①財政政策の第一の目的=低所得者と貧困層への所得再分配

 

 財政政策の第一の目的は低所得者と貧困層への所得再分配であり、第二の目的は景気のコントロールですが、第一の目的と第二の目的は独立したものではなく、第二の目的は第一の目的達成のための手段になります。

 手段というと、おおむねどうでも良いもののように聞こえますが、この場合は分配すべき物量を確保するために経済成長が必要であるという意味であり、しかし、分配しないのであれば、経済成長など必要ないという意味です。

 ただし、分配しないのであれば、そもそも経済成長させることは出来ないので、因果関係としては、物理的に言えば、分配が成長の手段になります。

 金融政策が民間にいかにお金を使わせるかの政策であるのに対して、財政政策は、政府が自分でいかにお金を使うかの政策であるということが出来ます。

 財政政策は、歳入(税収・社会保険料・国債)と歳出(福祉を含む政府支出)によって、一定の政治的目標を達成しようとするものです。

 財政政策の政治的目標の一番目は、低所得者や貧困層に対する所得再分配にあります。または、危機に直面した国民の生活および生命を救うためということも出来ます。

 所得再分配という言葉の国語的な意味は、誰かから所得を回収して、他の者に分配するという意味ですが、経済学的には、回収すべき相手は富裕層であり、分配を受けるべき者は低所得者または貧困層という解釈が一般的です。

 しかし昨今では、通常の解釈のように、富裕層から貧困層または低所得者層への所得再分配ではなくなりつつあります。

 自民党の竹中平蔵氏や小泉純一郎氏がそういう風潮を創り出しました。

 つまり、これは、小泉構造改革から続けられていることですが、富裕層ほど負担割合の大きくなる法人税や所得累進課税は軽減される傾向にあり、低所得者ほど負担割合が大きくなる消費税が設定され、なお増税される傾向にあります。

 また、自己責任論が優勢になり、福祉が軽視されつつあることも、所得再分配を空洞化させる政策の一つです。

 資本主義という言葉の意味は、民間の資金によって生産を行うことを許し、そして私有財産を許すという意味ですから、これを究極まで推し進めると、民間に、制限のない自由を許すという意味にまで拡大することが出来ます。

 新自由主義とは、民間に出来る限りの制限のない自由を与えよという思想です。これは無政府主義の始まりです。新自由主義は無政府自由主義とも言います。

 しかし、公然とそういうことを言っている者はいません。まだ、建前だけとはいえ、日本人の心の片隅にも際限のない自由は間違いであり、弱者は守られるべきであるという常識のカケラは残っているので、公然と言えないのです。

 資本主義の根本は個人が資産を保有する権利を認めるという私有財産制にあります。資本主義は自由主義とも呼ばれますが、これは、私有財産の保有の自由、つまり、資本の保有の自由が法律で認められるという意味です。

 資本社会主義という言葉を作ってみると、資本を社会が保有するという、資本主義の私有財産制と矛盾する形容矛盾になりかねないように見えますが、ただし、社会主義に、制限するとか、緩和するとかの意味を持たせると、むしろ、資本社会主義は現実を表現する妥当な経済学用語になります。

 そして、現実に、日本国憲法における私有財産制は、公共の福祉に反しない限りにおいて認められているものであり、際限のない自由を認めているのではありません。

 資本主義はどこの国でも同じですが、一定の規制があり、資本の保有の自由を究極まで推し進めたところで、資本主義定義されていません。

 ところが、おっちょこちょいの者がいて、私有財産制や資本を規制する話が出てくると、すぐに、それは社会主義だとか、共産主義だと非難したりします。

 本当にこういう極端な人たちが後を絶ちませんから、困ったものです。

 もし、私有財産制や資本の規制が緩和されると、それはほぼ間違いなく格差をもたらし、その格差はほぼ間違いなく一般国民の貧困化をもたらします。

 資本主義において富裕層や貧困層が生まれる原因は、資本家の投資によって所得(賃金)が分配されるので、不況期に資本家が儲からないと思い投資を減少させ、分配をサボタージュするからです。

 その分配のサボタージュをさせないために労働基準法などが存在します。

 また、国の制度としても、新自由主義勢力によって労働基準法などの規制や、所得再分配のための税制などが緩和されることによっても、格差が拡大し、貧困層が生まれます。

 規制が緩められ、資本家が自由になれば、資本主義が内包している、富の独占という資本主義の本質的欠点が姿を現して来ます。

 現在、すでに、いろいろ税制や規制が緩和されることで、富の独占というテーマを議論の俎上に上げなければならなくなって来ています。

 富の独占とは、土地や生産設備などの資本だけでなく、資本の成果たる貨幣の独占であり、消費物資の独占を言います。そうすると、資本を持たない階級の者は、投資家(富裕層)の奴隷にならなければ生きて行けなくなります。

 ケインズは、先進国などの豊かな国でも、しばしば富裕層の貯蔵の増大によって国民の貧困が生まれると言っています。

 資本主義においては、投資家の投資によって、生産を行い、国民と労働者に所得を分配します。国家にその存在を許された企業の使命は、生産活動と、賃金の支払いという分配にあります。

 もし、企業が生産をしても、分配をサボタージュするようなら、社会から退出してもらわなければなりません。

 労働組合は適正な分配が行われているかどうかの監視役であり、労働者を守る活動家でもあります。もし、政府が弱者の味方にならず、弱者を守る法律が損なわれるようなら、労働組合は苦難の道を歩まなければなりません。

 つまり、これは、投資家は分配という自分の社会的に課せられた役割より自分の利益を大事にするので、国家や国民の運命を投資家の自由にまかせると悲惨な事態が起こるということを表しています。

 しかし、資本主義のこうした欠点は強固です。なぜなら、資本主義は他人から利益(所得の無償の移転)を奪い取るという、原始時代から続く人類の本能が原動力になっているからです。

 そして間違いなく、その闘争本能を否定すると、人類は働かなくなります。人類は原始時代の動機を抱えて現在を生きているからです。これは誰も否定できません。だから、民間による資本の保有を意味するところの資本主義の欠点の存在は、一定程度は止むを得ないものです。

 政府の行うべき所得再分配はその資本主義の欠点を修正する使命を持ちます。よって、所得再分配の思想は修正資本主義とも呼ばれます。

 資本主義の修正は主として税金をもって行われ、課税は国家の武力をもって行われます。ゆえに、国家による武力の独占が正当化されます。

 もし、国家が資本主義の修正を行わないならば、武力の独占は許されず、国民の武力による革命が正当化されます。

 格差の是正は、富裕層から貨幣を回収する税制と、低所得者や貧困層に貨幣を分配する減税や社会福祉政策や公共投資などの財政政策で行われます。

 とりわけ、税制は所得再分配政策の主役を務めるものであり、よって、税制の選択は、公平な社会にするのか、格差を放置する社会にするのかの選択そのものでもあります。

 どこかの経済評論家が、景気が良い時は新自由主義的な税制や経済政策でも良いと言っていましたが、これは完全な間違いです。政治の善意などはまったく当てになりません。

 景気を見ながら税制を変えられたのでは、国民はたまったものではありません。景気が良いからといって、平等を支える税制という制度的枠組みが破壊されて良いはずはありません。

 なぜなら、景気循環のたびに税制と言う根幹が変えられていたのでは、不況が訪れたときに、低所得者は生きていけないほどの貧困に転落するからです。

 よって、どのような景気の下であろうとも、富裕層ほど負担割合の大きくなる法人税や所得累進課税の維持が正しいのであり、低所得者ほど負担割合が大きくなる消費税(むしろ付加価値税であることによって経営者が労働者の賃金を削って納税する役割を負わされる税金)はどのような景気下であろうと廃止されるべきなのです。

 また、税制および政府支出は、中央と地方の人口の分布を決定します。

 税制および政府支出によって、中央にいた方が豊かな生活を送れるのなら、人口は中央に集中し、地方にいた方が豊かな生活を送れるのなら、人口は地方に分散します。極めて単純な事実です。

 中央政府が、地方税の課税強化、公共投資の削減などを推進しているのに、つまり、地方からのお金の回収を強化しているのに、地方再生など有り得ません。

 そもそも、繁栄する地域と、衰退する地域の差がどこにあるのかというと、インフラによる利便性の格差もありますが、最も重要なことは、税制によって、その地域からどれほどの貨幣が回収され、地方交付税や公共投資によって、その地域にどれほどの貨幣が支出されているかにかかっています。

 これは政治家の裁量の問題というよりも、制度的枠組みの問題です。

 したがって、地方創生は、税金による地方からの貨幣の回収を減らし、地方に東京以上の公共投資を投下することから始めるのでなければ、それ以外の、地方の特色を活かすだの、地方の努力を支援するだのというアイデアは、オタメゴカシにすぎません。

 全ての税制と財政支出の一つ一つに意味があります。そして、それらが全体としてどのような国家を目指しているのかを決定します。

 ケインズは、消費性向に着目し、低所得者や貧困層に対する所得再分配が行われるならば、景気回復の期待が高まることによって消費性向が高まり、景気は必ず回復し、経済は成長すると言っています。

 ところが、現在の日本の大学の経済学では、どのような財政政策でも消費性向は一定の値から動かないものとされており、ケインズ経済学の特徴であるところの消費性向が所得再分配政策の制度的枠組みに左右され、乗数効果が変化し、経済成長に影響を及ぼすという理論は教えていません。

 ケインズ経済学と新古典派経済学の和合を図ったと自称する新古典派総合派やニューケインジアンたちは、問題意識を新古典派に合わせることで、所得再分配の制度的枠組みが消費性向に変化を与える機能への関与が最も重要であるというケインズの最大のテーマを葬り去り、国際投資家に気に入られるものに作り変えてしまいました

 ケインズは、一貫して、低所得者や貧困層への所得再分配政策を行うことによって、はじめて、経済成長を実現することが出来ると言っており、この関係性は他のいかなる方法によっても、代替出来ないと言っています。

 

 

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