①労働基準法から考える

 

 労働基準法の冒頭では次のように述べられています。

『第一章 総則(労働条件の原則)

 第一条 労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を充たすべきものでなければならない。

 2 この法律で定める労働の基準は最低のものであるから、労働関係の当事者は、この基準を理由として労働条件を低下させてはならないことはもとより、その向上を図るように努めなければならない。』

 これは憲法第二十五条第一項の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という規定と同様の宣言的規定です。

 日本国憲法第二十七条第二項には「賃金、就業時間、休息その他の勤労条件に関する基準は、法律でこれを定める。」と定められており、これを受けて、当時の立場の弱い労働者を保護するため、実際に定められた法律が労働基準法です。

 労働基準法の第一条は、「労働者が人たるに値する生活を営む」ことが労働条件の最低基準であるということを宣言しています。労働基準法が定められた昭和22年(1947年)当時、それが占領国のアメリカの押し付けにすぎないのか、世界的な潮流であったのかはともかくとして、朽ちさせてはならない、目指すべき理想であることは本能的に判ります。

 しかし、現実において、派遣労働法の緩和で「労働者が人たるに値する生活を営む」ことから遠ざかっていることを見ると、日本ではこの理想は実現出来ないのかと、諦めにも似た気持ちになります。

 昔の日本の経営者は、労働者の親身になり、共に成長しようとする機運が強かったのですが、現在の日本の経営者は、「労働者のことなど構っていられない、労働は原材料の一つにすぎない、企業が倒産しては元も子もない」という風潮に覆われています。

 日産自動車の例もその一つです。かつては、日本を代表する技術者集団であった日産自動車は、経営不振に陥ったときに、カルロス・ゴーン氏によって、日本人が日本人に対して行うことがはばかれるようなすさまじいリストラが行われ、それが日産自動車を倒産から救ったというイメージが日本人の間に刷り込まれこれからの競争社会では、労働者の生活を配慮している場合ではないという空気が出来上がって行きました。

 カルロス・ゴーン氏の行ったことは、古くからの取引先、古くからの労働者の切り捨てをやっただけです。このような人間を褒めるのは、せっかく新憲法によって創られて来た日本人の価値観をひっくり返すものです。

 マスコミも、スポンサーの大企業のご機嫌取りからなのか判りませんが、この風潮に追従し、いまや、労働者や労働組合を応援する者はいなくなりました。

 野党もマルクス経済学しか勉強していませんから、新古典派の臨床経済学的なやり方に太刀打ち出来ません。

 もし、労働者が「人たるに値する生活を営む」権利を守りたいと思うならば、まず労働者自身が、企業の生き残りが最も重要であという、この悪質なマインドコントロールから抜け出さなければなりません。つまり、本当に企業が危機なのかどうかを知らないのに、そんな口車に乗ってはならないのです。

 そのためには、労働者とりわけ労働組合は、ケインズが言っているように、「政府が減税や雇用政策をもって行う労働者への所得再分配を行うことによってのみ、はじめて経済成長が可能となる」という因果関係が完全に正しいということを理解する必要があります。

 この所得再分配は、低所得者および貧困層から容赦なくお金を回収し、消費できなくしている元凶である消費税、固定資産税、社会保険料の減税または廃止によって行われます。

 または、失業対策としての公共投資の拡大、各種交付金、補助金の併用も有効です。雇用の維持は政府の最も注力すべき課題です。

 日産ほどの大企業ならば、政府が介入して、株主を交代させ、大量解雇が起こらない方法を採らせるべきでした。

 現代は新古典派経済学の時代であり、新古典派経済学の一般的な価値観として、というより、ほとんど唯一の指標として、投資家が利益を出すことが出来るかどうかが最優先の課題になっています。

 なぜなら、新古典派経済学において、経済成長は、企業利益を増大させることによってしか、つまり、投資家が儲けたいだけ儲けることによってしか、達せられないという理論付けが行われているからです。

 しかし、本来、労働者への所得再分配が最優先課題であり、投資家の利益が所得再分配より優先されるのは、人道的でもなければ、経済成長理論としても正しくありません。

 かつて、日本の池田内閣が民衆に支持された理由は国民の所得増大政策であり、経済成長政策(GDP成長政策)ではありませんでした。

 つまり、経済成長政策というものはいろいろ存在していて中には、労働者の賃金を下げて、企業の利益を増やすという方法が正しいとする新自由主義的なものまで幅広く存在します。

 もし、労働者の賃金を下げて、企業の利益を増やす方法が正しいと言うのなら、今の日本は反対の結果を生んでいることになりますが、新自由主義者たちはどういう反論をするかというと、それは経済成長しつつある途上にすぎず、構造改革が足りないので、他の構造を変える改革行わなければならないという者が出て来て、議論は混乱し、収集がつかなくなってしまいます。

 新自由主義者たちは、投資家が儲けさえすれば良いので、議論をしても意味がないのであり、したがって、議論は混乱するしかないのです。

 新自由主義者が加わる議論においては、経済成長を目的としても、国民の「所得増大」は目的とされないこともあります。

 だから、議論するときの「経済成長」か「所得増大」かについては、どちらでも良いと簡単に考えると、いつの間にか、「所得増大」という目的が消されてしまったりすることがあるので、注意しなければなりません。

 たとえ経済成長政策(GDP成長政策)のためであろうと、労働者の賃金を犠牲にすることは許されません。

 ケインズ経済学においては、因果関係としては、雇用政策による「所得増大」、または、減税による「純所得増大」(つまり限界消費性向の増大)があって、初めて「経済成長」が起こるのであって、経済成長が起こって、その後に「所得増大」が始まるとするのは間違いであると言っています

 経済成長が起こったときは、すでに「所得増大」政策が行われ、その成果として経済成長が起こったのです。

 これは、ケインズ経済学の有効需要の理論で、消費が増えなければ投資も増えないという因果関係、すなわち、雇用の拡大以外の政策は有効需要の増大の原因にならない結論付けされていることによります。

 もし、どんなにとんでもない解説をつけて経済成長したと説明されても、その経済成長が、国民(その大多数は労働者)の所得増大を伴わなければ、国民にとって意味はありません。

 ケインズ経済学は、新古典派経済学に反対して、経済成長のための正しい政策として、低所得者であり、貧困層である労働者階級にお金を分配することを要求しています。

 すなわち、低所得者に対しては、住民税や消費税の減税または廃止、社会保険料の減額または廃止、福祉の拡大、解雇の規制の強化、市場競争に対する規制の強化、そして、公共投資の拡大、保護貿易による国内産業の保護です。

 これらが全て労働者の純所得すなわち限界消費性向を増加させる手段です。労働者は税金で取られた残りを全て使ってしまいますから、税金を取られたのちの純所得の割合がそのまま限界消費性向となります。

 労働者の純所得が増え、限界消費性向が上がることによってはじめて経済成長の原動力となるインフレが起こり、経済成長が始まります。

 また、建物および機械にかかる固定資産税の廃止によって、地価の下落を止め、担保を回復して、間接金融を復活させなければなりません。

 自民党政府は低所得者へのバラマキではなく、成長産業へのピンポイント投資が必要だと言っていますが、成長産業へのピンポイント投資とは国際投資家たちへの大サービスのことですから、ピンポイント投資などという言葉にひっかかってはいけません。

 労働者が豊かになるためには、労働者自身が「政府は財政赤字および政府債務を拡大して所得再分配しなければならないし、また、逆に、所得再分配を行わなければ経済成長出来ない」ということを理解しておかなければ、選挙のときに投票行動を間違い、自分で自分の首を絞めることになります。

 ちなみに、政府債務はいくら増えても、それは貨幣を発行した記録にすぎませんから、気にする必要はありません。

 政府債務とは、貨幣発行量を表すだけのもので、例えば、1936年(昭和11年)は高橋財政によって政府債務残高が膨張した年でしたが、このときの政府債務残高(貨幣発行残高)は100億円で、今はその10万倍の1000兆円です。その増加を受けて、物価指数は、1936年(昭和11年)を1として、今はその700倍の700になっています。つまり、政府債務の拡大は、通貨発行量の拡大であり、通貨発行量の拡大は生産量の増加に緩和されながらも、物価の変化の中に解消されるものにすぎないのです。

 すなわち、政府債務を返済するという発想は間違いであり、長年に渡る物価の上昇で解決されるものです。

 そもそも、労働者への所得再分配よりも企業競争力が優先されるという価値観の転倒は、1989年の冷戦終結後の新古典派経済学の巻き返しから起こったものであり、バブル崩壊以降始まったものです。

 それまでは、労働は尊いということが教育の場でも、政治の場でも言われていました。

 しかし、1990年のバブル崩壊後、徐々に、既得権益を破壊するのは正義だと言われ始め、既得権益に付随した労働も大して立派なことではなく、金儲けの方が立派なことだと宣伝され、株式や債券の売買で濡れ手で粟の如く稼ぐ者たちがもてはやされました。

 しかし、新規投資のない株式や債券の売買だけでは、経済成長をもたらさないことは経済学の常識であって、まともに議論すれば、大学の経済学教授だけでなく、学生ですら、それらは経済成長をもたらさないと断言することでしよう。

 なぜ、このような、経済成長できない政策を経済成長政策であるかのようなプロパガンダが行われているかと言うと、経団連が、政治家とマスコミのスポンサーであり、政治家とマスコミに対して強力な影響力を持ち、国際金融資本のエージェントたちを重用するよう圧力をかけているからです。

 知識や理論との整合性など関係ありません。人は支配者の喜ぶことをサービスとして一言、二言口走るのです。あとのことは知ったことではありません。

 日本国民には、いまや、経団連をはじめとする日本の居並ぶ大企業群に対して憎悪する能力を持つことが求められます。

 証券市場への投資が日本を支えているなどというイメージは完全にまやかしです。国際投資家は、日本に居座って、世界で最も従順な労働者を搾取しているにすぎません。

 国際投資家が日本から出て行って、同時に、大企業を海外に連れて出ても、日本人はまったく困りません。日本から出て行くとは言っても経営者が変わるだけで、労働者が出て行くわけではないからです。

 むしろ、そうなれば、国際投資家などという訳の分からない連中の経営する大企業に代わって、残った中小企業が大企業の生産の穴埋めをし、誠実で高度な労働分配を行います。

 日本は内需型企業の中小企業だけが残れば良いのです。このことは、「自由貿易は国民を不幸にする」のセクションで詳しく述べた通りです。

 ケインズは、労働者を顧みない無節操からもたらされる国民の貧困化そして経済成長の停止に憤りを持ちました。

 しかし、ケインズ主義者は多勢に無勢であり、新自由主義者の合唱連携の勢力に阻まれ、いまや、滅亡の淵にあります。

 しかし、何よりも、現在、労働者本人にケインズ経済学が理解されていないのでどうにもなりません。

 これらの閉塞状態を打破する力、そして、国家の経済政策を転換させる力は労働組合運動にあり、また、労働組合にしかありません。

 ゆえに、労働者と労働組合がまず暴れるべきです。

 アメリカを見習って一週間とか一か月とかストライキをやり、企業が損失を出しても(それは株主の損失ですが)、社会としても、国家としても大した問題ではありません。労働者が豊かになれないような企業ならつぶれても構わないし、そのことによって社会的な供給力(生産力)が落ちたとしても、労働者が豊かになれる仕組みを取り戻す方が優先されます。

 アメリカではそのように教育され、ゆえに、アメリカ国民はそのように考え、あのように大規模なストを行えるのです。だからこそ、アメリカ人は豊かであり、アメリカの国は発展しているのです。そもそも、労働者が豊かになれないような国は必要ありません

 労働者は、単なる使用人ではなく、企業の頭脳であり、手足でもあります。

 国がそのように指導し、労働者が豊かになれない企業の経営者が、労働者に経営権を投げ渡す制度が法制化されれば、企業体質や空気も、今のような株主以外は口出しが出来ない専制的な体質から、労働者側に寄ったものに変わるでしょう。

 頻繁にして、激烈に、労働組合が街頭や企業の中で暴れ、なぜ、こうも労働組合が暴れるのかというテーマがマスコミに取り上げられるようになって、始めて、政府による労働者を貧困に追い落とす政策の間違いが議論の遡上に上げられるようになります。

 

 

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