③非自発的失業の存在

 

 ケインズは、新古典派経済学の雇用に関する公準は二つあるとし、次のように指摘しています。

 第一公準は雇用の需要関係(企業が雇用しようとする動機)に関するもので、賃金はその労働が一単位減った場合に減る生産物の価値に等しいというものです。

 第二公準は雇用の供給関係(労働者が働こうとする動機)に関するもので、労働者は物価の変動に影響される実質賃金で考えていて、労働者の満足する実質賃金以下では働かないというものです。

 ケインズは第一公準についてはほとんど触れていません。

 第二公準から導き出される新古典派の結論は、労働者の喜んで働くかどうかの意志は強力であり、労働者自らの意志で失業、したがって、失業には「自発的失業」以外に存在しないというものになります。

 すなわち、あらゆる失業は、職探しの途中または分不相応な賃金を要求しているかのどちらかしかないと言うことす。

 また、新古典派は、投資家は雇用が利益となる限り雇用を拡大し、雇用が利益とならないところで止まるとしていますから、賃金水準さえ低ければ投資家はいくらでも雇用することになり、投資家が雇用を拡大する意欲の持てる賃金水準が常に適正な賃金水準ということであれば、どの段階でも新古典派の言う「適正な賃金水準」における完全雇用が達成されてることになります。しかし、これは詭弁という他ありません。なぜなら、究極的に、タダで働ければいくらでも雇用するという意味になるからです。

 つまり、新古典派は、失業している者は、投資家に損失を与えるほどの適正ではない賃金を要求し、自らの強固な意志によって、雇用されようとしないと言っているのです。

 しかし、ケインズは、現実の社会では、労働者がそのような強固な意志をもって職業を決めているようには見えないと言っています。むしろ、いつも給料が安いとぶつぶつ文句を言いながらでも、仕事を続けているようだと言うのです。

 新古典派の言う賃金の適正値は、物価変動に対して決まるのですから、必然的にその適正値は実質賃金で表されることになります。

 すなわち、労働者が自分の意思でその適正値で働こうとするのならば、必然として、労働者は実質賃金で働こうとしていることになります。

 しかし、労働者は「適正な賃金水準」というものを意図して企業に賃金増額を要求しているのではなく、また、そうでなければ辞めると言っているのでもなく、生活できるような賃金を払ってくれと言っているようにしか聞こえないと言っています。

 これに対してケインズは、第一公準はそのままにして、第二公準を改めなければならないと言っています。

 すなわち、労働者は、インフレによって実質賃金に不足が出来た場合でも労働を止めるということはないし、労働者も不況の時はそんなに突っ張ったりはしないのであって、それでも職にありつけない失業=非自発的失業が存在するのだと言っています。

 ケインズは、あくまで労働者は名目賃金で交渉するのであって、実質賃金は別の要因で決まり、そもそも労働者は実質賃金に関与することは出来ないと言っています。

 ケインズは、むしろ、企業側にとっては、物価が上がり、そのことによって実質賃金が下がったとしても、商品の生産のための人件費の原価費用が減少し、資本の限界効率が高まる要素になるので雇用を増やそうとする可能性はあるものの、実質賃金が下がるということは名目賃金がまだ上がっていないということでもあり、それによって消費が増えずに、必ずしも、企業が将来の見込み収益が上がると思わないので、企業の判断として、全ての労働者が雇用されるという予想にはならないのではないかと言っています。

 したがって、ケインズは、新古典派が言うところの、企業側が、実質賃金が下がれば雇用を拡大するというのは、あまりにも粗雑な分析だろうと言っています。

 名目賃金が上がりそうな世の中の勢いというものが無いならば、資本の限界効率が高まるところまで行かないし、完全雇用達成までには行き着かないと、ケインズは考えています。

 新古典派は、労働者が名目賃金に拘ることを「労働者は貨幣錯覚をしている」と言って、嘲笑していますが、ケインズは、労働者は物価が上がったからと言って仕事を辞めたりしないということ、今の名目賃金より低い賃金で働いても良いと思っていても仕事にありつけないことなど、労働者が実質賃金を参考にして職に就くかどうかを決める立場にないであって、労働者は何も貨幣錯覚などしていないと言っています。

 貨幣錯覚という表現は新古典派の独特な表現であり、労働者は実質賃金で判断すべきなのに、名目賃金で判断していることを愚かなことだと非難する意味を含んでいます。

 貨幣錯覚という視点は、世の中の失業について、政府に責任があると見るか、政府に責任はないと見るかの分岐点です。

 どんな労働組合も、ちょっとでも名目賃金引き下げがあると抵抗して見せます。しかし、物価が上がり、生活費が上昇するたびにいちいちストをする労働組合はありません。

 物価が上昇し、実質賃金が下がることによって、資本家がその賃金水準で雇用を増やすことについて、労働組合も文句を言うことはなく、新古典派が言うように、労働組合の存在が物価上昇に伴う総雇用増加の障害になることはないと、ケインズは言っています。

 また、新古典派は、名目賃金が下がれば、最終製品の価格が下がるので需要が刺激され、したがって、むしろ産出と雇用は増えると言っています

 これは古典派が名目賃金が下がって、労働者が相対的に貧困化することで、総所得全体に対する限界消費性向が下がっても、需要には影響しないと想定しているのに等しくなります。

 もちろん、新古典派のように、名目賃金が下がっても、需要に影響が出るはずがない、と固執する経済学者もいるかもしれません。しかし、名目賃金が下がったら、一部の労働者の購買力は下がるので、生産量の増加に対応する総需要に影響があると考えるほうが普通だろうとケインズは言っています。

 確かに、最初は、他の労働者たち所得が減っていないので、物価下落に刺激され、他の労働者たちによる需要は増え、産出と雇用は増えるかも知れません

 新古典派は、名目賃金変化に対する労働の需要弾性(雇用増加率÷名目賃金減少率)は1より大きく、新しい均衡では他の場合よりは雇用が増えると言っています

 この新古典派の主張に対して、ケインズは、名目賃金の削減によって、労働者が相対的に貧困化することで起こる消費性向の低下から、有効需要の減少の可能性を見落としていると言っています。

 そして、ケインズは、雇用の量は有効需要と一意的に相関しており、資本の限界効率にも影響するので、したがって、名目賃金の削減で雇用を増やすことは出来ないと断言しています。

 

 

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