昆陽神社と秋葉神社-京成幕張駅近くの2つの神社 | それでも僕等は

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2月12日日曜日は地元の「松楽」で昼食を喰おうと思い、
京成幕張駅近くのその店に行ってみたが、
予定していた店は既に閉店していて、
後に建っていた「麺屋よじむ・幕張店」で鶏白湯を喰った。

その帰り、食後の腹ごなしを兼ねて、
折角ここまで来たので昆陽神社を参拝することにした。



先ずは「青木昆陽甘藷試作地」に行く。
ここは中には入れず、外から見るだけである。

解説板には以下のように書かれていた。

   千葉県指定史跡 青木昆陽甘藷試作地

          所在地 千葉市花見川区幕張町4丁目598番1
          指定日 昭和29年12月21日

  この地は、享保20年(1735)八代将軍吉宗の命により、
 青木昆陽が薩摩芋を試験栽培し、成功したところです。
 昆陽は江戸日本橋の魚商の子で本名を文蔵と称し、
 京都で儒学を伊藤東涯に学びました。
 江戸に帰ったのち町奉行大岡越前守に抜擢され、
 幕府書物方に登用され古文書調査・蘭学に励む一方
 「藩薯考」を著し甘藷栽培を説き、
 救荒食として飢饉に備えるよう吉宗に上書し認められました。
 甘藷は小石川養生園(現植物園)、下総馬加村(現在地)、
 上総豊海(九十九里町)で試作されましたが、
 現在地のみが成功しました。
  甘藷栽培を紹介した人は昆陽以前にもいましたが、
 関東地方に広めたのは昆陽が最初であり、
 幕府の事業として実施したため全国に影響を与えました。
 その後幕張における甘藷栽培は次第に増え、
 天明の大飢饉にも甘藷のおかげで餓死者は皆無であったと伝えています。
 天保年間(1830~40)には、
 検見川で甘藷から飴も製造されるようになりました。

    平成9年3月
       千葉市教育委員会

道を挟んだ反対側には昆陽神社と秋葉神社がある。
以前は鬱蒼とした場所小さな祠があるだけであった。
しかし総武線、総武快速線、京成千葉線を跨ぐ大踏切が、
開かずの踏切として地元でも有名で、
その解決策として自動車道を地下化することが計画され、
昆陽神社も幕張昆陽隧道の完成と共に整備された。
昆陽神社と秋葉神社も参拝した。



秋葉神社お社。



秋葉神社鳥居。



お社の社殿名表示。

  秋葉神社由緒

 【祭神】 火之迦具土大神 ひのかぐつちのおおみかみ

 記紀にも見られるように人間の生命、生活に欠くことの出来ない「火」の神様。
 御神徳は火の幸の恵、悪火を鎮め、諸厄諸病を祓い除く。
 火災をはじめ盗難除、百災消除、延命長寿、火防開運の神として祀られている。

 【由来】

 建立は不明。通称権現様。古来よりの地名に権現山、権現町と称し、
 親しまれた名残がある享保年間に信仰の厚い氏子より土地を寄贈され、現在の地に移る。
 江戸時代、境内地に昆陽神社を傍に据える。
 千葉市美浜長作線の計画により一時移転。
 道路開通後、昆陽神社と共に新社殿を運営。
 平成十八年十一月、遷座。



昆陽神社お社。



昆陽神社鳥居。



お社の社殿名表示。

  昆陽神社由緒

 【祭神】 青木昆陽 あおきこんよう

 江戸時代の蘭学者、甘藷栽培の普及につとめた。
 昆陽は八代将軍吉宗に仕え、享保の大飢饉(一七三三から三四)の翌年、
 江戸小石川の薬草園に甘藷を栽培、
 数ヶ所で試作し、成功したのが馬加(幕張)村だった。
 その後、幕府により各地に甘藷栽培が広まる。
 以後、全国の何万人という人々を飢餓から救った。

 【由来】

 青木昆陽没後、天明の飢饉が起きた。
 甘藷栽培を始めて約四十年後のことで、
 馬加村ではこの大飢饉にもかかわらず、
 一人の餓死者も出さなかったといわれている。
 そして、昆陽は「芋神さま」として敬われ、
 弘化三年(一八四六)秋葉神社境内に祀られた。
 
 ※出典/境内に設置された由緒の掲示より転載

先祖代々この地に住んでいる一人として、
青木昆陽がいなければもしかしたらこの世に誕生していなかったかもしれず、
感謝の意は持ち続けたいと思う。