-◎;)板挟み状態w

けっきょくはもとの記録を見ながら、悩みに悩んで書いたような気がします。

それで本来は舒明天皇を正当化すべきところを、山背大兄王の最期とも乖離させることもできず、
何度も聞いた聞かないという話を繰り返し、山背大兄王の言い分も詳細に残したということでしょう。

そこでもう一度さっきの文を見ると


①汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。 
「推古紀」

②山背説 
汝雖肝稚、愼以言 
「舒明即位前紀」

③蝦夷説
汝獨莫讙、必從群言、愼以勿違。
「舒明即位前紀」

④三国王説(蝦夷から聞いた)
汝肝稚、而勿諠言、必宜從群臣言。
「舒明即位前紀」

蘇我蝦夷が群臣に語った③と
三国王が蝦夷から聞いた④もまた違うのがなんとも(*_*;

ただ接続の仕方は違いますが、
汝肝稚(なんじ、キモ若し)」は①②④に共通で、これは推古天皇の遺言にあったと思われます。
キモ、つまり精神(肝っ玉)が若い=幼い、未熟ということです。

この時の王は36歳の舒明天皇(田村王)と同世代だと思われますから、年齢的に天皇にふさわしいはずです。

ですからこれは年齢的にではなく、精神的に「稚い」ということでしょう。

また①④の「勿諠言」③の「汝獨莫」の勿、莫は「なかれ」という禁止を表していますが、

諠も讙も意味はやかましい事で
讙はキーキー鳴く中国の妖怪をさします。つまりはやかましく騒ぎ立てるなという意味です。

②にはそれはありませんが、「愼以言」というのは「慎みをもって発言しなさい。」なので、
②の現代語訳は
「そなたは精神的に幼いところがあるけど、分別をもって発言するようにしなさい。」ということ、
むやみに騒ぎ立てるなと同様のことを言っているようにも聞こえます。

それと山背大兄王が主張した②にはないのですが、①③④には「群臣のいうことに従え」ということが出てきます。もちろん蘇我氏の威光を恐れてのこともあるでしょうが、
摩理勢以外は山背大兄王を支持する勢力はありませんでした。

摩理勢は蘇我系の天皇を望んでいたようですが、
山背大兄王は曾祖父は欽明天皇ですが、曾祖母は蘇我堅塩媛、
祖父母こそ用明天皇と間人皇后ですが、父母は聖徳太子と蘇我刀自古郎女・・・

田村王は曾祖父母は欽明天皇と石姫皇后、
祖父母は敏達天皇と廣姫皇后、
父母は彦人大兄皇子と糠手姫皇女

田村王は代々皇后の子で、母糠手姫も敏達皇女ですから、血統的に差があり、それゆえに推古天皇も馬子も娘を嫁がせていました。

群臣の意見も田村王に偏っていたので、山背大兄王はあえてその部分を隠したのかもしれません。

私見ではありますが、この4つの遺言を並べると
「私はそなたのことを大事に思って心配している。また、国家の大きな基盤を築くことは私の代で終わることはない。当たり前だがそなたも努力しないといけません。そなたは精神的に幼いところがあるけど、群臣の意見に従って、分別をもって発言するのですよ。」という内容のように思えます。

山背大兄王の話では田村王(舒明天皇)は先に来ていました。すると田村王はすでに推古天皇の遺言を聞いていて、山背王はそれを聞いていなかったために、齟齬が起きたように思われます。

そして摩理勢が蝦夷によって殺害され、味方を失った王は大兄になることを条件に、舒明天皇の即位を認め・・・
そして、舒明天皇崩後は皇后宝皇女がみずから皇位につきます。

普通なら前皇后と傍系天皇の共同統治(安閑・宣化朝や用明朝はこれにあたります。)になるのでしょうが、

蝦夷は対立している山背大兄王は避けたい。

一方、宝皇后は嫡子の葛城皇子がまだ16歳で、中継ぎの大兄に古人皇子が立ってしまうと、古人皇子がなくなるまで葛城皇子は即位できません。

ましてや「嫡流」より蘇我氏や聖徳太子の血筋を重視した山背大兄王が天皇になれば、大兄になれるかさえ不確定です。

そのあたりの利害の一致で、山背大兄王に天皇の位は回りませんでした。

ここからが「皇極紀」になりますが



11月1日、入鹿は巨勢徳太、土師娑婆に命じて斑鳩宮の山背大兄王を急襲しました。

この前、入鹿は私(ひそか)に大臣の職を蝦夷から譲られて、ひとり古人大兄皇子を天皇にしようと考えたことが書かれています。
その20日後のことでした。

上宮王家の奴、三成(ミナリ)は数十人の舎人と奮戦し、娑婆は戦死します。

山背大兄王は馬の骨を寝殿に投げ置き、妃と子弟および側近の三輪文屋以下の家臣とともに生駒山に逃げました。

斑鳩宮を焼いた徳太は、馬の骨を山背大兄王の骨と思い、囲みを解きます。

一方、生駒山に逃れた山背大兄王らも、食べ物に窮し、
三輪文屋は深草屯倉(フカクサノミヤケ)にうつり、そこから東国に入り、軍勢を整えて戦うように進言します。

深草屯倉は京都市伏見区、近くには秦氏の氏神の伏見稲荷大社がある場所です。
父聖徳太子のブレインであった秦河勝の本拠地のひとつであり、山背(山城=京都府南部)の名を負う大兄王を養育した土地でもありました。

東国には蘇我氏の台頭以来、天皇家の領地である屯倉や王子の乳部(ミブ)が開拓されていたのでしょう。壬申の乱のように東国の軍勢を確保するのは戦略上大変優位になる方法だったのですが、山背大兄王はこれを拒みました。

「そなたがいうことの通りなら、勝つことは必然であろう。ただ、私の心に願う気持ちは10年も民を使役したくないということだ。私一人のために、どうして万民を煩わせることができようか。また後世に人々が私のために父母を亡くしたと言うようになるのは望まない。そうなっても私が勝った後に人は私をまさに丈夫(マスラオ=立派な男)というだろうか?それよりはこの身を捨てて国の基を固めるならば、それこそ丈夫(マスラオ)というのではないか?」

この時、ある人が上宮王家の姿を見かけ、入鹿に知らせます。

入鹿は恐れ、直ちに居場所を高向国押に伝え出動を命じますが、国押は
「私は天皇の宮を守る任務があるので、外へは出ません。」と断ります。

入鹿は自ら行こうとしますが、古人大兄皇子は
「鼠は穴に隠れて生きるが、穴を失うと死ぬという。(飛鳥を出ると、留守を狙って飛鳥を奪われるという意味)」と言って止めます。

そして王らを探索する部隊が迫る中、上宮王家一同は斑鳩寺に入り、三輪文屋をもって包囲軍に言葉を伝えさせます。
「私が軍勢を起こして入鹿を討伐するなら、勝利は決定的だ。しかしひとりの身のために民衆に損害を与えることは望まない。それをもって、我がひとつの身を入鹿に与える。」と。

そして子弟、妃とともにみずから首をつって亡くなったのでした。

このあと前掲の幡蓋、伎楽の場面になり、蝦夷が
「噫(アァ)、入鹿、極(ハナハ)だ愚癡(オロ)かにして、専(タクメ)暴悪(アシキワザ)を行(ス)。你(イ)が身命(イノチ)、亦(マタ)殆(アヤフ)からずや。」(あぁ、入鹿よ、たいへん愚かでなんとも乱暴な悪行を行ったのだ!お前の命もまた危うくなってしまったのではないか!)と激怒します。

山背大兄王の考え方は、のちの修飾として良いのか?これについても検証は必要でしょう。

ただ、法隆寺に7世紀の作で、推古天皇御厨子として伝わる国宝玉虫厨子には

釈迦の前世であるサッタ王子が飢えた虎の母子にみずからの身体を与える。という物語の「捨身飼虎図」が描かれており、

山背大兄王もその話を知っていた可能性は高いといえます。


捨身飼虎図(Wikipediaより)

では、ここに出た人名と蝦夷の言葉をちょっと記憶にとどめていただき、ほかの史料も見ましょう。

次は「家伝」です。

宗我入鹿は諸王子はともに相談し、上宮太子(聖徳太子)の王子の山背大兄らを殺害しようと思って、
「山背大兄は吾が家で生まれた。明徳は広がり、聖化はあまりある人物だ。舒明天皇即位に際して群臣は『伯父・甥だが疎遠であろう。』と言っていた。また(味方の)境部臣摩理勢を殺したことで、(王の)恨みは深い。まさに今天皇が崩御され、皇后が政治を執られている。王のお心は平穏であろうはずがない。どうして反乱が起きないことがあろうか?従兄弟としての親しみは忍びないのだが、国家のために計画を遂行しよう。」と言った。
諸王子は承諾した。ただし、従わないと身に危険が及ぶのを恐れて、そのために共謀したのである。
その月日をもって、遂に山背大兄を斑鳩宮で殺した。識者はこの事件を傷んだ。父の豊浦大臣(蝦夷)は怒り、
「鞍作(入鹿)、そなたのような馬鹿者がどこにいるのであろうか?」と言った。しかし、鞍作(入鹿)は
「すでに喉に刺さった魚の骨を取り除いた。まさにあとの憂いなしだ。」と考えた。

と書かれていて、ずいぶんあっさりです。

「日本書紀」との違いは、襲撃の推移がないこと、超常現象?が起きないこと

参加者が諸王子になっていることです。
ここには中臣枚夫どころか、巨勢徳太もいないのです。

以前「ブラタモリ」の解説で法隆寺を検証した時、

法隆寺が整えられたのが天武・持統朝であることを検証しましたが、

聖徳太子や山背大兄王の悲しみや怒り(立派な仏教徒であったご本人たちはそういうところから解脱していたと思いますが、あくまで生きている俗人の感情としては^^;)をなんとかしたいという「鎮魂と顕彰の寺院」であったように思います。

この「家伝」の記述を見れば、もちろん中臣鎌足は無関係であり、
むしろ入鹿と共謀したのは天皇家の面々であったようになっています。

また入鹿は「反乱のおそれがある」と言っています。どうせ諸王子を説得するための方便だろうと思いますが、「日本書紀」では山背大兄王の逃亡を聞いた入鹿が恐れたとしているのは、王に反撃する力があると見ていたからだと考えられます。

なお、この記事をもって、山背大兄王が反乱準備をしていたという見方もあります。

とすると、深草屯倉から東国へ云々は現実味を帯びてきますね。
斑鳩宮を急襲されて逃げのびたことも、本能寺の変と比べるとやたら上首尾です。

皇極3年になってからですが、蝦夷と入鹿の邸宅が武装化されます。
2007年以来、甘樫丘東麓遺跡の発掘で、蘇我氏の邸宅が石垣などで城塞化していたことが確認されていますが、この武装を対天皇家ではなく、むしろ天皇家のいる飛鳥を外国の脅威から守る目的に建造されたという見方もあります。

しかし、この時はまだ三韓や唐が攻めてくる状況でなし・・・
かといって、天皇家相手なら乙巳の変で戦わずして滅んだ意味がわかりません???

これが皇極3年に作り始めたのではなく、それ以前から作っていたら・・・

入鹿の方に斑鳩宮への警戒心があったことも考えて良いと思います。

反乱ということでなくても、斑鳩宮は斑鳩宮でそれなりの準備をしていた可能性も感じます。

さて、まだ太子伝が何冊かあります。

太子伝の方は斑鳩宮に比重がかかっていますが、独自の資料もあり、ぜひとも検証したい題材です。

すみませんが、今回はここまで!

次回太子伝の検証をしたいと思います。