八代亜紀さんのことは… |  ふと、思うこと…

 ふと、思うこと…

      by Ameba

亜紀さんの訃報を聞いてから、

数日経ちますが、まだ

涙がこみ上げそうにそうになる時が多いです。

心から ご冥福を お祈りしてる毎日です。

亜紀さんとは 作品の数は

そんなに多くないのですが

思い出は多すぎます。

初めてお会いしたのは銀座にある

スタジオ「音響ハウス」でした。

僕の恩人で恩師で、そして名付け親の

浜圭介先生に連れられて行ったのですが

その時は、テイチクから独立して

自分たちのレコード会社を

創るかもしれない(実際そうだったのですが)

今日、ここでレコーディングしてるらしい…

そんな情報がもれて、スクープしようと

すごい数の報道陣が スタジオ取り囲んで

ロビーの中まで カメラ構えた人がいっぱい

まだ、水木れいじになって 3ヶ月の僕は

声も出ませんでした。

声も出なかったといえば もうひとつ、

雲の上の人…

ずっと憧れて 大好きだった人。

僕にとって そのレコーディングは

初めての大スターへの作品提供でした。

今にしてみれば、同い年だったのに…

吸い込まれるような瞳で

亜紀さんは言いました。

「ボクちゃんが水木れいじ君?

 作詞家になるんだって?

 この詩、

 フォークでもなく 歌謡曲でもなく

 とっても素敵!

 大好きよ!!亜紀ちゃんはネ。

 がんばるのよ!ボクちゃん」でした。

その作品は、

浜先生のメロディーの素晴らしさ

亜紀さんの黄金期の声と表現力で

名曲中の名曲として仕上がりました。

せつない別れの女心…

今、聴き直しても泣けます。

でも、

新会社立ち上げの第一回新譜としては

あまりに哀し過ぎる!という

八代チームの決断で

その時の亜紀さんの心情 そのままを歌った

『あなたと生きる』が

第一回新譜になりました。

この(お蔵入りになった)作品の

完パケのマスターテープは

おそらく、事務所のどこかに

保管されてると思います。

いつか発売して、皆さんに

31歳の時の 亜紀さんの名唱を

聴いて頂きたと願っています!

 

当時 僕の家が目黒区の中根

亜紀さんの家は 八雲。

歩いて5分くらいの近さだったので

亜紀さんの可愛いすぎる思い出は

数えきれまれません。

また機会があれば

お話しするかも…です。

ありがとう!亜紀さん 合掌