③景気循環の主役は金利ではなく雇用

 

 新古典派によれば、投資家の投資は資本の需要を表し個人の貯蓄は資本の供給を表すということになっていて、利子率はその両者の量を等しくする資本の価格と説明されていますが、その利子が生まれるタイミングはあいまいにされています。

 しかし、ケインズによれば、利子は貯蓄した段階で生まれるのではなく、投資家が貯蓄の一部を資本として借り入れるときにはじめて決まると言っています。

 実際、ケインズ経済学でも、新古典派経済学でも、マクロ経済の分析においては、預金金利は無視されます。預金金利はどの銀行に預けるか判断するときのオマケでしかなく、総体としての預金の動向を左右しません。

 すなわち、貯蓄をした中から、現金や預金のまま持っておこうとするお金(流動性選好)を除いて、融資しようとするお金についてだけ、金利が生まれるのです。

 金利は「資本の限界効率」(将来の収益の期待)に便乗して、債権者や銀行が自分たちの取り分として要求する分け前の比率にすぎません。

 つまり、「金利」は、債権者や銀行が、投資家の上げた「利益」の上前をハネようとするにすぎないものです。

 「利益」と「金利」を得る主体者は、投資家と債権者というようにそれぞれ異なる名称と定義を与えられています。ただし、現代の社会では両者の性質はしばしば同一視され、ほとんどの場合、富裕層という一つの人格に兼ね備えられています。

 そして、「資本の限界効率」が社会の全ての総合的な状況から生まれるのに対して金利は、政府、銀行、投資家、債権者などの少数者の意志によって決まります。

 だから、金利を経済学で解明しようとしても、それは当事者の思惑次第のものであり、一般的な景気動向の分析の外部に存在しているものですから、大体において賭博的な予想になるのです。

 したがって、ケインズは、財政政策が新規投資を刺激するときに、変化するものは金利ではなく、雇用であるとした方が、話はもっと判りやすくなると言っています。(この時点で、ケインズにとって、IS‐LM分析は受け入れられないものになります。)

 ケインズは、リカードが『「金利」は、銀行の融資利息が5%、3%、2%だろうと、それには左右されず、資本によって得られる利益率によって左右される』と言っていることに触れています。

 つまり、リカードにとって「金利」とは、銀行の融資利息に左右されない広い範囲の利率を含むもので、投資をうながすもの全体を指すもののようだと言うのです。資本の限界効率と金利を分化しない考え方です。

 新古典派の代表ともいえるリカードにとって、投資家の巻き起こす経済状態は自然現象のようなもので、金利も自然現象の一つであり、人間がそれについてあれこれ考えても仕方がないという前提を作りたがっているように見えます。

 注意すべきは、こうした、リカードの想定する「金利は自然現象である」という視点に従うと、恐ろしいことに、政府がコントロールすべきものは何も無いという信念に誘導されることす。

 これは、今日にも生きている考え方で、政府であろうと、中央銀行であろうと、投資をうながす金融政策は基本的に、市場を混乱させるだけので、積極的に行うべきではなく、景気動向は民間の自己責任にまかせるべきであると考えている者は大勢居ます

 リカードなどの新古典派が政府に金融政策を積極的に行わせたくない本当の理由は、金融緩和をするとインフレになり、大企業の株主(いわゆる投資家たち)の保有する貨幣や債権の実質価値が下がり、または、金融機関が融資に積極的になることによって、大企業の競争相手となる中小企業が大挙して投資の現場に参加して来るからです。

 ケインズは、このような、金利は自然発生的なもので、政策でコントロールすべきではないとする、リカードを筆頭とする自然主義的な新古典派経済学と対立したのです。

 ケインズにとって、資本の限界効率は財政政策で変えることが出来、金利は金融政策で変えることの出来るものです。

 それぞれ別のものなのです。それぞれで操作の方法が異なりますが、それぞれ明確な操作方法があります。ケインズの戦いは、そのことを新古典派および国民の全てに認めさせることでした。

 雇用政策は財政政策に属します。つまり、雇用でさえ政府の政策によってどのようにでも変えることが出来、完全雇用も政府の政策によって達成することが出来るのです。

 そして、そのことによってリカードの捉える「金利」(ケインズの言う資本の限界効率を含むもの)も、例外なく変化させることが出来ます。

 ケインズは、「資本の限界効率」は財政政策(雇用政策)によってコントロールし、「金利」は金融政策(銀行金利政策)によってコントロールするものであるという、この自明のことを言うために、「資本の限界効率」と「金利」とをわざわざ切り分けて見せたと言っても良いでしょう

 そして、財政政策という「資本の限界効率」の上昇をもって投資をうながす政策を行うときは、債権者が先走って、債権者の分け前の要求である「金利」の上昇が早くなれば困りますから、金融緩和によって金利を抑制しなければなりません。

 むしろ、所得再分配を目指すならば、債権者たちの横暴な高金利は社会的にも政治的にも非難されなければなりません。金利は経済的現象ではなく、むしろ政治的な問題だからです。

 現在の日本では、金銭貸借契約の公平性ということで、簡単に金利を上げられなくなっていますから、銀行の横暴はある程度抑制され、金利の上昇は景気回復に遅行するようになっています。ただし、逆に、景気悪化の場合は、金融緩和という政府の意思表示を待たなければ、銀行はなかなか金利を下げてくれません。

 財政政策の目的は、政府の景気回復の決心が国民に信用され、限界消費性向が上がり、そのことから消費が増え、在庫が減少し、それによって、投資家は収益を増大させる期待を持つようになり(資本の限界効率の上昇)、新規投資および雇用を増やすというストーリーを実現するためです。

 念のために言っておくと、財政政策は減税政策が中心になります。減税が消費性向の高い低所得層に対するものであれば、所得のほぼ100%が消費に使われますから、消費性向が直接的に上がり、直接的に景気回復の役に立ちます。

 逆に、低所得者への増税たとえば消費税などは付加価値にかかり、悩んだ経営者が賃金を圧迫することから、雇用の縮小・低所得者の所得の減少となり、ほぼその100%が賃金から削られますから、国民全体の所得が下がり、景気悪化をもたらします。消費税は労働者の賃金を下げる最悪の税金です。

 このように、雇用は政策の目的であり、雇用の改善はそのほとんどが政府の意志から生まれます

 だから、政府が失業を民間の経済活動のせいにするのは間違いであるし、民間の経済活動を自己責任で片付けるのも間違いです。

 すなわち、政府は民間の経済活動を主導し、好景気を創り上げる重要な役割を担う主体者なのです。

 そのことによって、雇用が需要と供給を結ぶ糸であるということになれば、雇用政策によって、需要と供給、そして景気循環をリードすることが、政府の責務であることが明確なものとなります。

 完全雇用が達成されることによって始めて各企業も名目賃金を上げざるを得なくなります。

 日本の現状において、名目賃金が数十年もの間下がり続けているということは、日本が意図的に不完全雇用政策を推し進めているからですいくら政府が無能で無為無策でも、ある時期に投資が大量に発生したりして、完全雇用状態となり、名目賃金が上がったりするものです。そうした変動が全く存在せず、継続して名目賃金が数十年もの間下がり続けているというのは、よほど念入りに不完全雇用政策が推し進められているというしかありません。

 日本が数十年もの間不完全雇用状態にあるのは、自民党政府によって意図的に不完全雇用状態を創り出す政策が行われているからです。

 自民党政府の意図的な政策とは、労働者を守る雇用規制の緩和つまり派遣労働者ばかりを増やす政策、安い賃金にするための外国人労働者の輸入(いつまでも人手不足にならない)、余った労働者を雇いたがる中小企業つぶしなどの全てが不完全雇用状態を創り出すためのものです。

 そして、法人税減税と消費税増税の組み合わせは、賃金増加に対する制度的妨害そのものであり、核心的なデフレ政策そのものなのです。

 自民党政府は、法人税減税と消費税増税の組み合わせによって景気を悪化させ、内需型の中小企業による雇用の拡大を困難にさせ、雇用の場における大企業の寡占を実現しているのです。

 また、日本特有の建物固定資産税によって、地価を下げ、担保力を破壊し、中小企業金融(間接金融)を死滅させたことも、中小企業から投資資金を取り上げ、中小企業の雇用を妨害し、完全雇用が達成されることを困難にする手段の一つです。

 

 

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