①低所得者と貧困層への所得再分配を使命とする社会主義

 

 一般的に経済活動というときは、生産と交換を言います。それを少し上の視点から眺めると、生産と分配ということになります。政府が分配に関与すれば所得再分配となります。

 生産したものをどのように分配するか、その分配が偏ったものになった場合、その偏りをいかに修正するかが、経済政策の目的す。

 ケインズ主義は、社会主義的提案はするものの、必ずしも社会主義とは考えられていません。しかし、今や、体制として、そして、濃厚な社会主義としてのケインズ主義を唱えるときがやって来たように思われます

 冷戦が終わり、労働者やその他の弱者が後ろ盾としていた世界の社会主義運動が敗北し、消滅したせいで、労働者の立場弱くなり、投資家や債権者たちから極限まで搾取されるようになり、生きる希望すら失うに至っています。

 いまや、共産主義という古い社会主義に代わる新しい社会主義が必要になって来たようです。

 ケインズは、低所得者や貧困層にお金を配る経済学だけが正しい経済学であると言っています。そして、利子生活者(富裕層)を安楽死させるにはどうすれば良いかを論じています。

 それがすなわち新しい社会主義です今日認識されている社会主義的正義は、国民全員で生産したものを国民全員で平等に分配することにあります。

 だから、共産主義が、「人民全員で生産したものを人民全員で平等に分配する」という理想を掲げたときに、あらゆる社会主義運動において、共産主義は有無を言わせぬ最も正しい理念と成ったのです。その共産主義の理念の正しさは現在でも間違っていません。

 しかし、マルクス主義は、経済学的には単純すぎて間違った理論であり、そして政治的方法論も間違っていたので、あらゆる政治経済学的論争に負けるのですが、その目的とするところは純粋で正しいものでした。

 ところが、現在では、共産主義の間違いを論ずるときに、共産主義の平等を目指すという理念そのものが間違いであったかのように言われていす。これは資本主義者の社会主義に対する反論の中でも、最もお門違い的なものであり、濡れ衣的なものです。

 共産主義の間違いは、サプライサイドによる計画経済だけで経済の持続が可能とする経済学的方法論と、プロレタリアート一党独裁という政治的方法論の間違いなのであり、平等を目指す動機にあるのではありません。

 あらゆる正義は、それを実行しようとするときに、政治的に必ず失敗します。なぜなら、中立な人間など存在せず、あらゆる人間は正義を行うのにふさわしくないからです。

 共産主義社会において官僚は赤い貴族に変身しました

 つまり、あらゆる人間は強欲であり、嘘つきであり、冷酷です。これは真理ですから、どのような正義を掲げようと、それを実現する過程において権力を持つと必ず腐敗し、そういう意味で、共産主義を掲げる政治もまた失敗したのです。

 それは資本主義でも同じです。かなわち、資本主義も間違いを犯すのです。

 だから、理想を掲げるときは政治的に必ず失敗することを前提として、理想を掲げなくてはなりません。

 これが、すべての人間正義を行うのにふさわしい存在ではないということに対する唯一正しい姿勢です。

 いまや、世界の共産主義政権の間違いは、「高潔な革命家が政治を行えば成功する」と言って来たことと逆の現実となことにあることが明らかになりました。

 したがって、未来に向けて行う政治においては、失敗しても痛手が少ない体制を選択するしかありません

 それがすなわち民主主義です。ゆえに、民主主義は究極の政治体制なのです。民主主義はしばしば意思決定能力に欠けますが、それこそが失敗しても、最も痛手が少ない体制の特徴でもあるのです。

 ケインズ主義は資本主義の中で、ほんの少しで良いから、低所得者や貧困層に所得再分配をして欲しいと望んでいるだけであ、国際投資家を殲滅しようとているではありません。

 その証拠に、国際投資家を法律で禁止しようとは言っていません。激しい戦いではなく、静かな戦いにおいて投資家や債権者が安楽死することを願っているだけです。

 つまり、法人税、累進所得税、相続税で国際投資家の利益や資産を制限しようとしているだけです。

 しかし、それでも、相当に恐ろしい戦いになるだろうことは想像が付きます。なぜなら、国際投資家の実力はすさまじく、野獣のように暴力的だからです。

 国際投資家の側からの低所得者や貧困層に対する法律や国際条約を利用した攻撃はすさまじく、低所得者や貧困層はデモやストなどのあがきをすることすら困難になっています。

 精神面においても、国際投資家の側からの脅迫で国民は震えあがり、いまや、富裕層の利益を守ることが現代の国民全員の道徳であると信じ込まされています。

 低所得者や貧困層、そして、労働者の言論は押し込められ、序々に投資家と債権者の利益を守るという道徳に従わざるを得なくなって来ているのです。

 投資家は、企業が労働者を低賃金で働かせ、首を切り、過労死や自殺をさせてでも、企業に利益を出させることを道徳としています。

 債権者は、融資という名の投資のリスクをすべて債務者に担わせ、債務者のみならず連帯保証人のすべての資産と所得を差し出させでも返済させることを道徳としています。

 また、それだけではなく、債務は相続権を放棄しても、法律によってプラスの財産の相続権の継承の理論にしたがって、債権者がその気になれば親類縁者にまで追及される仕組みになっていて、あたかもリングのように引き継がれ、どこかで誰かから財産を奪い取れるようになっています。

 こうした仕組みの前提に、投資家と債権者の利益を保護しなければ国が亡びるというプロパガンダがあり、逆に、投資家と債権者あらゆる国の規制からの自由は絶対に正しく、どこまでも保証されなければならないとする「道徳」があります。

 そして、その対極に、国家が人為的に弱者を保護するのは間違いであるとする「道徳」があります。

 冷戦時代では資本主義国においても、企業は国や地域に助けられ代わりに、企業は国や地域の役に立つべきだというのが、一般的な常識だったはずです。

 ところが、1989年の冷戦終結後、国民の間にも、なんとなくグローバリズムは良いものだという感情が生まれ、何の国家の規制に守られることもなく、自由な競争で打ち勝って行った強者や勝ち組の利益を擁護することが進歩的なことだといった空気のようなものが出来上がって来ました。

 その反対に、弱者や負け組を守ることは遅れた考えであり、カッコ悪いことだと考えられるようになりました。

 競争は激しければ激しいほど、成功の確率は小さければ小さいほど、勝利は価値のあるものになります。

 このように、マスコミや政治家が、熱血マンガの世界のようにふわふわした気分でグローバリズムを礼賛し続けた結果、日本の労働者は貧困になりました。

 政治家、新聞、テレビ、そして、学校の教師までもが、ふわふわした空気の中で、日本国民の首を真綿で絞めつけることに加担しているようです。

 この掴みどころのない、ぬるま湯のような社会の変化に逆らうことは並大抵のことではありません。

 しかし、ぬるま湯のようでありながら、実際は、世界中の富裕層が明確な意図を持ち、渾身の力を込めて、経済学者、政治家、新聞、テレビ局を抱きこみ、毎日、国民に所得再分配をあきらめるようプロパガンダを繰り返しているのです。

 反対に、所得再分配を主張するような者は新聞でも取り上げないし、テレビに出してもらえません。

 この流れを止めようと思えば、世界中の富裕層が意図的に行っているこのようなプロパガンダを、彼らに勝る信念をもって戦わなければなりません。

 しかし、そのためには、激烈な労働組合運動または国民運動という社会現象の援護が必要なのです。

 つまり、有名人が、テレビの中でこんなバカな世の中を変えなければならないと言ったときに街頭で激烈な労働組合運動が起こっていなければ話にならないのです。

 そうして始めて、テレビやインターネットの場で触れられ、今の空気を跳ね除け、空気を読まない発言者も国民から支持されるようになります。

 激烈な労働組合運動は、亡霊のように復活して来た社会主義運動と認識されるはずです。

 ケインズ革命も、そのような非難をものともせず、学問的な議論というだけでなく、そういう激烈な社会主義運動の一つでなければなりません。

 ケインズは、経済学の教授たちが認識を改めれば、政治家や官僚たちもまた経済学の認識を改めると思っていました。

 ケインズは、ケインズの時代の当時においても、政治家や官僚は経済学の権威に忠実であり、良く頑張っていると言っています。

 ケインズは、経済学の権威を下部構造、政治家や官僚の経済の認識や政策を上部構造と呼び、上部構造は下部構造を土台として成り立っていると言っています。

 しかし、ケインズの期待に反して、経済学の教授たちの認識は改まらず、あろうことか、経済学論争ではない社会生活の中で、つまり、裏工作でケインズをのけ者にし、社会的に葬り去ろうとしたのです。

 知らなかったのはケインズだけでした。ケインズは1946年に62才で若すぎる死を遂げました。

 それだけでは飽き足らず、新古典派総合、ニューケインジアンなどを使って、ケインズとは異なる理論をケインズ理論として偽り、経済学会を混乱させ、ケインズ理論は事実においても、経済学会からも葬り去られました。

 断言しますが、のほほんと経済学論争なんかをやっていて、自分の考えを改めるような律儀な経済学者などはこの世のどこにも存在しません。

 ケインズの思想自体は、経済学論争で他の教授たちの認識が変わり得ると甘い期待を持っていたにも関わらず、他の教授たちにとっては、ケインズ主義はスポンサーや経営側との仲たがいになりかねない忌まわしいだけのものでした。

 そして、ケインズは富裕層への課税強化という過激な思想から、親友に絶交され、学会や社交界から追放されました。ケインズのみならず、ケインズの仲間もまた危険人物としてマークされていたほどです。

 また、マルクスが出現する前の社会主義は、資本主義の修正としての社会主義を提唱していました。つまり、低所得者や貧困層への所得再分配を目的とする社会主義的政策を目指す運動を社会主義と呼んでいたのです。

 そうした運動では資本主義を滅ぼすことが目的とされることはなく、経済活動がもたらす格差や貧困化を修正することが目的とされていました。

 19世紀の社会改革運動は、生活改善運動などの物質的な側面だけでなく、理想社会の建設というテーマを持つ精神運動でもあり、同様の精神運動であった幅広い宗教団体と当初から密接な関係を持っていたほどです

 そのことからも、社会主義がマルクス主義から生まれたものでないことが判るでしょう。

 つまり、社会主義の出自から見れば、資本主義と社会主義が対立しているのではなく、資本主義の中で、小さな政府を主張する伝統的な自由主義と、大きな政府を主張する伝統的な社会主義が対立していたのです。

 そして、伝統的な社会主義から分化したミュータントの共産主義が資本主義を割って出て、資本主義そのものと対立したのです。

 現代の世界では社会主義というだけで、資本主義を滅ぼそうとしているとして否定される傾向にありますが、これは、現代の社会主義がすべてマルクス主義に転向してしまったことに起因します。

 しかし、マルクス主義がたとえ大失敗に終わったとしても、マルクス主義を支える国民の思いは、それでも、貧困者を救済し、人類の平等を目指すということであり、その悲願は決して変わることはありません。

 ケインズは、ソビエト連邦に旅行した時に、社会主義に関心を持てなかったと言っていますが、これは、社会主義のマルクス主義的な試みに関心が持てなかったというだけであって、それは、むしろ、ケインズが資本主義国家における体制の社会主義的なおだやかな変化に夢馳せていたからです。

 もっとも、ケインズ主義を社会主義だと呼んでいるのはケインズ政策に反対する新自由主義者たちなのですが、逆に、共産主義者からは国家独占資本主義であるとか、新自由主義の下準備にすぎないとか言われています。

 かつて冷戦時代は、資本主義・自由主義陣営でも、国民が社会主義国家の魅力に惑わされないように、社会主義的な政策を積極的に取り入れていました。

 特に、冷戦の最前線である日本は、その戦略的必要性から、所得再分配が成功していたため、一億総中流などと呼ばれると同時に、世界で最も成功した社会主義とも言われていました。

 資本主義を肯定しつつ、社会主義的な政策を導入しようとする場合は、どのような政策まで可能なのかという考察は、どのような政策まで資本主義と呼ぶのかという定義の考察そのものです。

 ケインズ自身は、次のような社会を構想していました。

 それは、税制や社会保障制度でしっかり所得再分配のシステムを構築し、なお、国民が生きていくための普遍的な社会資本(原子力発電、電気・水道・ガス等のエネルギー、山林・河川、公共交通機関、通信、教育機関、港湾、空港など国家の安全保障の基幹となる部門)を国民の代表部である国家が所有し、経済の大部分を占める先進的な文明や文化の建設については国民が個人的に所有する資本の経済活動に委ねるという社会です。

 経済成長をさせようとして供給側重視の政策(サプライサイド政策)を行っても経済成長させることは出来ず、需要側重視の政策(デマンドサイド政策)を行ってはじめて経済成長を達成することが出来るということを、これまでケインズ経済学の主旨として延々と述べて来ました。

 需要側(デマンドサイド)とは消費者のことですが、これは、つまり労働者のことです。需要側(デマンドサイド)重視とは、労働者にお金を分配することです。

 すなわち、これは税制や雇用において低所得者や貧困層に貨幣を持たせる所得再分配政策であり、俗にいう低所得者や貧困層へのバラマキ政策です。

 低所得者や貧困層への所得再分配(バラマキ)なき経済成長政策は必ず失敗します。逆に、経済成長を目的としなくても、所得再分配さえ行えば嫌が応にも経済成長します。

 私たちは、経済成長があろうと無かろうと、すなわち経済成長理論の論争を二の次にして、まず最初に、低所得者や貧困層への所得再分配の(バラマキ)みを訴えて何ら差支えありません。ゴールは同じだからです。

 低所得者や貧困層への所得再分配を行うと嫌が応にも経済成長するのですが、供給側(サプライサイド)の投資家と債権者を優遇することで経済成長出来ると頑迷に主張する輩が跋扈する現在の日本のような現状に至っては私たち社会主義的精神をもって、経済成長など後回しで良いと言うばかりです。

 特に、政治においては所得再分配の方が経済成長よりはるかに重要な政治的テーマであるべきなのです。

 国民国家であるからには、その責務は所得再分配以外にあり得ず、所得再分配より経済成長を優先するものに対しては「低所得者減税や貧困層雇用し、低所得者や貧困層所得再分配(バラマキ)政策をしないような国家に存在する意味はない」と訴えなければなりません。

 ケインズは、制度的枠組みを構築して、それをもって、法的永続的に低所得者や貧困層にお金を配り続け、国民が政府を信頼することが経済成長させる方法であり、逆に、富裕層にお金を持たせれば、経済は停滞し、社会は不況となると言っています。それは、このブログの中で一貫して説明して来たケインズ理論そのものです。

 日本におけるケインズ革命は、消費税の廃止建物および機械にかかる固定資産税の廃止・社会保険料の廃止を制度的枠組みの改革の中心として、国の体制としなければなりません。

 

 

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