④労働者のプライドは法律から生まれる

 

 そもそも、19世紀の資本主義の荒波の中で、マルクス主義以前の伝統的な社会主義は何と言っていたのでしょうか。それは、労働者を人間として扱えと言って来たのです。そのためには、労働者自身が、自分の労働力を高く売り、自らの運命を切り開けるような交渉の足がかりが必要です。

 昔は、そうした、労働者が会社経営に意見を言うための労働組合があり、法律がこれを支えていました。発言の場を支えていたものも法律だったのです。よって、労働者は自分の会社を「俺の会社」と感じることが出来たし、社会に対しても胸を張って「俺の会社」と言うことが出来たのです。それは、突飛な感情ではなく、法律という土台に立った、権利から生じるプライドでした。

 会社は公器であり、株式は保有していなくても労働者自身のものであり、国民のものであることによって、はじめて存在が許可されているものです。

 すなわち、会社は、国民主権の合意があって存在し得るものです。株主が自分の力で会社を維持していると思うのは錯覚にすぎません。それは国家から生産と分配をしっかりやるという制約の下に許可されることによって、つまり、法律によって株主という職種が辛うじて存在しているにすぎません。

 同様に、労働者のバックにも法律が存在し、それによって、労働者が会社を自分の人格の一部と感じる根拠が存在したのです。

 ところが、1989年に冷戦が終結して以来、日本の歴代政権は、そのような労働組合の発言力を抹殺する政策を採って来ました 特に、小泉政権時代は、企業は株主のものということが強調され、株主の利益を優先する風潮を作り出しました。悲しいことに、いまや、労働者は会社に何の口出しも出来ないような存在になってしまいました。

 麻生太郎氏もこれに加担しました。時代が株主至上主義に変わろうとしていた時に、これに疑問を持つきっかけとして、「会社は誰のものか」というテーマが面白いテーマとしてマスコミが麻生太郎氏に質問をしたときに、「かつて、会社が株主以外のものであったということは聞いたことがない」と言って、一瞬にしてこの話題を葬り去りました。麻生太郎氏は最もタチの悪い役割を果たしたのです。

 このとき、法律によって労働者の権利が守られている限り、会社は公器であり、労働者のものであり、国民のものであるという議論をすべきだったのですが、麻生太郎氏は労働者を足蹴にし裏切りました。むしろ、もともと、麻生太郎氏は富裕層の出身であり、労働者の味方であったことはありませんから、始めから労働者の敵であったと理解すべきでしょう。このとき、本性を表しただけなのであろうと思われます。私はそのことが判らなくて、かつて麻生太郎を所得再分配派のごとく錯覚し支持していたことを、今となっては恥と思っています。

 現代は、かつての日本の労使関係からはまるで別世界のような世の中になっています。労働者は使い捨てにされる原材料の一つに過ぎなくなっているのです。

 それは、歴代の自民党政権および竹中平蔵氏などの影の協力者の暗躍によって弛まず法律が労働者を搾取するものに変えられて来たからです。そのことからはっきり言える事は、かつて、労働者のプライドは法律によって作られて来たし、これからも法律による以外の方法で作られることは絶対にないということです。

 人治のやり方、すなわち、経営者の善意に依存するやり方でも、労働者の待遇の改善はあり得ます。しかし、そのことは、翻って、首を切られるときは、組織の一員として使命を果たせなかった懲罰としてではなく、経営者の気まぐれによって行われることがあり得るということでもあります。このようなものは労働者の権利とは言いません。卑屈な主従関係で生きながらえるだけのことです。

 これは、すなわち、労働組合は目先の組合員のためだけの待遇の改善ばかりを目的としてはならないという教訓でもあります。連合のように、現在において正規雇用されている者たちを守る代わりに、新規採用はすべて非正規雇用とすることを承諾するような、資本家との卑屈な取引を行うべきではないのです。

 労働者がプライドを持って生きて行くためには、誰かの口利きによる一つや二つの特別待遇ではなく、「労働者は待遇の改善を要求できる」と書かれた法律による、弛まざる待遇改善が必要なのです。法律によってのみ、会社に対する、解雇されない権利、生産への貢献に対する正当な待遇を得る権利が確立されます。

 公器ということを考えて見れば、この世には、何ひとつ個人の無制限な自由の下に存在するものはありません。それは、あらゆる人間の生存が他人の生産によって成り立っているからです。したがって、あらゆる人間的存在、そして資本家もまた他人に対して義務を負わなければなりません。企業が公器であるとはそういう意味です。

 そして、人間の生存に対して最も貢献度の高い者が、すなわち労働者が、この世において最も報われるべきなのです。

 したがって、社会への貢献者が最も報われるべきであるという道徳の名において、労働者は肩で風を切って街を闊歩し、投資家や債権者は金融屋として、社会の然るべき評価において隅のほうで小さくなっていなければならないはずです。それがまっとうな世界観というものです。

 

 

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