③マルクス主義も敵である

 

 そもそも、マルクス主義はまともな思想ではありません。良く考えて見て下さい。マルクスは、あらゆる社会的存在の下部構造は経済(搾取と被搾取)であり、哲学、芸術はもちろん、自然科学をも含む上部構造を決定すると言っていましたが、何らかの革命によって、共産主義者という哲人(ヒーロー)に全ての権利を与えれば、この世から搾取が無くなると言っているのですから、狂人または子供の妄想と言う外ありません。

 つまり、搾取が無くなったことを誰が確認するかというと、これもまた共産主義者たちなのですから、非科学的にもほどがあります。

 それにも関わらず、マルクス主義が政権を奪取出来たのは、持たざる者が、武力によって目の前の富裕者から富を奪うことを公然と正当化するという単純なことをやったからです。

 それが良いとか悪いとか言っているのではありません。客観的に言って、単純さが大衆に受け入れられ、成功したと言っているのです。

 マルクス主義に経済理論はありません。共産党の命ずるままに供給(生産)すれば、全ての需要は満たされると言っているだけです。

 満たされない者は革命的精神によって我慢しろと言っていますが、それは理論と呼べるようなものではありません。

 これに対して、ケインズ主義は、資本主義を維持しながら、つまり、搾取の構造を維持したまま、修正を繰り返し、徐々に搾取を減少させ、状態を良くして行くやり方ですから、その都度の判断や行動が複雑になり、大衆の共感を得にくいのです。

 ケインズ主義では、何をどうすれば、労働者がどのように豊かになるのかについては、所得再分配というものについて大衆自身が勉強しなければなりません。

 マルクス自身、最初の共産主義革命がロシアのように資本主義国すら成立していないような国で起こるということは想定していませんでした。

 マルクスの死後、レーニンによって解釈し直された革命が成功した理由は、の理論が、持たざる者(プロレタリアート)は持てる者(ブルジョワジー)から武力で略奪すれば良いというだけの単純な理論であったからです。

 こういう単純な理屈は、これはヒトラーの反ユダヤ主義にも言えることですが、大衆に受け入れられ易いのです。

 集団ヒステリーで何もかも達成されてしまいます。

 カール・マルクスは、1848年に共産党宣言を、1867年に資本論第一部を刊行し、いわゆるマルクス経済学を世に出しました。マルクスは、ケインズ主義と同じように労働者の救済を唱えました。

 マルクス経済学自体は単純であるにも関わらず、経済的な論争というだけでなく、人間性の開放という大テーマを据えることによって、従来の思想に留まらない哲学論、歴史論、芸術論、文学論といった議論の場をいわゆるインテリ層に提供し、インテリらしいパフォーマンスとして大喝采を浴びたのです。

 それはまったくドラマチックで、わくわくするような理論だったようです。なにしろ、七つの海を股に掛ける大海賊のように目の前の富裕者から全ての金品だけでなく、伝統的価値観さえ奪ってしまおうという理論だったのですから。

 しかし、改めて言っておきますが、海賊が悪いと言っているのではありません。むしろ、私は、イギリスの植民地下でインドの抑圧された人民がイギリス商船に海賊行為を働いたとしても悪い行為だとは言い切れないという話に共感するほどです。

 私がここで言いたいのは、マルクスの言う搾取の解決の手段は略奪と言う単純なものであったが為に大衆に理解されたということです。

 ただし、マルクスの理論は確かにドラマチックであり、当代きっての売れっ子ではありましたが、各論についてはいたるところで反論も噴出していました。

 マルクス経済学の中心理論は剰余価値説と呼ばれるものです。マルクスは古典派経済学の労働価値説を発展させ、剰余価値説を立てて搾取を定義し、労働者の貧困の理由が搾取にあると主張しました。

 まず、労働者は自己の生活に必要なだけの労働(例えば6時間)を行い、その後地主や資本家の分(例えば4時間)を余計に働く、この余計に働かされた4時間分の労働で作られた価値を剰余価値といい、この労働者が生産した剰余価値を地主や資本家が無償で手に入れることを搾取と言います。

 労働者自己の生活に必要なだけの労働の対価は賃金と呼ばれ、地主や資本家が搾取した取り分は利益と呼ばれます。

 しかし、搾取の概念をモデルで数値化することは可能であっても、現実面で数値化することは不可能です。例えば、利益利益と呼ばずに、経営者役員報酬に上乗せして分配してしまえば、適正な報酬と搾取の境界線は分からなくなります。

 つまり、搾取は確実に存在するものの、計測出来るものではありません。

 したがって、搾取の全廃も概念上存在するだけで、現実において全廃された状態を確認することは出来ません。これがマルクス経済学の致命的弱点です。

 マルクスは、搾取は全廃できると宣言し、人々に夢と希望を与えましたが、全廃は幻にすぎませんでした。科学的社会主義と言いながら最も宗教的であり、歴史的必然と言いながら最も意図的な政策が行われました。

 現実世界の搾取は複雑怪奇なものです。例えば、資本家が受け取る配当も、債権者が受け取る利子も、どちらも労働者の生み出した剰余価値から搾取されるのですが、それならば、企業が赤字だった場合は搾取の逆流が起こるはずです。

 企業が赤字の時は、企業の経営者は役員報酬を返上し、金融機関に利子を下げてもらいます。はなはだしい場合は、経営者は自分の財産を切り崩して労働者への賃金の支払に充てます。

 この状態は倒産への秒読みが始まっているのですが、当分の間の猶予はあります。その段階でも労働者は賃金をもらいます。

 これは、実際に日本の中小企業には赤字企業はザラにありますから、特殊なケースではありません。この赤字企業における状態は、資本主義のミュータントなのではなく、資本主義経済の一般的な形態の一つにすぎません。

 搾取の「他人の所得を無償で手に入れること」という定義に素直に従うならば、赤字企業が労働者に賃金を支払う場合は、企業が労働者を搾取しているのではなく、労働者が企業を搾取していることになります。

 このように、弱者が強者を搾取するケースは他にもあります。例えば、生活保護世帯という経済主体を考えた場合、生活保護世帯は労働をしませんが、生活費が給付され、それによって他の経済主体から生産物やサービスを無償で手に入れることができます。これも立派な搾取です。

 剰余価値説のように、資本家が労働者を搾取するという単純系だけでは、現代の搾取は説明出来ないのです。

 国民の全ての生産物が、貨幣経済を介して大回りの分配が行われ、ある時は赤字企業の労働者に、ある時は失業者にも分配されるのです。

 ただし、その分配のバランスにおいて、最も多く搾取している者が資本家であり、最も多く搾取されている者が労働者であることは間違いありません。そして、それが格差と貧困の原因であることも間違いありません。

 マルクスは、資本家に剰余価値が搾取され、蓄積されて資本となり、資本の集中によってますます多数の労働者を搾取し、資本家と労働者の格差が拡大すると言っています。これもその通りです。

 また、マルクスは、資本主義下では、労働者が企業で働き、やっと生きて行ける状態まで激しく搾取されることによって、労働者がそれまで生きてきた社会の助け合いや道徳といった価値観から切り離され、現金決済だけが闊歩し、生産からも社会からも阻害された存在になると言っています。この部分は異論の出ている所です。

 例えば、現金決済は人間の欲望の適切な表現ではあるけれども、現金決済が人間性の疎外となっているかどうかどうかは判りません。つまり、人類は神代の昔から殺戮と略奪を繰り返しているのですが、それが現金決済より良かったと言うことも出来ません。

 また、かつての殺戮と略奪、現代の現金決済が革命によってどのように修正されるのかという疑問も残ります。

 たとえ、現金決済の指向が過剰となり、飢え死にする者が続出し、事実上の殺戮に似た状況が再現されようとしていると見たとしても、例えば実際に起こった共産主義革命のときの事件のようにそれを修正する方法を間違うならば、人民は一層過酷な運命に導かれることになります。むしろ、あらゆる社会主義革命において人民が救われたとは思われません。

 しかし、マルクスは、労働者が階級を認識し強靭となり、革命を起こすことが、こうした歴史を止揚し、資本主義の呪縛から逃れる唯一の方法であり、革命によってのみ、経済的にも、文化的にも、社会的にも開放され、真に豊かな人間の社会を作り出すことが出来ると主張しました。

 そして、資本家が労働者を搾取するという矛盾は、資本主義下では解決できないので、歴史的必然としての革命によって資本主義を滅ぼして、ブルジョアジー(資本家階級)を殲滅し、プロレタリアート(労働者階級)の支配する社会体制を創らなければならないと主張しました。

 マルクスは特に暴力革命に言及していませんが、レーニンは、人間を解放する解決策として暴力を選びました。

 おそらく、民主主義が機能していないと判断される局面においては、暴力という選択が正当化されることもやむを得ないものと思われます。

 したがって、私も、特に、共産主義者が暴力革命を採用したことに対して異議を唱えるつもりはありません。

 しかし、残念ながら、マルクス主義には経済政策と社会政策の面で致命的欠陥があり、その欠陥によって行使された武力は人民を飢餓と死に追い込むだけのものとなったのです。

 つまり、マルクスは修正されるべき経済の分析において間違い、後継者たちが考えうる最善の方法を採ったとしても、その間違いは埋められなかったのです。

 また、社会主義計画経済は究極のサプライサイド経済学であり、これはケインズ経済学とは真反対に位置するものです。

 マルクス主義では、所得再分配と経済成長理論とは無関係なものとして位置づけられ、社会主義計画経済で経済成長を成し遂げた後、その生産物を分配するという考え方ですから、あくまで、関心は、サプライサイド(供給側)の生産のコントロールだけにあります。

 マルクス主義にとっては、資本主義を滅ぼすことだけが目的であり、したがって、資本主義下においては所得再分配理論も経済成長理論も存在しません。

 言い換えるなら、マルクス主義は、今、現実世界に生きている生身の人間に対して興味を持っていません。マルクス主義思想によって洗脳され、マルクス主義社会に適応するであろうと期待される「新しい人類」に対してのみ関心を持っています。

 ゆえに、マルクス主義が行う資本主義下(例えば今の日本)におけるあらゆる経済論争は、資本主義を破壊するための方便でしかありません。この姿勢は、現在の日本の共産党、社民党、民主党左派などのマルクス主義者に受け継がれています。

 だから、これらのマルクス主義者たちに、資本主義社会におけるまともな税制や社会保障制度の論争をしてもらおう等と期待しても無駄なことです。

 社会主義革命の達成された社会を見てみると、ちょっとは贅沢をしたいという個人的な欲求はブルジョア的であるという理由で否定され、かつ、民間の投資による生産が禁止されるので、個人は創意工夫のモチベーションを持つことができません。実際、その弊害が社会主義国で起こっています。

 ソビエト連邦の終期には、人民を無視した社会主義計画経済の一方的な命令に対して労働者は生きる希望を失くし、必要最低限にも満たない生産が行われ、必要最低限にも満たない生活用品が分配されるようになりました。

 フルシチョフ(1953年9月~1954年10月)失脚の直接の原因となった農業問題でも、集団農場の生産性が上がらず、コルホーズ内のわずかな自留地では支えきれない大量の食料需要を世界最大の農産物輸出国でもあるアメリカから輸入する必要が生じた程です。

 最終的にソ連が国民の支持を失った原因は、生産がうまく行かなくなったことにあるのは言うまでもありません。

 社会主義計画経済はこのように究極のサプライサイド経済学ですから、デマンドサイドである消費者側(国民)の利益ではなく、サプライサイドである生産者側(政府側)の利害で決まり、所得の分配が官僚的になり、必然的に失敗します。

 生産者側(政府側)の利益とは、政権の維持であり、共産党員特権の維持です。つまり、武力の維持であり、官僚制の維持です。これは、新自由主義において、資本家が自分の利益のみを追求し、国民生活に関心を払わないことと一致します。

 共産主義と新自由主義は、少数者が生産手段を独占し、人民を支配するという、同じ選民思想から生まれた双子の兄弟なのです。

 

 

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