利子生活者に安楽死を!

 

 利子生活者とは資本収益者の一般呼称であり、債権者はもちろん配当生活者や地代生活者などを含みます。

 マルクス主義者のいう搾取の廃止という命題が意味をなさないとしても、搾取が存在しないということではありません。

 マルクスは、アダム・スミス以来の古典派経済学の労働価値説を発展させて、労働して創造された労働価値の中から、まず賃金が支払われ、その残余=剰余価値が資本家に搾取されるとする剰余価値説を立てました。

 しかし、商品価値が時間的、地域的に変動して行けば、搾取の量も時間的、地域的に変動して行くはずであり、全ての経済活動の中で誰がどれだけ搾取しているのかをいちいち説明することは不可能です。

 つまり、現実世界においては、労働価値の分配論や剰余価値説で搾取を定義することは不可能なのです。

 しかし、2008年のリーマンショックなどで、アメリカの投資銀行の証券市場における利益が多数の預金者の損失によって生まれたこと、今日のデフレ不況の日本においてさえ、中小企業や個人が低利の融資を得られずに、高い利子を払わざるを得ない状況にあること、あるいは、事業の破綻によって資産を他人に格安で買い叩かれること、あるいは、競争によって勝者となった事業において経営者が大金を手に入れ、その反面、その企業で働く労働者が貧困になっていることを見れば、現代社会における、そして、過去においても同様であったはずの搾取がどのような形で存在しているかは分かります。

 あるいは、搾取の形態として次の様なことも考えられます。

 日本で作れば最低500円はかかるだろうと思われる傘が、中国から輸入されることで、日本の店において1本100円で売られています。

 日本で傘が100円で出来ることは考えられませんが、では、中国が損をしているかというと、中国の企業が喜んで日本に輸出しているところを見ると、利益を上げていることは間違いないでしょう。

 消費者の日本人もまた破格に安い対価で商品が手に入れられるので、利益を得ています。

 それでは、誰が損をしているのかというと、それは中国の労働者です。

 経営者が利益を上げ、消費者が商品を買い叩くことのいずれの場合でも、労働者さえ損をすれば、経営者も消費者も儲けることが出来るのです。逆に、労働者が得をして経営者が損をするケースは、赤字企業の賃金の支払いという状況でない限りありません。

 しかし、「搾取は全て悪いものである」ということにはなりません。なぜなら、生物学的存在あるいは本能的存在という意味における人間にとって、搾取は、あらゆる経済活動の目的だからです。

 人間にとって経済活動の目的が搾取にあるという結論がいかにあさましくとも、それが、他人より少しでも豊かになり、他人より少しでも良い配偶者を見つけ、他人より少しでも優秀な子孫を残すという人間の種族保存の本能に根差しているからには、それを完全に否定すれば、人間の存在そのものを否定することになります。

 ただし、一定以上の搾取は、当然、否定されなければなりません。

 なぜなら、それが政治の目的だからです。あるいは、それが人間の存在の部分的否定という意味になるとしても、弱者からの反撃という意味では自然であるとも言えるからです。

 そうした考えから導き出される結論としては、政府の採るべき政策においては、人間の本能の発露たる搾取は、他人に容認できないほどの被害を与えている場合は懲罰して抑制すべきものとなります。

 つまり、酷くない搾取、あまり格差を生まない搾取をある程度は容認しつつも、これを超える搾取を監視して行くという姿勢が求められるということです。

 酷くない搾取、あまり格差を生まない搾取は一般的に「適正な利益」と呼ばれるものです。例えば、ボッタクリバーの料金は適正でない利益だから搾取と言われるのであって、良心的な価格ならば、「適正な利益」であり、一般的に搾取とは言われません。

 ところが、この、ボッタクリ価格から良心的価格の間に明確な境界線はありません。すなわち、「利益」と「搾取」の違いは、一つのものを肯定的に見た場合と、否定的に見た場合の表現の仕方であるに過ぎません。

 しかし、また、適正な利益やボッタクリによって消費者ばかりが常に搾取されているわけではありません。

 消費者が、ディスカウント商品を買うことで搾取側に回ることもあります。このように、搾取は一企業内だけでなく、社会全体で複雑多義に起こっています。

 ケインズは、こうした少しの搾取に対してではなく、格差や貧困を引き起こすほどの社会的構造による大規模な搾取に憤りを持ったのです。

 ただし、ケインズは、民間投資を肯定的に見ていましたから、民間投資の動機となる利益もまた一定の水準で肯定的に見ていました。

 しかし、利益が富裕層の株主の所得となり貯蓄に回ることによって、投機的貨幣需要(将来のためにお金を使わずに持っておこうとすること)の増大をもたらし投機的動機による貨幣需要(M2)の増大は、取引的動機による貨幣需要(M1)を減少させ、投資による賃金の分配の不足から貧困層を生み出します。

 ケインズはその投機的貨幣需要すなわち「富裕層の莫大な貯蓄」の存在を批判し、いかに、それを溶解させ、消滅させるかに努力を傾注したのです。

 「(個人が使わないで持っておく)貯蓄=企業内に残っている)投資」、つまり、個人側では貯蓄は消費されなかった余りであり、企業側では、消費されなかったために売れなかったものですから、個人の貯蓄が増え、投資が過剰になり、そのことによって、資本の限界効率が低下するので、資本家は次の投資を手控え、賃金への分配が減少し、消費性向が下がり、景気は悪化して行きます。

 したがって、ケインズ経済学では、利益富裕層である株主の所得が貯蓄に回ることを回避するために、大きな利益を税制で抑制することに政策の力点を置いています。

 大きな利益とそれからもたらされる富裕層の貯蓄の増大を抑制する手段は、高額所得者に対する所得累進課税、法人税、相続税です。

 また、金融制度においては、ケインズの思惑では、金本位制から離脱し、管理通貨制度の世の中になれば、民間の資金調達の主役の座は直接金融から間接金融(信用創造)に移るはずでした。

 金本位制の下での銀行による信用創造が制限されていた昔ならいざ知らず、金本位制から脱した管理通貨制度下の現代においては、銀行による信用創造の限度は担保価値の範囲内で極限まで可能ですから、間接金融による信用創造機能が健在なら、富裕層の貯蓄がいざというときに役に立つとか、企業の内部留保金がいざというときに役に立つとかの、富裕層の富の集中は正当化出来ません。

 すなわち、間接金融が健全に機能していれば、政府が画策する税制優遇によって富裕層の貯蓄を守ってやる理由は無くなります。

 ちなみに、信用創造の限度は債務者の返済能力であると言う者がいますが、これでは不正確というより、何も言っていないも同然です。

 なぜなら、「返済能力」にはこれから稼ぎ出すものも含まれますが、これから稼ぎ出すものは海のものとも山のものとも判らないのですから、金融機関が融資を審査する「決め手」になりません。

 もし、金融機関に、企業がこれから稼ぎ出すものを見抜く能力があるのなら、この世につぶれる企業は存在しないことになります。

 やはり、融資の「決め手」は「担保」しかないのです。

 ゆえに、融資すなわち信用創造の限度は「担保価値」にあると言うべきです。

 その場合、担保の主役は土地ですから、信用創造の限度は地価総額にあると言って過言ではありません。

 新自由主義者から土地がバブル経済の魔女に仕立て上げられ、マルクス主義者のマスコミから地主階級が憎まれているからといって、地価の問題に言及しない議論は怠惰を通り越して卑怯ですらあります

 現代の日本では、地価下落による担保力の喪失とBIS規制によって、依然として、間接金融の信用創造は妨害されています。

 現代の日本で「個人の貯蓄および企業の内部留保金という、景気の循環において本来好ましくないもの」が増大することは良いことだと、堂々と正当化されているのは、間接金融が破壊されていて、イザというときに間接金融が役に立たないことが周知されているという、新自由主義者が作り出して来た新自由主義体制という背景があるからです。

 ちなみに、利益を得ていることは全て搾取であるということに対して疑問を持つ方もいるでしょう。

 例えば、ビル・ゲイツが大きな利益を得たのは、人類史的な規模で利便性を飛躍的に向上させる情報技術を開発したからであって、購入した者がいくら高額の代金を払ったとしても、それは事業の偉大さへの対価であり、よって等価交換であり、搾取とは言えないという考え方です。

 しかし、どんな発明も先人の発明の上に成り立っています。

 ビル・ゲイツの発明も何百何千の先人の技術の積み重ねの上に成り立っているものです。その何百何千と積み重ねられた技術の対価が、いちいち発明家の手元に届けられているわけではありません。

 むしろ、例えば、ノーベル賞の受賞者の人生を見れば、大概の発明家は名誉やそこそこの褒賞金で満足しています。

 つまり、発明、発見、技術の革新は重要ですが、だからといって、一人で地球資源の数パーセントを独占し、他人を貧困に突き落として良い理由にはならないのです。

 少数の者が貯蓄をしているだけで支出しなければ物価は上がらないので誰にも迷惑をかけないとも思えますが、そんな存在しないも同然の貯蓄はあり得ません。

 儲けるだけ儲けて、そのくせに、お金を貯めこんで、投資を行わず、したがって賃金を支払わず、労働者に貨幣を分配しなければ、国民は貧困になります。

 お金の分配は生産物の分配であり、地球資源の分配でもあります。ゆえに、お金の分配は人間の生存において重要な地位を占めます。

 その賃金によって分配されるはずだった、食料、衣服、住宅は労働者の手に渡らず、国民は生活に苦しみ、はなはだしくは死に至ります。これが先進国で起こる貧困のメカニズムです。

 しかも、富裕層はもっと悪いことをします。

 必ず、その貯蓄の所有者は、これまでもケインズが言って来た通り、資本の希少性とそれからもたらされる莫大な利益を求めて間接金融を妨害するようになり、累進課税の緩和を求め、低所得者に税負担を押し付け、資本の限界効率を下げ、デフレをもたらすよう政府に働きかけるのです。

 そもそも、資本家が以上に挙げたことの一つでも求めていないというのなら、例えば、累進課税の緩和を求めていなければ、富の独占は起っていなかったはずです。自分達への課税の緩和を求めたので、莫大な貯蓄を貯めこむことが出来たのです。

 そのことは、ビルゲイツの貯蓄であろうと、どんな資本家の貯蓄であろうと同じです。

 よって、どんな普通の取り得の無い商売でも、搾取は搾取として、一定程度は許されるが、逆に、たとえそれが人類史的な発明、発見、技術の向上をもたらしたものであったとしても、その利益の累積が限度を超えるようならば許されないというスタンスが正しいのです。

 その限度は何を基準とするかと言えば、それは社会の経済情勢や個人の経済状況を考慮した場合に、国民に沸き起こって来る感情です。基準は国民感情の中にしか存在し得ません。

 なぜなら、絶対王政の下で、王が贅沢を尽くし、国民がどんなに貧困であろうと、国民が王に平伏することに生きがいを持ち、それで満足しているのなら、その所得配分は適正であるという以外に無く、つまり、国民感情によってしか適正値を定めることは出来ないからです。

 よって、何をどう規制するかの基準も国民の感情次第なのであり、野放しの搾取によってどんなに激しい格差社会となっていたとしても、国民がそれを望んだのなら、それは正しいと言うしかありません

 しかし、そうであるからには、逆に、国民が格差の無い社会を求め、「利子生活者に安楽死を!」と、望むのならば、それもまた正しいと言わなければならないはずです。

 ケインズは、「雇用、利子、および貨幣の一般理論」の二十四において、「資本主義の利子生活者的側面は移行期のものでしかなく、役目を終えたらそれは消え失せる」と言い、明確に資本主義の中の社会主義を志向しています。

 すなわち、間接金融の活性化によって、資本家の資本の希少性から生じる利子や配当収入が減少し、やがて国民の意識が高まり、税制においても所得格差が抑制されるようになると、それは生産活動における経費の最適化となると共に利子生活者の安楽死を意味し、国際投資家と呼ばれている名だたる投資家たちは表舞台から消え失せるだろうと言っているのです。

 

 

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