③「バブル崩壊」は国際金融資本(経団連)による日本の間接金融停止の要求から始まった

 

 国際投資家、金融資本主義者、新自由主義者、グローバリストなど呼び方は様々ですが、これらの間接金融の存在を快く思っていないグループが、「民間の投資活動に金融機関が協力する」という関係を表現すればどうなるかというと、「民間の投資活動の暴走に金融機関が加担する」という表現になります。

 つまり、金融機関の中小企業に対する融資活動が悪者になってしまいます。

 金融機関の中小企業に対する融資活動は主として不動産を担保とする融資になりますから、不動産担保融資が悪であるということになります。悪=不道徳です。

 そして、正に、不動産担保融資不道徳自民党政府が1989年の不動産バブルに対して打ち出ている総括であり、間接金融を停止させた理由付けです。

 このパターンは、公共投資を否定した時と同じものです。つまり、「公共投資は贈収賄の温床になるので、公共投資そのものが悪である」という論調とそっくりです。そのために、公共投資という所得再分配の有力な手段の一つが封印され、経済成長を妨げる大きな要因になってしまいました。

 これらの問題は、本来、どのように総括されなければならないのでしょうか。元々、間接金融は中小企業や普通の国民のためのものでした。

 政府は全ての間接金融を適正に監督しコントロールなければなりません。間接金融を全部辞めさせれば、監督当局は楽になりますが、その代わり、中小企業や国民は資金源を失い、塗炭の苦しみを味わいます。

 しかし、それでは職務放棄したと同じことであり、金融機関の存在する意味がなくなります。

 金融機関が中小企業金融に熱心であり、したがって社会的に好ましい姿勢でいる場合、金融機関が損失を出していても、行政としては不問、不関与とすべきです。

 なぜなら、それは中小企業の生産の難しさの問題であり、むしろ、行政は中小企業の生産の難しさに対して支援すべきだからです。

 中小企業への融資活動の結果として金融機関が持ちこたえられなくなったときにだけ、関与の重い腰を上げれば良いだけです。

 ただし、そのときは、金融機関の経営者が交代するのは止むを得ないにしても、むしろ、行政は、地域の中小企業への融資に熱心であった金融機関を褒賞し、なおかつ、金融機関そのものについては、危機から脱出させるために全力で支えなければならないはずです。

 ところが、現在では、「政府が金融をコントロールする」という意味は、中小企業を見捨てて、「金融機関の経営者」を守るという意味で使われています。

 その証拠に、政府にとっては、金融機関が危機に陥れば、責任を取らなければならない官僚や担当官はたくさん居るのに、中小企業が悪くなっても、責任を取らなければならない官僚や担当官は誰も居ません。

 このような方針で金融行政をやられたのでは、中小企業はたまったものではありません。

 現実に、金融機関の経営が安定化する一方で、間接金融つまり中小企業金融は停止したまま、中小企業は資金の循環に困窮しています。

 間接金融を停止させた方法の第一は地価の下落政策です。

 地価の下落で不良債権が拡大し、不良債権処理を口実として間接金融は抑制されて来ました。

 しかし、不良債権処理の裏では、固定資産税の重税化による地価の下落政策、すなわち、担保の破壊が行われ、政策として故意に不良債権を増加させていたのです。

 むしろ、金融機関の健全化のためには、あらゆる方法を使って、地価の下落を食い止めなければならないはずです。

 リーマンショックと呼ばれるアメリカの不動産バブル崩壊のときには、アメリカ政府もマスコミも一丸となって、不動産価格の下落を食い止めようとしました。

 そうでなければ、金融機関の融資活動の活力は守られないからです。

 ところが、日本ではまったく逆の政策が採用され、地価の下落政策が行われていたということは、確信的に、日本では間接金融を停止させようとしたと考えるしかありません。

 では、間接金融は無力化されたことによって、金融機関が経営困難に陥ったかというと、それは起こらず、むしろ、金融機関の経営は改善されています。それは、政府は金融機関が騒がないように飴玉を与え、保護したからです。

 デフレによる実質債権価値の維持、郵政民営化による郵便貯金と同等の国債購入への参加、当座預金付利子制度の導入、証券市場への参加許可などが飴玉に当たります。その結果、金融機関の経営はみるみる健全化し、中小企業だけが衰退して行ったのです。

 自民党政府のありとあらゆる政策で、「バブル崩壊」という三文芝居が興行され、間接金融の機能を停止させられました。

 そして、現在も、自民党政府は、金融庁を使って金融機関が中小企業に融資しないように、金融機関の一々の融資の些細な部分にまで口出ししています。自民党の中小企業金融に対する妨害は徹底しています。

 しかし、政府が一々民間経済をコントロールする等はあってはならないはずです。誰にどれだけ融資するかは金融機関の自由にまかせるべきであって、政府の関与はその融資行為ではなく、破綻した場合、誰が責任を取るのかの方向に限定されるべきです。

 もちろん、金融機関の破綻の責任は、法的にも現実的にも金融機関の経営者にあります。政府は、経営者を辞めさせ、株主に損失を出させ、新装開店させなければなりません。

 それが終わったら、政府は、資本主義が根源的に抱えるリスクの最後の責任を取らねばなりません。つまり、間接金融の保全のために預金を全額保護することです。

 ペイオフの解禁などは、いたずらに国民を不安にするものでしかなく、国民と金融機関の取引に嫌がらせをする以外の何の意味もありません。

 これは無責任に言っているのではありません。政府とは国民の代表機関ですから、政府が責任を取ることにより、国民全体が責任を取ったことになるので、政府は無限の責任をって預金を守るべきであると言っているのです。

 制度的存在としての金融機関は公器であり、全ての公器国民のものであるという意味において国民のものなのであり、そうであるからには、金融機関は国民のものであるという意味を具現化しなければなりません。

 その具現化とはすなわち国民全体の代表機関である政府が、預金を全額保護することによって、国民自身が金融機関の破綻の責任を取るということです。

 そうしてこそ、国民は国民自身のための間接金融を守ることが出来ます。そして、それ以外に国民国民自身の間接金融を守る方法はありません。

 政府が金融機関の融資行為に口出しすることを止め、そして、金融機関が自由に判断できるようにすれば、金融機関は自らの目利きを信じて、大胆に融資するようになります。

 政府は、民間がもしかしたら過剰投資であるかも知れない投資を行っていても、例え、それがバブルと見紛うばかりの資産の値上がりを伴ったとしても、決して、「間接金融の停止」などという愚かな政策を行ってはならないのです。

 そんなことをすれば、すでに経験したように、間接金融の経済活動そのものが止まってしまいます。

 どんなに頭の悪い政府でも、「間接金融の停止」だけはやってはならなかったのです。ところが、自民党政府は、それをあっさりやってしまいました。

 自民党は、とんでもない能無しと呼ぶべきか、あるいは、とんでもない裏切者と呼ぶべきか、少なくとも、どちらかであることは間違いありません

 

 

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