②リカードの比較優位というタワゴト

 

 自由貿易を推進する理論にリカードの比較優位説(比較生産費説)と呼ばれる理論があります。これは、各国が「比較優位」な産業に特化することで、世界全体としては最も効率的な生産力の配置が行われ、各々の国にとっても最も大きな富や利益を得ることが出来るという理論です。

 もちろん、これは仮説であり、しかも、全世界で完全雇用が達成されているというあり得ない前提のぶっとんだ仮説ですが、それにも関わらず、現代の経済学において最も有力な学説になっているという、世にも不思議な経済学の世界で起こる代表的な例の一つです。

 リカードはハイエクと並ぶ古典派経済学の中心的な人物であり、比較優位説は自由貿易論の主軸となっている理論です。

 比較優位説は多くの欠点を指摘されていますが、それにも関わらず、自由貿易主義者は政治家の無知に付け込んで、いまだにこういう理論を言い続けています。

 つまり、政治家が無知であるからこそ、こういう脆弱な理論でも自由貿易主義者の強力な武器になるのです。

 リカードの「比較優位」は、アダム・スミスの「絶対優位」の概念に対する対語です。

 絶対優位説は、資本力や技術力を基にした生産力の強い企業が、生産力の弱い企業を駆逐するという理論です。つまり、普通の企業間競争の理論です。

 絶対優位説は企業競争がもたらす弊害、つまり、独占資本主義の率直な表現であり、企業競争によって独占が進むことを正直に白状したものです。もちろん、独占を社会的分業の一形態であると言う者がいますが、そう言ったところで、独占の弊害(雇用や物価に関する国民の不利益)の何の解決にもなりません。

 独占の概念は寡占(少数による市場支配)を含み、カルテル(価格の協定)、トラスト(企業合併)、コンツェルン(一つの資本による支配)などの形態を持ちます。

 この独占の問題は、国内においては、弱い中小企業を潰し、雇用および賃金を減少させ、貿易においては、他国の企業および生産力を破壊します。

 かつての世界にはある程度の道徳というものがあって、独占資本による市場の支配は、国内においても、国際社会においても、規制の対象となっていました。

 ところが、アダム・スミスの絶対優位説ではこの独占資本を擁護することが出来ませんし、また、アダム・スミスは独占資本を擁護する意図を持ちませんでしたが、リカードの比較優位説では独占資本を擁護することが出来ます。

 独占資本による市場独占を社会的分業または国際的分業と言い換え、まさに、市場の独占を擁護する理論がリカードの比較優位説です。

 そして、リカードの比較優位説を、国内の市場原理による自由競争になぞらえて正当化する者が居ますが、これまでも国内の自由競争は比較優位以前に弱肉強食の絶対優位の原理に従いがちなのであって、だからこそ、極端な自由競争は規制されるべきという主張も存在して来たのです。

 これが国際間の商売になると、「極端な自由競争は規制されるべき」という国民的合意の外になり、野放しになります。

 つまり、あからさまな絶対優位の原理で競争します。そして、貿易で儲けたい国際投資家は、比較優位というレトリックを使い、どこの国の政府からも規制を受けない自由貿易を正当化しようとしているのです。

 そこで、その流れに逆らって、どこの国であろうと、国家および国民の利益のために、国内産業を守る権利があると考える者たちによって保護貿易主義的な貿易協定の主張が生まれるようになりました。

 国内でも、例えば、ラーメン屋が儲かると思えば、自分もラーメン屋を始めようとし、どこよりも美味くて安いラーメンを出して商売しようとします。

 しかし、ラーメン屋くらいなら、誰でも事業を起こすことが出来ますから、自由にやらせても良いとされていますが、大資本が他者を駆逐しようとして価格競争を仕掛けて来ると、公正取引委員会や消費者組合から規制が入ります。

 つまり、誰が経営しているかが問題なのです。独占資本が経営し、競争を通じて独占資本となることが悪いのであって、独占にならない場合に限り、自由に競争しても良いという意味で、国内において「市場原理による自由競争」は「切磋琢磨の範囲内にある」ものとして認められているのです。

 リカードの比較優位は国際交易において提唱された理論ですから、リカードの比較優位に基づく協定(完全な自由貿易主義)が国際的独占資本の支配を生むものか、あるいは「許された範囲の国際間の市場原理による自由競争」であるのかが、この理論の判断の分かれ目になります。

 ただし、「許された範囲の国際間の市場原理による自由競争」は各々の国の政府によって政治的に設定されるもので、もし、いずれかの国の国民に許されないのであれば、それは「許された範囲の国際間の市場原理による自由競争」ではないということになります。

 つまり、リカードの比較優位は、このようにどこかの国民が自主的に判断してそんな自由は許さないとした場合の、それと戦い、門戸を開放して自由貿易とするよう要求する理論なので、政治的な闘争の理論に過ぎないということです。

 だから、真理の研究として学問的にリカードの比較優位を真剣に考えるのは変です。

 比較優位の概念は、リカード自身がイギリスとポルトガルの貿易の場合における毛織物とワインの貿易を例にして説明しています。

 イギリスの労働者が1時間働いて、毛織物なら36単位、ワインなら30単位、ポルトガルの労働者が1時間働いて、毛織物なら40単位、ワインなら45単位生産するとすれば、(イギリスワイン30単位/イギリス毛織物36単位)<(ポルトガルワイン45単位/ポルトガル毛織物40単位)ですが、この関係を、ワインに関してポルトガルがイギリスに対して比較優位であると言い、毛織物に関してイギリスがポルトガルに対して比較優位であると言います。

 勝っている方にとって勝ち方が大きなもの、および、負けている方にとって負け方が小さなものが比較優位な商品です。

 絶対優位の判断では、ワインと毛織物のいずれでも、ポルトガルがイギリスに対して絶対優位であり、イギリスの産業は潰れてしまいますが、比較優位の判断では、それぞれが相手側に対して比較優位な産業に特化することで、双方が生き残ることが出来るし、双方共に最も大きな富や利益を得ることが出来るということになります。

 だから、国際競争である部門で、他国がさんざん痛めつけられて、その部門の産業が壊滅しようとも、他の部門で頑張れば良いので、気にしなくて良いということになります。

 この理論が成立する条件は、双方の国で完全雇用が達成されていることですが、新古典派経済学では、セイの法則によって必ず完全雇用が達成されていることになっているのでこの理論が成立してしまうのです。まさに手品のような理論です。

 先の例では、ワインがポルトガルにやられてしまおうとも、イギリスにはまだ頑張れる毛織物があるはずだと、それでもなお自由競争を続けさせるために、敗者を元気付けているだけです。

 しかし、実際は、大抵の場合、ポルトガルがワインでも、毛織物でも勝ってしまいます。

 イギリスをどのように元気づけようとも、敗北は敗北であり、壊滅は壊滅にすぎません。

 イギリス政府は、関税や非関税障壁によって、毛織物産業、ワイン産業の両方とも守るべきなのです。

 完全雇用状態であれば、ポルトガルがワインに特化した場合、ワインに従事する労働者だけで完全雇用状態となり、毛織物には見向きもしないので、その反対側で、理論として、イギリスは毛織物の生産を行うことが出来ることになっているのですが、しかし、世の中はそんなにうまく行きません。

 これらの理論は自由競争または自由貿易が前提ですから、ポルトガルが不完全雇用状態である場合には毛織物にも手を出し、イギリスの産業は全滅してしまいます。

 しかし、比較優位論では、自由貿易で比較優位的「分業」が達成されるとも言っていませんし、達成されるだろうとも言っていません。比較優位論は「分業」に関しては責任を負っていないのです。

 自由貿易の結果、独占状態が起こっても、「分業」が起こるだろうから、気にしなくても良いと言っているにすぎません。

 経済学者も比較優位説を説明するときに、独占は起こらないだろうと、無責任な感想を付け加えるだけです。

 また、比較優位説では、個人レベルで見ても、何でも得意な人が最も利益の出せる仕事に精を出し、比較劣位の利益しか出せない仕事を他人に委ねた方が、効率は良くなるという比喩が見受けられます。これは、時給10万円を取れる者が時給1000円の仕事をするのは馬鹿げていると言い換えられて説明されることもあります。

 これはほとんど詭弁と言えるでしょう。時給10万円を取れる仕事というものは、その仕事に巡り合ったからこそ言えるのであって、その人に神様から時給10万円を取れる能力が授けられていたとするのは論理の飛躍というものだからです。

 例えば、その理屈だと、時給10万円をもらっていた経営者が、没落して、仕方なく時給1000円の駐車場整備係の仕事をしている場合の合理性を説明出来ません。

 比較優位を採用するかどうかを、諸条件を現状のままで、どうすれば効率的かだけで考えるのは間違いです。

 人間の努力は多様であり、あらゆる部門へのチャレンジは行われるべきものだからです。

 途上国と先進国で給与水準が違うのは、先進国の方が生産する消費財の質や量が大きく、賃金が生産された消費財の分配の手段であり、生産額総額が賃金総額に反映され、賃金総額が為替相場に反映されるからです。個人的な能力の問題ではありません。

 芸術や専門職は才能も必要なので、適材適所という判断も出来ないこともありませんが、必ずしも世の中はそのように出来ていません。ほとんどの場合、仕事や境遇が個人の能力を育てます。

 能力というものは、仕事を続けることによってはじめて得られるものです。

 どのような個人においても、はじめから即戦力となる能力を持っているという前提を置くのは滑稽です。人の能力というものは摩訶不思議なものであり、むしろ、脱落した人が比較劣位の利益しか出せない仕事しかないので、見よう見まねでその仕事を続けていたら、その仕事が天職となったという話は多いものと思われます。

 国家も、国民が一部の産業に不器用であったとしても、あえて、その産業を育成し、全ての産業がその国の天職となるように努力をすべきなのであって、能力が無いから、または、機会費用(その投資によって犠牲になった他の利益または原価)が大きいからと、さっさと、不採算部門を切り捨てるのは人間的な生き方として間違いです。

 ましてや、どこの国で、農業や水産業などはたとえ比較劣位であろうと絶対に生き残らせるべきです。

 

 

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