この記事は、上の記事の続きです。
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2021年、大晦日のこと。
オランダは、クリスマスを25,26日に祝いますが、そのあとは暦通りなので、いつものように31日も保育園に次男を送りました。
あの一件があって以来、先生や保育園から特に何の報告もなかったので、もしかしてミシェル先生は辞めてしまったのだろうか、と思っていたのですが。
2021年の最終日に息子のグループの部屋にいました。しかし、私がくるなりそそくさとあちらへ行ってしまいました。
私の中ではいまだにわだかまりがあり、その日に息子の世話をしていただくのならば、なおさら本人と話したいと思いました。
いつもの先生にお願いし、個室で立ち話をすることになりました。ミシェル先生の希望で第三者の立ち会いのもと3人でした。
話を切り出したのは、ミシェル先生でした。
「本当に彼の目がきれいだと思って言っただけで、いじわるな意味は一切ありません」
と彼女は胸に手を当てて言いました。
私は、演出目的で(笑)、少し声を大きくし、
「きれいな目だと伝えるために、ジェスチャーをする必要はないと思います。私はあなたの目がきれいだと思うけれど、<手で目を大きく見開かせながら>こんなふうにしながら”あなたの目はきれい”とは伝えませんよ」
と言いました。
すると、ミシェル先生も、立ち会いの先生も、あのジェスチャーがよくないものだと全く知らなかった、というのです。
その点については、「え?え?嘘でしょ」って言いたくなりましたが、知らないことを責めることは誰に対してもできません。
そんなこんなで話の決め手になったのは、以下の3つでした。
1. ごめんなさい、と素直に謝ってくれたこと。
→ ちょっとやそっとのことじゃ謝らないオランダ人が非を認めてくれました。
2. 私はミスをしたんだ、という言葉。
→ 誰でもミスは犯しますよね。チャンスをください、という言葉でした。
3. (私に対して)あなたは自分を好きになり、あなた自身を受け入れてください、という言葉。
→ これは私に向けられた言葉でした。
特に響いたのは3でした。
話の流れから、彼女に見破られてしまったのか。立ち合いの先生も「よく言いましたね」って彼女の発言を褒めてました。
「私は自分を認めていないし、アジア人の顔にコンプレックスを抱えているから彼女の言動がひっかかったんだ」
と気づきました。
これは自分の中で「差別意識を生んでいたもの」、の正体なんですよね。
「顔面偏差値の低い、高い」などと表現されることもありますが、本当にいわゆる「整った顔立ち」の人が西洋人、中東人には多くみられます。
バサバサのまつ毛。
ビー玉のような目。
シュッとした鼻筋。
わさっとまとめただけでサマになる髪。
いつまでも見ていられそうなお顔立ちに囲まれて日々過ごしています。
本来、「美」にはいろんな価値観や基準があるはず。
「美しい」と感じる絵は人それぞれ。
「美しい」と感じる花も人それぞれ。
漫画、テレビ番組、本、親、友達、などなど、私を囲んで来たものたちすべてが私の「美の基準」を作ってきたのですが、
「これが”美”で。これは”美”じゃない」
いつの間にか、かなり偏った”美”ができあがってしまっていた。そして、残ったものは、ズタズタになった自尊心だったようです。
私が自分のことや、息子のことを愛し、自信を持てていれば、誰に何を言われようと、
「まあ、そんな風に考えるひともいるよね」
って笑って済ませることができることだったのかもしれません。
話しているうちに、私たち3人涙、なみだ。
コロナルールでハグや握手は禁止されているのですが、最後はハグして
「これで新しい2022年を迎えられるね」
という感じで締めくくりました。
*こちらでの学校や保育園の先生は、「先生」というより友達のような距離感でまだ慣れません・・・
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このブログのサブタイトルにもある、
「自己肯定感(セルフエスティーム)を高めていけること」
を大事にしているのですが、なかなか私の自己肯定感育っていない、と感じる出来事でした。
新年の抱負は、「自己肯定感を育てること」にすべきでしょうかね。