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野ざらし1人旅~漂泊への憧憬~

西行の漂泊の旅に憧れ、主に青春18きっぷを使い、いろいろな景色を巡って1人歩き続ける旅の記録

スカイツリーまで行ったので、東京十社の1つで近くにある亀戸天神社に行ってみました。

 

東京十社は、明治時代に東京の鎮護と万民の平和を祈願して定められた神社とあります。

 

神田神社(神田明神)、亀戸天神社、富岡八幡宮、芝大神宮、品川神社、赤坂氷川神社、日枝神社、白山神社、王子神社、根津神社の十社です。

 

神社巡りに関心があるわけでないので、近くにあるからちょっと寄ってみようかという感じで行きました。

 

雨が降っていて少し寒かったせいか、境内に人の姿はほとんどなく、静かなたたずまいでした。

 

他の神社も近くを通ったり、何かのついでがあれば行ってみようと思います。

 

積極的に行くわけでないので、いつ十社巡り終わるかわかりませんが、気長にやってみようかと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

稲村ケ崎駅に戻って、また藤沢行きの江ノ電に乗り2駅ほど進み、腰越駅で降ります。

 

そばには萬福寺というお寺があり、かつてここで義経が腰越状を書いたと言われています。

腰越は、平家を滅ぼした源義経が鎌倉に凱旋した際、兄頼朝から鎌倉入りを許されず、足止めを受けたところです。

 

平家を滅ぼした後、義経は後白河法皇から検非違使の位を授けられ、躊躇うことなく受けました。

 

しかし朝廷から官位を受けるときは、頼朝の許可を得ることになっているのを守らず受けたため、頼朝の怒りを買ったのです。

 

後白河法皇が義経に官位を贈ったのは、頼朝への対抗馬とする策略がありました。

 

平家が邪魔になれば木曽義仲と争わせ、義仲が煩わしくなれば頼朝と争わせる、共食いさせるのが法皇の狙いでした。

 

今度は頼朝を警戒して義経と対立させようとしたわけで、頼朝はそれを見抜いていました。

 

一方義経は政治に疎く、なぜ頼朝が鎌倉入りを許さないのか困惑していました。

 

そこで、頼朝に反逆する意思はないことを切々と綴った手紙を書きます。これが腰越状です。

 

寺内には腰越状を代筆する弁慶とそばで口述する義経の像が建てられています。

朝早く来たため、見学はできませんでしたが、寺内には弁慶が認めた下書きがあるようです。

腰越状を送っても頼朝の怒りは解けず、義経は鎌倉入りを諦めて京都に戻り、後白河法皇から頼朝追討の宣旨を受けます。

 

しかし思うように兵は集まらず、平泉の藤原秀衡を頼っての逃避行が始まることになります。

 

ここから勧進帳で有名な安宅の関や平泉の高館(義経最期の場)へとつながります。自分の旅もそこへ続いていくのでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

朝6:04江ノ電に乗って鎌倉駅を出発。およそ10分ほどで稲村ケ崎の駅につきました。

 

そこから歩いて10分くらいで海が見えてきます。見えにくいですが、稲村ケ崎と書かれた石碑が建てられています。

そばには草に埋もれかかっていまsすが、史跡の石柱も建てられています。

 

稲村ケ崎というと新田義貞の鎌倉攻め。鎌倉幕府を攻めるためにこの稲村ケ崎を通って鎌倉に入ろうとしていたといいます。

 

しかし稲村ケ崎の沖合いには幕府軍が船を並べて弓を射かけて待ち受けていました。

 

そこで義貞は神に祈りを捧げ、自身の刀を海に投げ入れたところ、潮が引き始め、幕府軍の船は沖へと流されました。

 

その隙に義貞軍は、浜辺を駆け抜けることができ、そのまま鎌倉になだれ込み、鎌倉幕府は滅亡しました。

 

今の稲村ケ崎に当時の面影はなく、どう進軍したのかはつぶさに見ることはできません。

余談ですが、グーグルマップで見た感じ、真ん中奥、やや左側の島が江の島だと思います。

 

鎌倉幕府滅亡の出来事を知らなければ、稲村ケ崎はよくある海岸の風景にしか見えないかもしれません。

 

各地の歴史や風土を勉強すると、旅はどんどん面白く、奥深くなるのだろうと思いながらの滞在でした。