市町村職員へのルサンチマンは正しい

 

 市町村職員の平均給余が650万円、民間の平均給与は地方によってばらつきはあるものの350万円から400万円と言われています。この、市町村職員が住民より格段に優遇されていることに不満の声があります。

 公務員と呼ぶと防衛、警察、消防、教師などの住民との向き合い方の異なる趣旨の者を含んでしまいますので、市町村職員と明確な指定をして議論します。

 この議論には自衛隊、警察、消防、教師は含みません。なぜなら、彼らには、市民の生活程度や社会保障の分配が適正に行われているかなどの監視について役割負っていないからです。

 むしろ、彼らは孤高の存在として一定の尊厳と待遇が与えられるべきです。

 そもそも、警察、消防、教師を市町村職員と一括りに地方公務員と呼ぶのもです。別の呼び方を設定すべきです。

 これに対して、自治体の首長・市町村議員・市町村職員は住民と共に生活し、住民生活の姿を観察し、国家と住民の橋渡しとなる役割が与えられています。

 市町村職員の優遇は、その職業が軍人や警察官のように命を掛けたり、教師のように国民を導く知識が求められたりするようなものではありません。

 市町村職員の優遇は、政策的にそうしようとして成ったわけではなく、長期のデフレで民間給与が下がり続け、公務員給与が、たった三人しかいない飾り物の人事院勧告だけで決定されることで相対的に上がり続けたものであり、政治の無為無策の結果です

 しかし、今や、この市町村職員の優遇はデフレを維持しようとする勢力から、市町村住民に対する積極財政、積極的所得再分配を阻止する防波堤として利用されています。

 市町村職員の高額所得化に対する住民の不満の感情をルサンチマン(強者に対する恨み)に過ぎないと一蹴する意見もありますが、その感情に一分の理もないのかどうかくらいの検討はしてほしいものです。

 ルサンチマンが常に悪いわけではありません。明治維新における坂本竜馬や武市半平太は土佐藩の上士と郷士の差別、ひいては、幕府の身分制度に強いルサンチマンを持っていましたが、当時においては身分の存在は当然のことであり、逆恨みにすぎないと言われたことでしょう。しかし、それは現代から見れば正しい感情でした。

 日本の明治維新だけでなく、世界のあらゆる革命もルサンチマンから始まりました。ルサンチマンは悪いことだと言ってしまえば、あらゆる革命はその基盤を失います。

 そうすると、必ずしも、ルサンチマンだからといって合理的ではない理由にはなりません。むしろ、歴史的に見れば、ルサンチマンは往々にして正しいのです。

 現代の日本国民のルサンチマンはしばしば政治家の報酬に対しても向けられますが、むしろ、矛先を政治家に向けるのは間違いです。

 それは、政治家がすばらしいから間違いだと言っているのではなく、政治家自身が市町村職員から嫌われることに委縮してしまって、むしろ、好んで民衆の矛先を自分たちに向かせることで、市町村職員給与の問題を棚上げにするための目くらましに利用して来たからです。

 だから、市町村職員給与を問題にしたければ、むしろ、政治家の報酬に対しては一切言及しない方が、問題を見失わず、効率的です。

 一般的に、政治家には、正しい政治であると国民や住民に納得させるものがないことから、自らの報酬を削ることで、公務員給与の問題をうやむやにし、国民や住民の機嫌を取ろうとする者が多いくらいです。

 こういう政治家は、公務員の報復が恐ろしいので、「先ず隗より始めよ」(まず手近なところから手をつけよ)などと言い、自分の報酬を削ると言うのですが、隗より始めるだけで本丸の公務員給与には手を付けようとしません。

 なぜなら、政治家が自分の能力だと言っている「能力」は、官僚や公務員の能力を利用しているにすぎない場合が多く、政治家はそのことを実感しており、官僚や公務員に憎まれ、その協力を失うことは致命的であることを骨身にしみて理解しているからです。

 よって、国民や住民の代理人であるはずの政治家は、悲しいかな、決して官僚や公務員と対決しようとせず、公務員給与を減らせという要望が突き上げられたときに、むしろ、自分の報酬を削ることでお茶を濁そうとするのです。

 マスコミは、こうした政治家のゴマカシを勘違いして、自らの身を切ったと評価する傾向にありますから、日本の国民や住民はごまかされるだけで、ルサンチマンは解消されず、不満は国民の中に溜まったままです。

 市町村職員給与が、現在の優遇された階級から転落し、地元中小企業の正社員給与と同等の水準に転落し、同じような境遇になれば、ようやく、市町村職員も住民の一人として目を醒まし、地元の住民の境遇を良くするためにはどうすれば良いかを考えるようになります。

 市町村職員の声はただちに国会議員の耳に届きます。地方の首長や議員だけでなく、国家公務員もまた地方公務員の声に耳を傾けるからです。地方公務員の声は、国会議員にとっても見過ごしに出来ないものなのです。

 地方公務員の団交の威力は強力ですが、これに対して、住民はと言えば、陳情文を山ほど書き、直接、地元選出の国会議員のところへ直訴に行ったところで、変なやつが来た程度で終わります。

 断言しますが、市町村職員が住民の味方にならなければ、決して、地方の首長や議員も動かないし、地元選出の国会議員も動きません。

 すなわち、市町村職員は地方の政治家だけでなく、国会議員にとっても最もリアルな「国民」なのです。

 私たちはこれまで市町村職員を国民の下僕とか言い、無条件に国民のために働くものと勝手に決め込んでいて、意志を持った窓口であることを忘れていました。

 しかし、気がついてみれば、その窓口が、中央政府の定めた地方公務員法によって、住民生活からも、景気変動からも超然とした待遇を約束されていたのです。

 それによって、市町村職員は住民の貧困化に同情することはなく、また、貧困化していく住民を目の当たりにしても、それをなんとかしなければならないと考えることもありません。

 自民党政府によって市町村職員の特別待遇は意図的に行われ、市町村職員を地方住民から切り離し、地方において反乱が起こらないように手を打ったのです。

 そして、まさに、確信犯的に、住民の市町村職員に対する批判はルサンチマンにすぎないと一蹴して来たのです。

 今後も、市町村職員は支配階級の一員としての地位を与えられていますから、地方住民の不満を事前に鎮圧する親衛隊であり続けます。それは次のような受動的かつ消極的システムで行われます。

 例えば、地方議会が中央政府に対し、中小企業を潰さない政策として、赤字でもかかる税金である消費税や固定資産税の廃止または減税を要望する決議を行ったとすれば、まず、中央政府から帰って来る答えは、自治体が自らの身を削って経費節減をして、その分を減税してやれと言うことになります。

 つまり、市町村職員給与が高いままだと、市町村職員に高い給与を支払うほどの能力があるのに、なぜ、国庫負担を要求するのか、顔を洗って出直して来いということになるのです。

 自治体はこの政府のとぼけた対応に反論しなければならないのですが、このようなやりとりの最中には必ず、自治体の経費のあり方に注目が集まります。マスコミも狂喜して経費の細部に至るまで分析を始めます。

 自治体の経費の最も大きなものは人件費ですから、これは職員給与の高さに注目を集めることに成ります。

 そのようなことだけは議員も市町村職員も絶対にしたくないのです。そのために陳情をつぶすという事前の防衛的行動は、地方議員も市町村職員もほとんど意識することなく、本能的に行います。

 そして、念の入ったことに、時には、首長自らが、税や保険料が高くても、政府は財政危機にあるので、住民の負担の増加、公共投資や住民サービスの削減は仕方のないことだと、中央政府に成り代わって住民を説得するのです。

 正に、自民党はこの仕組みを作ったのです。

 このようにして、市町村職員が住民(民間)とは別格の待遇を与えられることによって、地方議員も市町村職員も中央政府の緊縮財政政策を擁護する側に回り、事実上において中央政府の手先となりました。

 もちろん、中央政府が積極的な財政政策を行っている最中なら、市町村職員と積極的な財政政策とは特別な利害対立は無くなりますから、市町村職員は何も言いません。

 または、すでに市町村職員給与が削る余地がないほど十分低くなっていれば、国の負担を100%とする公共事業の陳情が行われようとも、市町村職員は何も言わないどころか、むしろ、陳情する側の味方になります。

 しかし、中央政府が緊縮財政政策を行っていて、住民の貧困化にも関わらず、市町村職員給与が住民の平均所得よりも格別に高いときは、つまり、現在の日本のような、中央政府の国民貧困化政策が行われているのに、市町村職員だけが格別に高い給与を得る地位にある場合は事情が変わって来ます。

 住民が中央政府に積極的な財政政策に転換するよう働きかけようとすると、市町村職員は自分たちの高い給与を、中央政府や住民から指摘されないようにするために、中央政府の手先となって、住民の意見または地方の首長や議員の行動を抑え込む側に回るのです。

 地方の首長や議員が住民のために何もしようとしないときは、市町村職員は安心します。

 しかし、本当は、市町村職員が住民の一人としての自覚があるのなら、住民が貧困化する様子を見て、首長や議員に地方豊かさを取り戻すよう、住民と共に首長や議員に働きかけなければならないはずなのです。

 例えば、現在のように、自治体の財政が高い固定資産税という住民の犠牲に頼っているようでは、むしろ、市町村職員は、このままでは、住民は金を失うだけで、貧困化するだけだと訴えかけなければならないはずです。

 しかし、市町村職員はすでに住民とは異なる階級の一員になっていて、むしろ、住民から搾り取る側に回り、首長や議員が中央政府に対して(税制改革などを通じて)減税するように働きかけることを妨害するほどになっています。

 なぜなら、住民のための減税を中央政府に言って行けば、さきほど言ったように、自治体職員に高い給与を払っているのに、そんな余力があるのならば自分たちの給与を下げて、減税してやれば良いではないかと、中央政府から反論されるからです。

 このような展開になるのが目に見えているので、市町村職員は、自分たちの利益を守るために、確信犯的に住民の負担を軽くするような陳情をせずに、むしろ妨害し、中央政府と一緒に住民を抑圧する側に立っているのです。

 この有様の中で、住民が市町村職員にルサンチマンを持ってはならないという説教が、説得力を持つことはありません。

 市町村職員は住民の一員であるべきです。

 したがって、住民は、市町村職員給与を地元中小企業の正社員給与と同等にする条例作りを請願すべきです。

 それは、市町村職員を住民と同じ階級として、住民側に取り戻すということに外なりません。そうすることで、市町村職員はようやく目覚め、地方住民の同志になります。

 もし、それをある市町村の首長または市会議員がひとたび思い立つならば、それは、市町村職員の全員を敵に回した凄惨な戦いとなるでしょう。

 市町村職員も報復するでしょうから、いろいろな反発をされるだけでなく、その人の人生すら破壊されるでしょう。

 しかし、そうした抵抗が強ければ強いほど、そして、困難が大きければ大きいほど、その戦いは後世において偉大な戦いであったと称えられるはずです。

 

 

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