①新古典派経済学・新自由主義・金融資本主義・自由貿易主義は敵である

 

 なぜ、ことさらに敵とか味方とか、敵意を煽ることを言うかというと、経済学の議論では、議論しているときに、「そういう考え方もあるね」と逃げられるケースが多いからです。

 それは「あなたの考え方も正しいが、私の考え方も間違っていない」と、議論の決着をうやむやにしようとするものです。

 しかし、心の中ではまったく反対の考えをもって、こちらが国民生活の向上の話をしているのに、相手は国民生活を犠牲にした投資家の利益のことしか考えていないというのに、ここで和解してしまったのでは、何のための経済論争か分からなくなってしまいます。明確に、敵味方の区別を付けなければ、国民は救われません。

 このうやむやな和解こそが、長年に渡って国民生活を貧困のままにして悲劇を生んで来た元凶です。日本においては、国会の場でも、テレビでも、議論らしいことは行われたことはなく、ましてや、決着が付けられたことはありません。

 そのために、日本においては、消費税の国民にもたらす致命的な悪事について議論されたこともなければ、社会保障費の財源が消費税でなければならない理由について議論するという中学生でもやりそうなことが行われたことがありません。

 このようなことをやっていては、いつまで経っても真理は語られず、国民が幸福になることは出来ません。

 ケインズも議論には手加減は無く、あらゆる権威を叩き潰しました。そのため、ケインズは学会から役職を奪われ、仲間からも絶交されるなどされ社会的に報復を受けました。

 しかし、徐々に、ケインズ理論の正しさは広まって行き、やがて、それまでの経済学の常識をひっくり返すほどの真理の発見として称えられ、ついに、ケインズ経済学は、一時期、学会や大学から新古典派経済学を追い出し、経済学の主流になりました。

 これをケインズ革命と言います。

 ケインズ革命において最初に学ぶべきは、敵意と憎悪の精神が無ければ、何も生み出すことは出来ないという事実です。

 ケインズ経済学の構築者、ジョン・メイナード・ケインズ(1883年6月5日~1946年4月21日)は、イギリスで生まれた経済学者で、20世紀学問史において最重要人物の一人とされています。

 ケンブリッジ大学でケインズを指導したのはイギリスの新古典派経済学の代表ともいわれるアルフレッド・マーシャルでした。新古典派経済学は、市場の自由にまかせておけば全てうまく行くので、政府は何もしなくても良いというものです。ケインズは、恩師であるマーシャルに反逆しました。

 伊東光晴氏が、岩波新書から出版した著書「ケインズ」において、49頁~50頁にかけて次のように語っています。

『・・・それにもかかわらず、ケインズがマーシャルに対していだいていたこのような批判は、ハロッドが指摘するように根深いものがあったように見える。それはマーシャルの理論に対しての批判ではなく、その著作のなかにみられる「ヴィクトリア時代(1837~1901)の道徳観」についての反感であった。

 マーシャルの本たとえばかれの主著「経済学原理」をひもとくならば、貧乏の問題の解決をかれが強調していることがわかる。イギリスが発展に発展をとげたヴィクトリア時代になぜ貧乏があるのか。これがかれの問題であった。そしてマーシャルは、これから経済学を学ぼうとするケンブリッジの学生たちに、経済学を学ぼうとする者はまず、イースト・エンド(ロンドンの貧民窟)へ行ってこいと、といったといわれている。それは冷静な頭脳だけでなく、温い心をやしなうことが経済学の勉強には必要だと考えたためであった。

 そのマーシャルの結論は何であったか。レッセフェール、自由放任、自由競争、これによって社会は進歩する。自由放任、それは何もしないことではないか。イースト・エンドに行くことの結論が何もしないことであるとは!ここにケインズがヴィクトリア時代の道徳の偽善的一面を見出したのは不思議ではない。ケインズは、たんにマーシャルに反発しただけではない。マーシャルを含めて、19世紀のヴィクトリア時代の偽善と道徳、鼻持ちならない倫理主義に反発したのである。そして、その反発もまた、単にケインズ一人のものではなく、二十世紀になって世に出ていく多くの青年たちに共通のものであった。』(引用以上)

 実際、道徳とか倫理とかいうものは、必ずしも人道的ではなく、時には冷酷なものです。なぜなら、道徳は時の権力者の意思を反映し、そして、権力者に媚びた風潮を反映するので、具体的には権力者側の多数派の利益を尊重するという意味しかないからです。

 全ての時代において、全ての人民の利益を尊重するのであれば、それは神がかり的な立場であって、もはや強制そのものであり、道徳とは呼びません。

 日本人はもともと世界の中でも最も空気に流されやすく、同時に、最も道徳を守ろうとする意識が強いと自負していますが、それは空気に流されるということと、道徳的であるということが同じ意味を持つからです。

 空気に流されやすく、道徳的であることは、権力に従うということなので、同時に敗者や弱者を排除することによって全うされるものでもあります。

 日本人は、最も道徳を守ろうとする意識が強いと言われることを誇りとするのに、敗者に冷酷な傾向が強いと言われることについては恥とは思っていないようです。

 これは恐怖です。

 例えば、日本は動物愛護法が脆弱なので、一人の裁判官によって犬猫は街にいないことが基本であるという判決が下されたり、検察当局が動物の虐待者に不起訴などを連発して無関心を示すことによって、社会の空気は一気に野良犬や野良猫の絶滅を正義とする方向に走り出してしまいます。

 その結果、何の疑問もなく、野良犬や野良猫は数年のうちに街からいなくなってしまうでしょう

 日本では、価値観を明確にしない秩序の空白地帯においては、被害者が一方的に神聖な立場にいるので、例えば、法律や団体など何のバックもない町内会長が猫の糞による被害などは、軽微なので問題としないなどと言えば、実際、町内会長は殺されかねません。

 ただし、猫の糞の清掃に関して町内の有力者が力を入れていれば、町内の者は皆迎合して、猫の糞を笑顔で許容するであろうと思われます。つまり、道徳とはそういうものです。

 政治の場においても、そのリスクの大きさから、本当に軽微な被害についても独断で軽微であると言うことの出来る政治家いません。支持者の意志が弱いので政治家も意志が弱くならざるを得ないのです。

 ましてや、有力者の後ろ盾もなく、『猫の糞による被害などは軽微であり、掃除すれば済むことなので、それによって野良猫への餌やりを禁止するというのは行きすぎだ』などと言えば、猫の糞による被害を訴えた人は真っ赤な顔をして怒り、本当に殺されかねないほどなのです。

 こうした感情が日本の道徳の基本に存在します。

 2007年のアメリカのピューリサーチセンターの調査によると「国は貧しい人々の面倒を見るべき」という考えに対し、同意すると答えた人は、イギリス91%、中国90%、韓国87%、アメリカ70%であったのに対し、日本は47カ国中、最下位の59%だったという報告があります。つまり、日本人の41%は、弱者に無関心だということです。

 こうした国民性の下地があるせいか、日本社会は、労働者に対しても同情的ではなく、企業が利益を上げるためには、労働者は自分を犠牲にすべきという道徳、負債に関しては、負債は命に代えても返済すべきという国民的な道徳があります。

 そして、これらの道徳は、自己犠牲を美徳とする武士道とも一致しています。

 武士道はもともと武士の雇い主である君主に都合の良い価値観を、武士の美徳として身体に叩き込んだものであり、数百年に及ぶ洗脳の成果なのです。

 日本の武士道のエピソードに、武士の子がある商人に餅を窃盗して食べたと疑われ、その親である武士が疑いを晴らすために、自分の子を斬り殺し、胃を切開して商人の前にさらして、自分の子の潔白を証明して見せた上、冤罪をかけたその商人を斬り殺し、自分も自害して果てたというものがあります。

 驚くべきことに、この話は、武士道の美談として現代に語り継がれています。

 これは、武士道というものが長い歴史の中で、主君へは利益のみを与え、負担はすべて家来の武士が負うべきであるという忠義の理論として鍛え上げられて来たものです。

 自己犠牲を美徳の中心に据えた武士道精神は、日本が国際社会でビジネスを行い、日本が経済的に発展するために有利に働きました。

 しかし、国がある程度の発展を遂げ、国民の福祉が取りざたされたときに、自己犠牲を道徳の中心に据えた社会では、福祉の精神を理解することが出来ず、大変ぎごちない展開をもたらしました。

 国民も指導者も伝統的な自己犠牲を根幹とした道徳律と、近代的な福祉の理念の間の溝をどう埋めれば良いのか判らないのです。

 「企業のために自分を犠牲にし、負債は命に代えても返済すべき」とする道徳は投資家と債権者にとって都合の良いものの、弱者救済という思想には馴染みません。

 その日本にケインズ主義を導入して行くためには、自己犠牲ではなく、逆に、社会による弱者の救済の正当性を訴えて行くところから始めなければなりません。

 しかし、それは大変難しいのです。なぜなら、それは日本人得意の暗記で乗り越えられるものではなく、日本人が最も苦手とする弱者への暖かい感情を養うことで初めて理解できるものだからです。

 まさに、そこに日本がケインズ主義を受け入れるときの障壁があります。

 ケインズは、需要側重視の理論の中で、消費性向の高い低所得者や貧困層の所得を上げたり、減税したり、将来に期待を持てるように分配すれば、消費が増大し、消費の増大に呼応して始めて企業は新規投資を増大させ、経済成長が達成されると言っています。

 ケインズは、弱者にお金を持たせるためには手段を選ぶ必要はないと言っています。ケインズの理論における、穴を掘って埋める経済政策や、埋めた貴金属を再び掘り起こさせる政策が所得再分配のためには手段を選ぶ必要はないということを指す比喩であることは自明のことで

 ケインズは、公共投資は一時的な効果を与えるものの、限定的な効果しかなく、むしろ、税制や雇用制度などの制度的な枠組みの変化が重要であると言っています。

 このような、税制や雇用制度などの制度的な枠組みの変化とは、簡単には行きませんから、すなわち社会がひっくり返るほどの革命を必要とします。

 つまり、ケインズは、低所得者や貧困層などの弱者への所得再分配は制度的な枠組みの変化によって行い、その低所得者や貧困層などの弱者への所得再分配という制度的な枠組みの変化が永遠に保証されることで、国民ははじめて政府の政策を信用し、ようやく限界消費性向を上げ、そのことで投資家の期待(総需要)を増大させ、それによって投資家の予想(総供給)が上昇し、はじめて総需要と総供給の交点である投資家の決心(有効需要)を増大させることが出来ると言っているのです。

 すなわち、これほどまでの、国民の心理の変化は制度的なものについては革命でも起こさなければ生まれるようなものではありません。

 まさに、景気回復は、大体において簡単なものではなく、それは、革命にも匹敵する程の政治家の決意が必要なのです。

 低所得者や貧困層などの弱者にお金を持たせる所得再分配政策によって、はじめて国民の限界消費性向が増大し、そして、はじめて投資家の心理が前向きなものに変化します。

 それはつまり、民間の投資が国家の生産の大部分を占めるために、制度的な枠組みの変化によって、何が何でも低所得者や貧困層などの弱者にお金を持たせ、そして、何が何でも投資家の決心(有効需要)を増大させる以外に景気を回復させることはあり得ないという意味でもあります。(※総需要、総供給、有効需要はすべて新規投資[新規の雇用・設備・在庫品投資]に関するもので、既存株式や中古債券の売買は含みません。)

 GDP統計の「Y=I+C」(Y:総所得、I:総投資、C:総消費)において、消費Cは消費活動によって投資Iから購買されたものであり、購買される消費Cが無いのに投資Iだけが単独で発展することはあり得ず、消費Cを増やすことによってのみ投資家は、企業内に現在存在する意味の設備・在庫を意味する投資Iやそうとし、投資Iは消費Cとスパイラルして増加して行くのです。

 ※これはあくまで国内経済のことであり、国民が貧困化してお金を持たないのに、投資が単独で増加することはあり得ません。ただし、投資家が国内を当てにせず、輸出で儲けようとするならば、消費Cに関係なく投資が単独で増加することはあり得ます。その場合は、むしろ、国内は低賃金で貧困化していた方が都合が良くなります。国内の消費を当てにすることと、外国への輸出を当てにすることでは、国民に対する政策の方向性はまったく逆になります。

 ゆえに、国内経済において、消費Cを増大させるためには、低所得者や貧困層にお金を持たせることが必須です。それなくしては、消費Cの増大はなく、投資増大もありません。

 低所得者や貧困層にお金を持たせる政策によって、投資家は投資の意欲を向上させますから、低所得者や貧困層にお金を持たせる政策を有効需要の創出と言います。

 その政策のために、ケインズ経済学は、需要側重視の経済学(デマンドサイド経済学)と呼ばれます。

 また、その弱者救済のための所得再分配政策を重視する政府を大きな政府と呼びます。

 大きな政府は、政府の財政規模の単純比較を言っているのではなく、政府が国民生活に大きく関わる姿勢を持つために、必然として、政府の権力も財政規模も大きくなることから、そう呼ばれているのです。

 大きな政府は言い方を変えれば、国家主義であるとも言えるし、社会主義であるとも言うことが出来ます。

 この場合、国家主義とは、ファシズム的全体主義という特定の体制を意味するもののではなく、国民に対する国家主権重視の姿勢を指しています。

 社会主義とは、マルキシズム的全体主義を指すのではなく、あくまで資本主義体制の中での、個人の利益よりも社会の利益を尊重しようという思想です。

 逆に、伝統的な新古典派経済学は、投資家の投資が最優先で保護されるべきであるとして、政府が介入することを忌み嫌い、社会の利益よりも個人の利益を重視するもので、小さな政府と呼ばれます。

 もちろん、伝統的な新古典派経済学小さな政府の方が良いというときは抜かりなく、社会の利益よりも個人の利益を重視した方が社会は発展するという理由付け行われています。

 この投資家が投資さえすれば、必然として需要も発生し、社会は発展するという古典派経済学の姿勢は、供給側重視の経済学(サプライサイド経済学)と呼ばれています。供給側とは生産部門という意味ではなく、資本家という意味です。

 サプライサイド経済学は、ケインズ主義とは逆に、消費者の動機を軽視し(消費者の合理的行動の根拠を合理的期待形成などと呼んでいます)、むしろ投資家の気持ちが重要であるとし、投資家の望むように人件費などの経費の負担を軽くし、投資家の利益を保護してやらなければ投資は起こらないという理論です

 しかし、ケインズから見れば、投資家がどんなに有利になろうとも、売れなければどうしようもないので、ケインズはその理論は現実から逆立ちしていると批判しました

 新古典派経済学は政府の関与を排除し、投資家の自由に任せておけば、市場原理によって自然に最も適正な資源配分が行われると言っています。よって、レッセフォール(自由放任)とも呼ばれています。

 小さな政府は、大きな政府とは逆に、政府の関与を極力排除し、失業や貧困の救済は最低限に留めた方が良いと言っています。何もしないことが一番良いとも言っています。

 小さな政府論は、自由が最も大事だと言っていますが、考えて見れば、法律がある限り、「制限のない自由」などは存在しないのであ、あくまでも、あらゆることは富裕層と低所得層のどちらにとって有利なルールかという選択の問題でしかありません。

 そのとき、富裕層と低所得層のどちらの味方なのかを曖昧にし、自由という言葉でごまかそうとする者は、決まって、それは富裕層の味方なのです。

 新古典派経済学の経済成長理論は、政府が弱者の救済などの意図的な政策を行わないで、投資家の自由にまかせておけば、投資家が自然に最適な投資を行い、国民全体が幸福になれると言うばかりです。

 弱者切り捨て、レッセフォールまたは自由放任主義は、新古典派経済学の精神的支柱となるものです。

 この労働者に冷たい新古典派経済学は新自由主義とも呼ばれます。また、市場原理主義、金融資本主義、自由貿易主義呼ばれます。これらはすべて市場への政府の介入を忌み嫌う意味で使われます。

 TPPは、アメリカでさえ二の足を踏んだほどの自由貿易主義の極限的な条約です。TPPは、貿易や投資における国家の関与を取り除こうとするもので、国家が干渉した場合、国は企業に損害賠償をしなければならない規定があります。その裁判は、国家とは関係のない何らかの国際機関ということになっていますが、国際金融資本からコントロールされています。

 市場原理主義のもともとの意味は、国民の公平な競争を意味するものでした。それが、だんだん政府の介入を排除し、企業が好き勝手にやる新自由主義を指すようになりました。

 例えば、家賃保証付きで借家を乱立させれば、その家主は空室であろうと家賃収入を保証されるのですから、本来の借家の市場原理主義にそぐいません。住宅の需要の市場原理を無視して、投資家の自由な発想を優先したのです。

 市場原理主義という言葉の本来持つ意味に触れられず、特殊な市場原理主義であるにすぎない新自由主義を批判するだけのものになっていることは、日本語の語彙を狭めるものとして残念なことです。

 また、新古典派経済学は金融資本主義とも呼ばれます。新古典派経済学は資本を直接金融で調達する経済活動を重視する傾向が強いからですが、他方で、間接金融を敵視する姿勢を持ち、現実において、その間接金融に対する攻撃は行き過ぎており、日本の財務省や金融庁を使って、税制(建物固定資産税の採用と強化)による地価の下落で担保力を破壊し、BIS規制によって、担保力の査定と称して個別の融資に介入しており、そのため、間接金融は機能不全に陥り、日本の中小企業は没落するところまで追い込まれています。

 金融資本主義者たちは、投資家たちが自ら保有する資本の希少性を守るために金融機関による中小企業金融を機能不全に陥らせるよう画策していす。

 新自由主義や金融資本主義は、各国の政府のコントロールを弱めさせ、投資活動の自由の範囲を世界に広げようとしており、これらはグローバリズムと呼ばれています。

 また、自由貿易主義というと良いことのようですが、資本家たちはそのために、各国政府の規制を弱めるための恐ろしい国際条約を張り巡らせています。

 アメリカですら余りの恐ろしさに尻込みしたTPPは、いまや、日本の経団連の自由貿易主義者たちに牛耳られています。

 なんと、日本は経団連の望むままに、アメリカ以上のTPPの推進者となり、主たるメンバーとなりました。今や、TPPは日本の経団連主導によって、徹底的な言論統制が行われ、国民の医薬品、農作物、環境、健康に関する問題すらテレビに出てなくなっています

 

 

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