多くの時間を掛けて苦労して信頼は積み上げるものですが、それを失うのは瞬間です。
砂上に作る楼閣のように、その姿は儚いものと感じることが時に起ります。
さて、レイキを愛する我々はどこまでレイキに対して信頼をお持ちでしょうか?
その逆は疑念ですが、心の中を覗くと内側にはその両面が内在していることに気づきます。
よく、レイキセミナーでは信じる信じないに関わらず効果があります・・・とテキストに書き込みます。
それを見て、そうかレイキは信じなくてもいいんだと考えている方が多くいるのではないでしょうか?
「レイキは宗教ではありません」を強調したい言葉として関連説明する時もありますが、本来は臼井先生の公開伝授で語られた言葉から引用しているわけです。
臼井先生は臼井靈氣療法は信じなければ病気は治りませんか?の問いに対して、例えば幼児や重病患者の如く意識の欠ける人にも充分の効果があります、と答えられました。
この部分の引用なのです、靈氣療法を最初から信用して来る人は十人に一人あるかなしかで、多くは一度治療を受け、初めてその効果を知り俄かに信頼の念が起るのです。
つまり、靈氣療法を受ける方に安心して受けていただきたいための優しい配慮がなされています。
では、そのレイキを提供する立場(靈氣の霊能者)はどうかといえば、指導の側の教えに信じなくていいということはありません、むしろ靈氣に対して確信と真心なき療法は受け手に対し不安と疑念を与えてしまうので、充分な靈氣効果を身につけてるように靈氣の指導を厳しくされていました、それは正しくこころを育てる修養練磨の指導なのです。
こころが癒されることはヒーラーのエネルギーにも関係してくるのです。
今日の靈氣療法に関わるものがレイキに対して信頼が無いでは、こころを込めた指導することは決して出来ません。
私は過去にレイキを頭で考えていた時代を経験しているのですが、頭で理解したと思い込んでいたレイキ知識は現実にクライアントに遭遇したとき、恥ずかしい話ですが何も役にたたず混乱したことがありました。
膿みだらけの足に直接にレイキ療法することは、理屈ではなく、その足に触れることで起る奇跡は誰も教えてはいただけないものです。
100の理屈を聞いても1つの経験にはかないません昔の教えは「虚心坦懐」の境地でこころを無にして、学んだことを脇に置き、ひたすらレイキを信じて、実践することです。
レイキはこころで学べの精神です、慈愛のこころが大切です。
レイキは自分に都合の良いことばかりは起りません、楽するだけが幸せではありません、時として苦しみの現実を受け入れ、それを学び次なる成長のために学ぶこともあります。
貴方の苦しみは人の痛みが分かる経験からの贈り物です。
だから、人はなんでも自分に都合の良いことを願うようですが、生きる道に苦は付いて周るものです。
それも受け入れて自己成長していくことも、レイキの世界を広げるという大切な一時でもあるのではないでしょうか、この尊い経験がレイキヒーラーの人格を広めてくれる重要な課程でもあることを信じてみたいと思うのです。
人は自分の都合でレイキに疑念を持つものがいますが、レイキは我々を裏切ることもなく、無条件に愛を与えてくれる大いなる存在です。
レイドウレイキはこう考えます。
「信頼は恩恵の期待に関係し、疑念は悪意の期待に関係している。」と・・・・
レイキは大いなる信頼そのものなのです。