②信用創造には担保が必要

 

 信用創造(融資)の現場は、理屈通りの平和的なものではありません。金融機関の動機として、信用創造(融資)は儲けるために行われす。

 金融機関は利益の出ないものには融資しないだけでなく、損失が発生しそうなら、企業がどうなろうと、躊躇無く、貸し剥がしや貸し渋りを行います。

 なぜなら、金融機関もまた民間企業であり、信用創造は民間として利益を得るために行う経済活動にすぎないからです。

 債務の返済が滞った場合の、債権者と債務者の闘いはまさに血塗られた現場です。民間の経済活動は生存競争の戦いであり、敗北は企業や個人の社会的な死を意味します。社会的な死というだけでなく、実際に、金融機関の融資の停止のために自殺する企業経営者の例は珍しいものではありません。

 その動物的で原始的な闘いを抑制し、理性を保護するために、所得再分配と言う弱者救済の思想が生まれたのです。

 しかし、弱者への所得再分配を究極まで推し進めれば、自然に備わった人間の活力は無くなります。

 競争と平等のどちらを重視すべきかの議論は分かれるでしょう、少なくとも、どちらであろうと、貧困者を大量に生み出す社会が良い社会であるという理屈が受け入れられることは絶対にありません。

 つまり、もし、人間の経済活動における競争がある程度容認されたとしても、貧困者を出さないとか、格差を大きなものとしないといった、弱者救済および平等を求めることが一定のルールとして構築されるべきであというのが、人間の歴史が志向して来た結論です。

 平等はそのようにして人間が創り上げて来た法律や道徳からの働きかけですが、それでもなお企業や個人という民間の経済活動は厳しい生存競争の中に存在します。

 そして、金融機関による信用創造もまた、その存在が国民の合意による政策の一つであったとしても、プレイヤーとしての金融機関にとっては生存をかけた経済活動そのものなのです。

 政治家や経済学者は、何らかの政策に従って、自然に信用創造が行われるかのように考えている者がいますが、そこにはいつも、金融機関の法律や道徳からの働きかけを跳ね返してでも利益を上げようという強烈な意志が働いています。

 そのときに、金融機関が信用創造(融資)という企業活動を行うに当たって、最も重視するものが、債務を確実に回収するだけの担保が存在するかどうかです。

 金融機関は企業の将来性を見て融資するなどと言う者がいますが、それは参考程度のものであり、将来性のような海のものとも山のものともつかないものを信用して融資を決断することは、絶対にありません。

 債務を確実に回収するだけの担保が存在することが、現実問題として損失を出さないで利益を得るための最後の拠り所となります。

 そして、長期融資において、景気循環で債務者が返済を出来なくなることはしばしばあることであり、そんなときでも、金融機関はしゃにむに債権を回収しなければなりません。そのためには担保が必要です。

 例えば、金融機関による土地を担保とする融資であれば、お金の動きは、金融機関が土地の所有権を買い上げ、債務者に売買代金を支払っているしてことと同じようなものになります。

 つまり、担保と引き換え貨幣が市場に出てきます

 ゆえに、債務者が返済できなくなれば、債権者が真の所有者としての本性を現し、担保である土地を売却して現金を回収することになります。

 金融機関の関係者に聞くと、融資については、融資相手である企業の業績や資産状況を総合的に判断して決めると言っていますが、これは建前の作文のようなもので、ほとんど意味はなく、金融機関自身が融資するときの絶対の条件としているのは、やはり確実に回収するだけの担保が存在するということです。

 たまに、担保なしの融資がありますが、担保に代える何かがあるはずです。担保なし融資は信用貸しとも言います。連帯保証人の存在などがこれに該当します。

 金融機関が融資するときは、もちろん、金融機関自身の要求として、確実に回収するだけの担保が存在することが必要ですが、現在は、金融機関本人だけでなく、金融庁が金融機関を監督するマニュアルである金融検査マニュアルでも、口を挟んで来て、担保資産の査定は厳しく行われています。

 正に、このことは、金融機関が担保によって融資していることの何よりの証拠です。

 金融検査マニュアルは2018年度で終了しました。自民党政府は竹中平蔵氏の指導によって確信的に間接金融の停止を目的として金融検査マニュアルを作り上げたのですが、自民党政府は、もはや、日本の地価が十分に下がり切り、金融機関はほとんど中小企業に融資しなくなったと判断したからです。

 金融検査マニュアルとは、政府の政策として、金融機関の利益および延命を非金融法人である国民の経済活動より優先するためのもので、したがって、担保となる資産の査定に対して厳格なのです。

 というよりも、厳格すぎて、金融機関にとっても、国民にとってもそのために身動きが取れなくなっているほどです

 金融機関は、金融検査マニュアルに違反して政府から潰されないようにしながらも、なお、自分自身の意思としても、債権を確実に回収するために担保を査定し、融資するかどうかを判断します。

 融資の最初のハードルは、決算書が金融検査マニュアルに適合しているかどうかです。少々の黒字経営では合格しませんから、ほとんどの企業はここで挫折します。

 損益計算書が黒字であり、今後も黒字が見込まれること、そして、貸借対照表の純資産の調査においては、金融機関が独自に査定する建前ですが、金融庁も介入して査定し、金融機関と金融庁の両方の査定でも、実質でも名目でも債務超過にならないことが求められます。

 これはかなり厳しく、地価が下がった現在においては、大抵が債務超過であると査定されてしまいます。

 ただし、資産の査定は、金融機関にとって、債権を回収する時に取りっぱぐれがないようにするためのものでもありますから、金融機関自身が非常に熱心に行います。

 問題は、たまに、金融機関が、取りっぱぐれがないと判断した担保についても、金融庁から横槍が入り、自主的な融資を妨害されることがあることです。民間の経済活動に対する過度の介入というべきでしよう。

 しかし、不思議なことは、なぜ、金融機関からこうした金融庁によるほとんど妨害とも言える指導に不満の声が上がらないのかということです。

 この理由は、金融機関が自主的な判断をしてみても、地価下落による日本国民の担保の喪失によって、融資したくなるような案件が現在の日本に少なくなっているからです。

 2018年度で金融検査マニュアルは廃止されました。金融庁の民業に対する口出しが減ることは良いことではありますが、地価がこうまで下がっているのでは、もはや、ほとんど金融検査マニュアルを維持する必要もなくなったというのが本音なので、いまさら何をか言わんや、と言うべきでしょう。

 つまり、地価がすでに下がり切って、金融検査マニュアルの「地価が下がり切るまでの過渡期においても、けっして中小企業融資をさせない」という役割が済んだので、関与を廃止するというのが本当のところで

 また、地価がどうであろうとも、景気が良くなりさえすれば、金融機関は成長企業を探し出して融資をするようになるだろうと言う政治家がいます。しかし、「景気を良くすれば融資が始まる」かと言えば、そういうものでもありません。

 政府が積極財政の一つである公共投資を行い、景気を良くすることで、中小企業の業績が上がるようになれば、金融機関も融資を行うようになり、一時的に企業や家計が債務を拡大できるような気もします。

 しかし、政府が財政政策にブレーキをかければ、たちまち、中小企業の業績は縮小し、生産設備費の返済金や新たに雇用した労働者の賃金は過剰な固定経費となります。

 だから、中小企業の方も、公共投資が一時的に増えたくらいでは、機械の購入や雇用の拡大などの長期的な投資には慎重になります。

 金融機関にとっても、公共投資は中小企業の当面の売上の改善、当面の返済財源が期待出来るというにすぎず、そのような企業に対して融資することは中長期的には相当の危険を伴います。

 だから、金融機関の現在の建設業者に対する融資の姿勢は、工事請負契約高の範囲内で融資するというものです。つまり、運転資金の融資しか行わないのです。

 日本経済が、かつてのように、政府が加熱した景気を冷まさなければならないほど、民間側で自律的な企業投資が湧き起こって来るようになる為には、どうしても、金融機関の信用創造が機能し、企業や家計が長期的な債務を拡大できるようになることが必要です。

 麻生太郎財務大臣は、金融機関が企業の将来性を見極めて融資すれば、必ずしも担保に頼らなくても融資出来るなどとタワゴトを言っていますが、これは誤解と言うよりも、無責任な人格のゆえの出まかせを言っているだけでしょう。

 よほど特殊な発明とかならともかく、一般論として、企業の将来性を見極められるような者はこの世のどこにも居ません。

 なぜなら、企業の将来性を見極められるような者が一人でもいれば、その人のアドバイスを受ければ良いわけで、それで潰れる企業はこの世に存在しなくなるからです。

 居もしないものを、どこかに居るかのように言う者をペテン師と言いますが、こうした、ペテン師のような政治家や経済学者が多いので、日本は景気回復のための正しい政策に辿り着けないのです。

 企業や家計が債務を拡大出来るようになるためには何が必要かというと、それは、現在の金融機関の対応が物語っています。

 すなわち、金融機関に安心して融資させるためには、担保の存在が欠かせないのです。机上の空論ではともかく、現実の世界では、担保の存在で、融資期間は飛躍的に長期となり、融資額も飛躍的に増大します。

 担保とは、負債と代替する資産のことであって、その担保と引き換えにして、はじめて貨幣が金融機関から市場に出て来ます。

 それで、ようやく、金融緩和によって信用創造が起こり、マネーストックが増加し、持続的な景気回復が始まります。

 信用保証協会の保証付融資という緊急対策を除けば、信用創造には必ず担保が差し入れられます。1回の融資に対して、必ず1箇の担保が差し入れられます。10回の融資に対して、10箇の担保が差し入れられます。

 そして、10個の担保価値の総額が1億円だとすると、10回すべての信用創造の総額もまた1億円の範囲内でしかないのです。この揺がすことの出来ない事実を押さえていない経済学はニセモノです。

 政治家もまたこの事実を肝に銘じておかなければ、あらゆる金融政策に関する議論は砂上の楼閣となるでしょう。

 

 

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