社会保険料を累進所得税に統合せよ

 

 このブログでは消費税などの悪税を廃止し、法人税および所得税累進課税を強化することを主張していますが、この表題の意味するところは、それに従って、無償で行われるべき社会保障においてもまた財源を指定して徴収する必要はないので、現在の社会保険料を廃止し、そのことでインフレ対策が必要であるならば、そして、それが個人が負担すべきものであると判断されるのなら、その全額累進所得税の増税で賄うべきことを意味しています。

 どんな名称や名目であろうと、金に色目はなく、それは行政サービスの内容を意味しないので、名称や名目はどうでも良いことであり、それぞれの国民の所得からいくら回収されるかのかけ方が問題なので、社会保険料を所得税累進課税方式にするならば、社会保険料を累進所得税に統合しても、その意味するところは同じです。

 かつて、日本では、社会保険料は少なく、代わりに、累進所得税が多い時代があり、その頃は、社会保険料の大部分は累進所得税に統合されていたと言うことが出来ますから、そう考えるならば、それは必ずしも難しいことではないのです。

 税金のかけ方には、所得の大きさに関係なく一人当たりいくらでかける人頭税方式、所得の大きさに比例して課税するフラット税方式、所得額が大きくなるほど税率を上げる累進課税方式などがあります。

 人頭税は、国民の一人ひとりが等しく行政サービスの代償を支払うべきという考え方の下に、一人当たりいくらで課税しようとするものです。

 しかし、国民一人一人はそれぞれ能力が異なり、人頭税を実施すると、貧困層は生きて行けなくなり、国外に逃亡しなければならなくなります。実際、人頭税を導入した国では住民の逃散によってことごとく失敗し、廃止せざるを得なくなっています。

 人頭税は低所得者や貧困層に重い負担とな、一方で、富裕層にとっては最も軽微な税金になります。

 フラット税は所得に比例してかけられる税金で、所得が高くなっても打ち止めということはありませんから、富裕層の負担の絶対額は所得に比例してどこまでも大きくなります。

 累進課税は、さらに、所得が大きくなれば大きくなるほど税率が高くなる税金で、かつての日本では最高税率75パーセントという時代もありました。

 累進課税と対象に逆進的な税金もあります。所得が低い者の方が、所得に比べて高い比率で課税される税金です。

 これは間接税方式で消費税を見た場合に該当します。

 つまり、各所得層の消費性向に消費税率を掛けたものが消費税負担率ですが、消費税負担率を所得で割ると、高所得であるほど所得に占める消費税負担率は低くなり、低所得であるほど所得に占める消費税負担率は高くなります。つまり、逆進的になります。

 一方、社会保険料を見れば、社会保険料のかけ方は、月額所得1,355,000円までは28.49%の比例税方式であり、月額所得1,355,000円を超える高所得者に対しては、それ以上はいくら稼ぎがあろうと非課税にされる人頭税方式になってしまうのです。消費税とさえ比較にならないほどの逆進的な課税です。

 こうした課税方式から、やはり、社会保険料は、低所得層の貨幣を回収するための意図された仕掛けであるという以外ないのです。

 そもそも、国家の存在する意味を社会保障とするならば、国家には、国民全体で生産した物を、可能な限り平等に国民に分配する役割が求められます。

 それは、つまり所得再分配政策ですが、これは所得(賃金等)の稼ぎ方に関する政策と、税制によって行われます。

 つまり、株式配当および賃金をもって行う貨幣の分配は、国民全体で生産した生産物の分配になり、税金は貨幣の分配のキャンセルになります。

 労働者への賃金による分配は、いまや、先進国最低の低賃金であり、その上に、その賃金から行政サービスの代償や、病気になったときの診療費を低所得者たちの相互扶助で負担するという理屈が適用され、税金や社会保険料が低所得者に逆進税的にかけられていす。

 国民が豊かになれない仕掛けが二重、三重に張り巡らせられています

 なぜ、こうも、低所得者の少ない賃金からむしりとるような税金や社会保険料がかけられているのでしょうか。

 そもそも高所得者と低所得者のどこに違いがあるかというと、高所得者が低所得者より一生懸命働いているわけではありません。低所得者も身を粉にして働いています。むしろ、高所得者の方が楽な仕事をしているほどです。

 高所得者と低所得者の違いは、搾取の構造によるものであり、決して、生産に対する貢献度の相違を表しているわけではありません。

 それにも関わらず、適正な所得(株式配当や賃金等)の分配が行われなかったために、高所得者と低所得者の格差が生まれているのです。

 もし、社会保険料を上限の無い所得累進課税とすれば、高所得者の負担はめまいを起こすような高額になると文句を言う者もいるでしょうが、しかし、今、正に、低所得者はめまいが起こるような高額負担をさせられているのです。

 低所得者に対する差別発言として、次のような記事があります。

 2018年10月23日13時03分共同通信で次のような報道がされています。

 『麻生太郎財務大臣は2018年10月23日の記者会見で、不摂生の結果、病気になった人への医療費支出を疑問視する見方を示しました。「飲み倒して運動も全然しない(で病気になった)人の医療費を、健康に努力している俺が払うのはあほらしくてやってられんと言っていた先輩がいた。良いことを言うなと思った」と述べました。健康管理の自己責任を強調したとみられますが、健康な人も保険料を拠出するのが社会保険制度の基本で、批判を招きそうです。麻生氏は首相だった2008年にも経済財政諮問会議で「たらたら飲んで、食べて、何もしない(患者)の分の金(医療費)を何で私が払うんだ」と発言し、後に陳謝したことがあるのです。』

 この発言は、麻生太郎氏の地元の講演会でも繰り返し述べられていますから、麻生太郎氏の骨の髄にまで浸み込んだ考え方と思われます。

 相互扶助とか、平等とか、所得再分配などという言葉の意味は、麻生太郎氏には到底理解出来ないでしょう。辞書的な言葉の意味を暗記出来ても、身体が付いて行かないでしょう。

 麻生太郎氏のような者が大臣をやっているため、年収わずか100万円であろうと課金されるというムチャクチャなことが起こっているのです。

 社会福祉政策でありながら、低所得者や貧困層を苦しめるこの大きな矛盾は、社会福祉の意味を理解していない者が政治家をやっているからです。

 社会福祉の意味で言えば、医療費も保険料の払い戻しとして支払うものではあってはならないはずです。それでは助けていることになりません。

 国民は高度な社会福祉を望んでいます。

 社会保険料の徴収の問題は、管理通貨制度においては、給付の問題とは関連しない、相互に独立したものです。

 福祉の問題、本来、徴収と給付の二つに関連性はなく、それぞれ独立した概念のものです。

 受益者負担などの提案が行われて、収支と持続性にあたかも関連があるように主張されたりしますが、通貨発行権が存在すれば、その収支に意味は無くなります。

 あらゆる政府の事業においては、それは全て公共の福祉が目的であるからには収支は問題外です。これは、国防費において収支が問題外であることと何ら変わりません。

 本ブログにおける、高額所得者は社会保険料について累進制による上限の無い高額負担を行うべきであるという趣旨は、税金の場合と同じく、社会保険料の徴収はインフレ対策の一つにすぎないからです。

 すなわち、社会保険であろうとその他の政府支出であろうと財源は通貨発行権であり、通貨発行の副作用であるインフレだけが障害になるのですから、インフレ対策として社会保険料を取っているにすぎません。

 ゆえに、税金と全く同様にインフレ対策として社会保険料を取るのですから、低所得者や貧困層から取ってはならず、お金の余っているところ、つまり、富裕層から取るべきなのです。

 社会保険料という名称は、あたかも社会福祉が有料であるかのように錯覚させる詐欺師の手口です。

 すなわち、社会福祉が、国家が行う無償の所得再分配であるからには、社会保険料は社会福祉とは無関係の独立した貨幣回収行為であり、社会福祉に関連するかのような名称を付けるべきではありません

 社会保険料の本質は税金そのものです。

 そして、税金であるからには、その目的はインフレ対策以外の何者でもなく、全ての税金は法人税と所得累進課税で完結させるべきですから、低所得者と貧困層から取る理由は無くなります。

 ちなみに、政府が行う事業はすべて所得再分配なのですから、国民全員で作ったものを、国民全員に分配することが目的であり、そのための法律や道徳を創り上げることがケインズ的な政策の骨子になります。

 そして、そのことを今の資本主義的な社会体制の中に、出来るところから配置していくのです。そうすれば、あらゆる事業について民営化とはまったく逆の流れ始まります

 もし、国民全員が生きて行けるようにするということが国是になるならば、一部の国民の利益を守り、他の国民は見殺しにするなどというみみっちい政策はあり得ません。

 例えば、水道料金などの公共料金でも同じです。料金を取る必要はありません。それは、料金未払いの時に、水道や電気を止めてみれば判ります。止められれば、住民は死にます。死なないのは、なんとかしているからです。なんとか出来なければ死ぬしかありません。

 水道が止められたことで誰かが死ねば、政府は国民から非難を浴びるでしょう。それが、料金など関係なく、政府が負う使命であり、命の源である水を対価が無くても供給しなければならないという証拠です。

 水の供給も、国民全員で生産したものをみんなで分け合うという所得再分配の大きな柱の一つです。本来、ビジネスとは無縁のものです。

 ただし、使い過ぎを放置するわけには行きませんから、国民一人当たりの一定量を決めて、それを超えた分については懲罰として何らかの金銭を取るということはあるべきでしょう。しかし、それはあくまで懲罰なのであ、料金ではありません。

 生活保護の場合はそれらが無料の上、生活費まで支給されるのに、他方において水道料金を低所得者や貧困層から取るというのは矛盾ですから、一般の国民にとっても水道料金の基本料金は無料が正しいのです。電気も、ガスも、教育も無料すべきです。

 しかし、医療費をタダにした場合、どこも悪くないのに病院に通う者が出て来ることへの対処をしなければなりません。

 通院するということは、排他的に医療の機会を占有するということですから、暇つぶしに近いほどの通院なら懲罰的に課金されるべきですが、暇つぶしかどうかは識別出来ませんから、国民全員がその識別の不完全さの責任を負うという意味の治療費の負担になります。

 名目は治療費となったとしても、それはあくまで治療の対価という意味ではありません。なぜなら、治療の対価という考え方は、社会福祉の理念に反するからです。

 ケインズは、社会の基盤となる産業、燃料、水道、電気、公共交通、郵便、通信などについては国営とし、その他の趣味、芸術、娯楽、高度な家電機器、高度な交通手段など文化的分野を民間にまかせるという社会を想定しています。

 ケインズが社会主義に似ていると言われる所以はここにあります。

 

 

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