建物固定資産税が地価を下げる

 

 建物固定資産税は、東京などの大都市なら持ち堪えられる水準の税額かも知れませんが、収益力の乏しい地方ではたちまち臨界点を超え、持ち堪えられません。

 それは課税方法が、東京などの大都市収益力の乏しい地方とで、同一の規格の建物なら、全く同じ税額となるような方式だからです。

 そのために起こっていることが地方の地価の下落です。

 土地は第一義的に建物を建てるためにあります。そうであれば、建物固定資産税は土地の利用目的を阻害することになりますから、地価は下落します。

 建物固定資産税の大きさが、土地建物合計の収益力を圧迫すれば、土地保有の意欲が損なわれ、保有のメリットのなくなった(特に地方田舎町の)土地の価格は下がり続けます。

 事実、建物固定資産税は、地方にとっては重すぎるため、地方において地価を押し下げています。そして、そのため、地方の中小企業はそのほとんどが再起不能になっています。

 地方の土地の価格は際限もなく下落するでしょう。この意味は、地方に住む日本国民は、ほとんど私有財産を持つことが出来ないということでもあります。すなわち、どんな豪邸でも売るときは二束三文ということであり、銀行もそれなりにしか融資しません。

 資産制度とは担保制度でもあり、すなわち、金融制度の一つでもあります。

 よほど才能があり芸術家のような収入源を持っていれば、担保は必要でないかも知れませんが、大概の人はそんなものは持ちませんから、信用の基礎として、住宅、土地、預金、株式といった担保となり得る資産を持つことが求められます。

 それでも、シャウプ勧告にこじつけて、東京第一主義者たちが建物固定資産税の課税標準を再建築価格にしたとしても、課税評価額が低いときはまあまあ良かった、というより誰も気にしませんでした。

 しかし、1994年の自治省通達により、土地も建物も同様に課税評価額が大幅に引き上げられたとき、この建物固定資産税の課税方式で、東京は支えることが出来るが、地方は支えることが出来ない過剰な負担となったのです。

 「再建築価格」とは、長年所有している既存建物でも、現在相場で新築するといくらかかるかという建築価格から経年減価分を差し引いたものです。しかし、その度合いは自治体に任されており、言うなれば自治体は打ち出の小鎚のように自由に評価額を調整出来るようになっています。

 実際、ほとんどの自治体では、鉄筋コンクリート造および鉄骨造の建物は全く経年による減価調整は行われません。

 したがって、自治体は、古い建物でも鉄筋コンクリート造および鉄骨造の建物は、解体されるまで、新築の時とほとんど変わらないような大きな固定資産税収入にありつき続けることが出来ます。まさに打ち出の小槌なのです。

 ある価格がそのモノの価値になるためには、その価格で換金できることが前提にあります。そうでなければ、価格をそのモノの価値などという者はいません。ところが、「再建築価格」は、実際には誰もそんな価格で買わないほどのトンデモない価格になっていす。

 家賃収入がある建物でも、建物固定資産税評価額のように高い価格で買う者はいません。なぜなら、高い評価額にも関わらず、解体しなければならないほど危険になる耐用年数が近づいているからです。ましてや、空室だらけの建物はタダ同然どころか売買のときには解体費用を要求されるほどであり、この場合、建物はマイナスの財産となってしまいます。

 それにも関わらず、建物固定資産税は「再建築」された建物という架空の存在、および、架空の価格に課税し続けているのです。

 なぜ、地方自治体がこのようにしゃにむに固定資産税を取ろうとするかというと、緊縮財政という政府方針によって固定資産税収入地方自治体の歳入の基幹税とされたことで、地方自治体としては下げようにも下げられない状況に追い込まれたからです。

 しかし、国家であろうと、地方であろうと、財政の財源はすべて貨幣発行権に由来するということは前に言った通りですから、本来のあるべき姿において、地方財政が固定資産税にしがみつかなければならない理由は全くありません。

 ところが、地方は中央政府と切り離された自主財源を持つべきだという緊縮主義者たちの主張があり、三位一体改革で地方交付税を削られ、その代わりに、固定資産税で財政の穴埋めをするような税制に変えられました。

 それによって、住民にとっては固定資産税の増税分だけ負担が増えることになったのです。

 麻生太郎氏は、財務大臣になる前は固定資産税を元に戻せば地価が上昇し不良債権問題はすぐに解決すると正しいことを言っていましたが、財務大臣になると何も言わなくなりました。

 おそらく、保身のために安部首相と竹中平蔵氏に追従したためと思われますが、保身の為に自分の主張を曲げるのでは政治家失格と言わざるを得ません。

 ただし、麻生太郎氏が公約を守ったとしても、固定資産税を元に戻すという発想は正しいとは言えません。固定資産税の課税の正当性を考えれば、もともと建物や機械に課税すべき理由はありませんから、元に戻すのではなく、建物や機械にかかる固定資産税について、廃止すれば良いだけなのです。

 土地固定資産税については、道路建設において接道する土地の地価が上がり、地主は格別な利益を得ますから、なんらかの応益税の課税は正当性があり、現在の未実現の所得に課税するという課税の形式に問題があったとしても、道路建設による接道する土地の格別な利益への課税には一定の合理性が認められます。

 また、その合理性は、流通価格に課税するという方法についても支えられています。なぜなら、課税標準が流通価格である限り必ず均衡点があるし、東京が大事な役人は、東京が不利にならないように、必ず「適切」な税率を探し出すからです。

 建物固定資産税については、1994年の増税において、はじめて、間違ったのではなく、すでに、1950年のシャウプ勧告にかこつけて、日本側が再建築価格という小賢しい課税標準を考え出したときに、課税標準の小賢しさという点においても間違いを犯していました。

 しかし、それよりも、さらに悪いことは、何ら懲罰されるべき性質を持たない建物に課税しようという時点ですでに間違いを犯していたのです。建物固定資産税について、間違いの上に間違いを重ねたのです。

 アメリカの場合はまだマシで土地建物を一体とした流通価値を課税標準としています

 不動産市場における建物の流通価値というときは、現実に誰かが買うという価格で

 悔やまれるのは、あの時、なぜ、流通価値を精査して決めるアメリカ型そのものを導入しなかったのかということです

 なぜ、日本政府は建物を分離して「再建築価格」などという世界に例のないものを課税標準にしてしまったのでしょうか。もう、これは何かの陰謀ではないかとも思えます。それほど奇妙なことなのです。

 これには次の説があります。土地建物を一体とした流通価格を課税標準とすれば、東京は地方より圧倒的に高額の固定資産税を負担しなければならなくなります

 しかし、「再建築価格」を課税標準とすれば、「再建築価格」は東京でも地方でも同じですから、東京の負担をの地方並みに軽くすることが出来ます。当然、東京の負担が軽くなった分、地方負担は重くなります。

 しかし、東京第一主義である日本の政治家と中央官庁は地方のことは気にしません。

 この姑息なアイデアを出した者が誰かは知りませんが、この姑息さが、日本人を、現代の子孫に至るまで苦しめているのです。

 土地固定資産税の場合は、流通価格に課税されているので、地代収入が悪化すれば課税標準の流通価格が下がるので、比例して固定資産税額も下がります。したがって、必ずどこかで担税力と固定資産税額は均衡します。課税標準額を流通価格とする合理性はここにあります。

 しかし、建物固定資産税は、どんなに景気動向によって家賃収入が悪化しても、課税標準の再建築価格は下がらないので、税額も下がりません。したがって、建物固定資産税にはどこにも担税力と課税額の均衡点はありません。景気が悪くなり始めたら、もうそのスパイラルから助かる方法はないのです。

 土地には格別の行政サービスが存在すること、また担税力を意味する流通価格を課税標準とするという点において、土地固定資産税と、「再建築価格」を課税標準とする建物固定資産税(または機械にかかる固定資産税)とはまったく別の課税の動機があり、同種の税とることは出来ません。

 

 

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