②無駄と必要の境界線

 

 事業効果は、投資額に対してどれほどの満足が得られたかの費用対効果とも呼ばれます。民間企業の場合は、売上や利益を計算すれば良いのですから評価も簡単ですが、公共投資の場合は、お金の入らない奉仕ですから評価は困難です。

 公共投資の事業効果の評価の困難さの一つに、例えば、新しい道路を建設したとして、新しい道路の交通量が増えても、全体の交通量が増えるわけではありませんから、従来から存在する道路の交通量を減らし、それによって従来の道路の利用度は下がるので、新しい道路の利用度だけで測るわけには行かないといったことや、公共投資によって失われる自然環境など、外部不経済の問題があります。

 また、新しく造られた道路だけで考えても、移動時間の短縮、周辺土地の有効利用の可能性の増大、大規模災害の時の避難経路などの利便性の向上は容易に想像することが出来るものの、これら利便性を数値化するのは不可能です。つまり、事業効果は、客観的な評価が不可能なのです。

 それを良いことに、無責任な政治家およびマスコミは、公共投資は利権屋が儲かるだけで、無駄なものだと言います。

 この場合の無駄なものとは、国民生活にとって必要性に乏しい贅沢なものという意味です。

 確かに、客観的な評価をすることが出来ないような道路は贅沢かも知れませんが、その贅沢さが豊かさというものです。

 ただし、災害の多い日本では、たとえ無責任な政治家およびマスコミに『いつ来るかも判らないような災害に備えて緊急時に通行できる道路を持つことなどは贅沢だ』と非難されたとしても、国民にとっては必須のものであることは確実に言えます。

 そうすると、日本では、この贅沢さは、必ずしも贅沢とは言えず、日本であれば当然の設備だと言うことも出来ます。贅沢と言う概念はあいまいなのです。

 贅沢さは時代や地域によって相対的に評価されるべきものです。

 現在の私たちの生活を考えてみれば、一つの家族にしては広すぎる住居、移動する手段にしては豪華すぎる高級自動車など、本来の役割を超えた無駄な部分が多ければ多いほど贅沢だと言われるはずです。

 しかし、これらも含めて、贅沢なものはしばしば必要なものでもあります。例えば、正常な精神生活のためには住宅のある程度の広さと質が必要です。

 病人のところに救急車が救助に向かうのは、後進国から見れば贅沢とも言えますが、先進国においては、救急車は必要なものだと考えられています。

 しかし、例えば、日本が他国の支配下にあり、支配者が日本人なんかに救急車などは贅沢だと思えば、救急車は贅沢かつ無駄なものとして廃止されてしまいます。

 国際投資家と多国籍企業が世界や一国の支配者になれば、現代の社会でもこういうことが起こります。

 それはすでに起こっています。日本で、国際投資家と多国籍企業の手下となった自民党やマスコミなどの財政均衡派によって、社会福祉や公共投資が削られている事実がまさにそのことです。自分たちには必要なものでも、自分と共感を持たない他人にとっては社会福祉や公共投資無駄で贅沢なものでしかないのです。

 また、無駄と必要の境界線について、介護福祉の例を考えると、一人の高齢者に対して、複数の介護士が交互に24時間付きっ切り介護することは理想です。これは、やろうと思えば出来ないことではありませんが、全国民に普遍的に施行できずに、特定の者に対してだけ行った場合、それは贅沢だということになります。だから、公費などは到底使えません。

 しかし、全国民に対して行われれば、必要なことだということになります。

 そのことから、公共投資の無駄と必要の境界線は、「他人とのバランス」にあると言うことが出来ます。

 他の地域や他人にも同様の行政サービスが拡大して行くのなら、最初はどのように贅沢と感じられたとしても、最後には贅沢という評価にはなりません。

 自分自身にとって、公共投資はどれもこれも存在したほうが良く、その必要性を問われれば、年に一度しか行かない国民宿舎を含めて必要だと答えるに決まっていますが、国民宿舎を持たない地域や他人とのバランスを考えて、始めて無駄か必要かの判断が下されることになります。

 そして、これは感情の問題ですから、教育や政治におけるプロパガンダで簡単に変えることが出来ます。

 根本的なところにおいて、行政サービスの必要性は、収支で量るべきものではありません。赤字の事業を否定すれば、大概の行政サービスは赤字ですから、行政サービス自体が贅沢であり、無駄だということになります。

 しかし、行政サービスは無償が基本なのですから、赤字であって当然ですし、赤字であるべきものです。

 それにも関わらず、国際投資家と多国籍企業の手下となった自民党やマスコミは、先頭を切って、収支で量り、赤字が出ようものなら行政サービスすら廃止してしまえと主張します。

 新自由主義者は、低所得者や貧困層への富の再分配を異常なまでに嫌い、「全ての行政サービス自体が贅沢であり、無駄だ」という考え方に非常に近いところに居ます。

 なぜなら、新自由主義者の国民(特に低所得者や貧困層)に対する共感度は、前出の侵略的な支配者の感情とほぼ同じところにあるからです。

 そして、不思議なことに、現在の日本ではほとんど全ての政治家およびマスコミは新自由主義の側に居て、与野党を問わず全ての政治家から、そして、あらゆるマスコミの論説によって、しばしば、行政サービスに無駄が多いので、道路は作らないようにし、公共建物を閉鎖し、公共料金を上げ、町からゴミ箱を撤去し、公園からハトを追い出してフン掃除の費用がかからないようにし、経費節減の努力をしなければならないという主張に覆われています。いつか日本人自身をゴミ扱いしそうな勢いです。

 そのため、国民もまた自分たち自身への支出を削ることは良いことだと思い始め、これらの経費節減運動は国民運動のような様相を呈し、まるで、中国の文化大革命でも見ているかのようです。

 公共施設や公共サービスを削る理由は、もちろん、「国民に行政サービスを行いたくない」と公言してのことではありません。本音はそうであったとしても、そうは言えません。

 これは、財政危機なので経費節減は止むを得ないという理由で行われています。

 特に、世界的に見ても日本国民はそうした論調を好み、危機を煽り立てる政治家を支持します。

 つまり、これはマンガのような話ですが、国民自身が、現在の日本は財政危機にあるというタワゴトを信じているので自分に対する政府支出の削減を正当なことだと考え、国民自身が、国民自身に対する行政サービスを要求しづらい空気を作り上げているのです。

 すなわち、まさに、経団連などの輸出型大企業と呼ばれるインフレにさせたくない者と、それと結託した自民党などの権力者と繋がっている者がいて、国民自身が日本中のあらゆる組織、地域社会、集会などで彼らに忖度し、「日本は財政危機にあるので節約しなければならない」というタワゴトに反論させない空気を作り上げているのです。

 国民への行政サービスを行えば行うほど国民は豊かになりますが、インフレになります。そうすると、富裕層はインフレ分だけ実質的な富を失い、輸出型大企業は競争力を失います。

 行政サービスは何であろうと結局は富裕層が負担することになるのです。富裕層はそのことを良く理解しているので、行政サービスの拡大に反対します。

 経費節減のためと称して、地方自治体などが住民票交付サービスを民営化していますが、これは、公務員給与と民間賃金の差額を利用した経費節減です。

 公共サービスの経費節減ならば、民間の2倍も高い市町村職員の給与を下げるべきだと思うのですが、自民党や政治家は、市町村職員を緊縮体制の監視役と防波堤として味方に付けておくために、そして、経費節減と市町村職員の給与維持という2つの問題を解決するために、一部の公共サービスを切り捨て、民営化するという方法を採用したのです。

 民営化された場合、民間企業の株主は自分の利益しか考えずに、派遣労働者の賃金を削ります。

 ちなみに、市税の強化や公共料金の値上げは、行政サービスが奉仕であることの否定です。

 国家全体としては、国民全体が汗水たらしてそれなりのものは生産しているはずですから、ことさらに市民の受けるべき利益を削減しなくても、国民全体に潤沢な行政サービスの分配が出来るはずです。

 とりわけ、国防、警察、防災、社会保障、インフラなどの行政サービスを無駄だとか、経費節減のためだとか言って削られては困ります。

 しかし、そもそも、先進国においては、国家全体、国民全体の生産の90%は贅沢品とか娯楽とかの、いわゆるムダと呼ばれているものです。

 しかし、高級な自動車とか、ブランドもののグッズとか、テレビとか、旅行とか、そういったムダなものが欲しくて、食料、衣服、住宅、医療などの最小限の必要な生存物資を作る生産者が頑張ります。

 そして、最後に、その生産力を総合して、国家および国民を守る最新鋭の安全保障が生産されるのです。

 国家の安全保障は、あらゆる政治政策や経済政策の頂点に位置する優先課題です。

 国家や国民を守る安全保障は絶対に必要であり、その安全保障を支えるものとして、防衛機器、インフラ、インターネット、食料、衣服、住宅、医療が存在します。食料は、栄養と衛生と嗜好のバランスが幾重にも試行錯誤され、進歩し、兵士や国民生活を支えています。

 また、道路は、交通量の多い生活道路や産業道路から緊急避難道路まで、どこからどこまでが何に該当するかをキッチリと仕分けすることは出来ません。

 モノの性質に焦点を当ててみても、贅沢品や娯楽と生存の必需品の境界線は簡単に分かりません。

 これらの必需品から贅沢品までのあらゆるものを国民が手に入れることで、豊かな生活を生み出して行き、同時に、有効性の高い安全保障(国防力)を獲得して行くのです。

 無駄と必要に関する一定の境界線は存在しません。また、その境界線を決めなければならない理由もありません。その都度、政治的な切磋琢磨があるだけです。そもそも家計の感覚で緊縮しか考えずに、無駄を削るという発想自体が子供のように幼稚で無謀な行為なのです。

 

 

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