①税金の懲罰効果

 

 税金の存在する社会では、課税される部門は抑制され、課税を免除される部門成長します。抑制される効果を「懲罰効果」と言います。

 「懲罰」と言うとモノモノしいのですが、この場合、悪事を懲らしめるという意味ではなく、あまり好ましくないので抑えようという程度のものです。禁止するのなら、法律で禁止すれば良く、税金に頼る必要はありません。

 富裕層への富の集中を懲罰し、国民の平等という理想の実現を目指す税制が近代税制と呼ばれるものです。

 近代税制は、所得再分配型の税制とも呼ばれ、ケインズの主張する税制と同じものです。

 近代税制においては、法人税と累進所得税が基幹税になります。つまり、近代税制の主要なテーマは、法人の純利益の懲罰と、他人より大きな所得の懲罰にあります。

 なぜ、法人の純利益が懲罰されなければならないのかというと、純利益は企業で生産した付加価値を、経営担当者や労働者に役員報酬や賃金として分配した残余だからです。残余が増えるほど役員報酬や賃金が少なくなります。

 高い法人税は残余の存在を否定的に捉えるケインズ型の所得再分配重視の価値観の表れであり、低い法人税は残余を肯定的に捉える新自由主義的、金融資本主義的な価値観の表れです。

 残余は株主の取り分であり、投資家や債権者という富裕層の取り分です。

 かつて、日本では商売の利益は「儲け」といわれ、江戸時代から卑しいものと蔑まれていました。もっとも、これは武士階級の価値観によるもので、当時の武士階級は大した行政サービスも行わずに、農民から年貢を搾取するだけでしたから、この武士階級の価値観に正当性があるということではありません。

 しかし、結果として、商売の儲けを蔑むという日本の伝統的な価値観は、偶然にも、利益は分配の残余であり好ましくないものだとする価値観と一致しています。

 流通の基本は物々交換ですが、等価交換なら利益は出ないはずです。売手が得をしているので、企業に利益が出ているのです。そして、企業内において、労働者への賃金としての分配を少なくし、その利益を株主が独占しているのです。

 企業の大きすぎる利益はぼったくりと言われ、誰にも悪いことだと分かりますが、適正利潤と呼ばれる小さな利益は大目に見られ、受け入れられています。

 しかし、ぼったくりも適正利潤も、他方の損失に依存していることは同じであり、程度の差の問題にすぎません。

 その利益の大きさをどう判断するか、そもそも量り得るものかどうかはまた別の問題です。

 搾取や利益を量る問題は、労働価値説とか限界効用理論とかの論争となりますが、ここでは触れません。

 しかし、人間はこの利益を求めて生産や交易などの経済活動を行うのであり、利益を上げることを禁止すれば、人間は生産や交易をしなくなります。

 人間が持っている、他人より少しでも良い生活をし、その優位性によって、良い結婚相手に出会い、優れた子孫を残す確率を高めようとする、生存本能や種族保存本能は人間性の発露そのものです。

 よって、利益を求める経済活動を禁止すれば、人間は生きる意欲を無くします。

 そして、人間の本能を軽視すれば、搾取利益を求める動機を無くせると信じた結果、人間が最低限の労働しかしなくなった共産主義と同じ過ちを犯すことになります。

 したがって、ケインズ経済学は利益を無くせと言っているのではなく、利益というものは、往々にして、交易において消費者に損害を発生させたり、雇用した労働力を搾取したりという悪い特徴を持つので、多すぎる利益は抑制すべきだと言っているのです。

 この人間の本能に対する肯定と否定のジレンマを解決する手段は税制しかありません。

 他人を搾取する人間の本能を抑制しようとすると、投資家や債権者たちは敵意をむき出しに反発するのですが、抑制を目指さなければ、私たちは弱肉強食のサバンナの動物と同じであり、敗者は勝者に食い物にされるだけで、人間である意味が無くなります。

 それを求めようとして構築されたものが、近代税制と呼ばれるものです。

 国民および国家の要求において、企業を存在させる理由は「生産」および「分配」(雇用と賃金の支払い)の役割を達成させるためです。

 企業の社会貢献として納税とボランティアが良く挙げられるのですが、まったく見当違いなものです。納税は政府が白羽の矢を立てた、何かの大義名分という口実にひっかかったものについてだけの懲罰に過ぎず、また、いろいろなものに対するボランティア活動は自由意志でやれば良いだけです。

 したがって、この二つは、必ずしも国家が企業の存在を許す理由になりません。

 企業は生産を行い、賃金を払うことで国から課せられた「生産と分配」という存在すべき理由の全てを満たします。

 しかし、歴史を振り返って見れば、その生産活動と賃金の支払いにおいて、しばしば労働力の搾取が容認出来ないレベルにな、到底、労働者に対する賃金の適正な分配が行われているとは言えない状態陥っています。そして、それは、近年においても再現されています。

 マスコミや自民党は、投資家に投資を活発に行わせようとするなら、企業の純利益を保護してやらなければならないと、あたかも、それが正しい経済政策であるかのように言っていますが、それは、マスコミや自民党が大企業の手先となっているからにすぎません。

 国民のために国家が存在しているのであれば、国家が投資家に投資を活発に行わせようとする条件として労働者を冷遇して、株主の都合のみを認めて良いはずはありません。

 あくまで、国家は企業に対して、国民の幸福に役立てるために、「生産」および「分配」を行わせるべきであって、投資家(株主)の利益は大目に見ているだけです

 だから、国家が株式のキャピタルゲインを追求する投資家の欲望を保護することは正しくないし、特に、現代のように格差が拡大している状況の中では、なおさら、そのような投資家の欲望を野放しにして良いはずはありません

 投資家にも、企業を存在させる条件とまったく同様に、法外な純利益をあきらめさせ、「生産」および「分配」という社会貢献が求められるべきです。

 そして、実際、いかなる場合でも、企業の純利益が増えたところでロクなことはないのです。

 特に、昨今、企業の純利益の増大のためには、賃金の削減すら正当化されているからには、労働者にとって、企業の純利益を増大させる努力は有害でしかありません。

 企業の純利益から投資家(株主)たちに配当を行った残りが企業の内部留保金になります。

 内部留保金はいざというときの備えだと言っている者もいますが、金融制度がまともであればいざというときは政府の指導による金融機関からの融資で行われるので、むしろ、内部留保金は株価を上げるためのものだと見るべきでしょう。

 内部留保金の増加で株価が上がり、株価が上がれば、それは再び株主の利益になります。

 むしろ、いざというときは、株主はその危機から逃げようとします。つまり、いち早く株を売って、それによって株価が下がっても気にしません。

 よって、株主のものでしかない企業の純利益を保護してやる必要はなく、法人税の強化が妥当です。

 逆に、法人税の緩和は、これまでも言って来たように、設備投資費(減価償却費)と賃金を削り、利益を上げることを奨励することになります。

 企業が倒産すれば、労働者も職場を失うので、企業が純利益を上げることは労働者にとっても利益になるという主張がありますが、これは議論が逆転しています。労働者にとって利益になるときに始めて企業の存続もまた社会的に認められるものとなるのです。

 ただし、企業の業績が悪化し、債務不履行の不安が発生する場合があります。また、業績を上げようとしても、思うように上げられないこともあります。

 そのような場合でも、労働者の賃金を維持せよと言っているわけではありません。そのときは、労働組合と経営者側の闘争となるでしょうが、そのような労働組合の姿は好ましいものです。むしろ、企業の純利益の増大を目指すために労働者の賃金を出し渋るのは間違いであると言っているのです。

 企業の業績回復の努力にも関わらず倒産する不安がある時に、はじめて労働者の賃金を下げるという選択が、労働組合と経営者側の妥協という手続きを経て正当化されます。

 

 

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