謎多き剣客、「斎藤一」。 | 零細企業の闘魂日記

【維新後も生き延びて警視庁に入り西南戦争に参戦した凄腕の剣客“斎藤一”】
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斎藤は天保15年(1844)、播磨国明石藩足軽の子として、江戸で生まれている。父は後に御家人株を買って幕府直参という立場になる。父の伝手によって、会津藩の江戸屋敷に出入りしていた斎藤は、その道場で小野派一刀流無外流といった剣法を学んだ。この頃から、斎藤は会津藩と深い絆を持っていた。この時代に、市ヶ谷の試衛館にも出入りするようになり、近藤勇土方歳三らと親しくなった。』
 
『斎藤の本領は密偵としての仕事であった。隊内にいる長州藩などのスパイを見つけ出し粛清する仕事も、斎藤は普通にこなした。こうした働きをする斎藤は、近藤からの信頼も篤かった。実はこれより後のことになるが、斎藤はこの本名の他に「山口二郎」「一瀬伝八」「藤田五郎」などの別名を持つことになる。』
 
『胃潰瘍を病んだ斎藤は、大正4年(1915)9月28日、臨終を迎える。座布団の上に正座した斎藤は、床の間に向かって座禅を組んだまま死亡した。維新後は、新選組について一切語らないままであった。斎藤一、享年72。』
 
 

私たちは故人に対して実像を知らず、記録、言い伝え、遺留品、間接的な証言、後世の物語を通じて印象を持つことになるが、新選組のなかで最も興味深く、不思議な魅力を感じるのが斎藤一である。
 
赤間倭子著の『新選組・斎藤一の謎』は、多くの取材から斎藤一に迫っており、特に、剣術の流派について、子孫が伝え聞いている「一刀流」ではなく「無外流」ではなかったか、と推測するあたりはまるで推理小説のようである(ただし事実は分からない)。
 
斎藤一自身も生前に「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです」と語っており、流派を思わせる言葉はなく無我夢中であることを述べている。
 
また、同じく大正4年まで生きた永倉新八は新選組に在籍中、「斎藤一とはあまり喋らなかった」とのことだが、永倉も明治20年頃から明治32年頃まで東京に住んでいた。
住所は斎藤の近くだが、二人に交流はあったのかどうか…?