かなり幽遊白書のことしか書いてません以下
幽遊白書が好きな人だけどぞー
幽遊白書において、妖怪は人肉食(魂を食べる妖怪もいる)を行うと考えられる箇所が多くある。また、肉食や不道徳を行う人間や妖怪はあまりかっこよくなく、またマッチョであったり、過度に男性的もしくは肥満体型に描かれることが多い。また主要キャラクタ、幽助の味方になる妖怪キャラクタは肉食を行わないものが多いようである。
幽助と深い関わりを持つことになる妖怪キャラクタには、蔵馬、飛影、雪菜がいるがそれぞれ人間を食うという描写は見られない。特に植物を操る能力を持つ蔵馬については重要な意味を示唆している可能性が高いと考えるので後述する。
幽遊白書で最初に妖怪が出てきたのは、桑原のネコを人質に取った不良集団のボスの中に入っていた小さな妖怪「邪鬼」であるが、割愛←。
その後出てきた、飛影、剛鬼、蔵馬の三妖怪(蔵馬は厳密な意味で妖怪ではない)は、初期に悪役キャラクタで描かれていたが、蔵馬は、母親を救うという理由のために霊界から暗黒鏡を盗み出している。また飛影が霊界から「降魔の剣」を盗んだ理由は人間を食うためではなく、こうある。
「オレ以外の高等妖怪などこれだから信用できんやはりオレがこの剣で創り出すしかないだろうなオレの命令だけを守りオレの欲する物を手に入れるためだけに行動する妖怪集団を」 『幽遊白書3巻』 P.109より
これは元魔界の盗賊であった飛影が盗賊集団を再度作ろうとしているとも解釈できる。いずれにせよ飛影が人を喰う妖怪であるような場面は作中みられない。
剛鬼であるが、これが人肉食を行う「醜い」「むきむき」妖怪として描かれている最初のキャラクタである。厳密には人肉食ではなく、魂を食う「吸魂鬼」として描かれている。が幽助との戦いにおいて窮地に立たされた幽助を物理的に食らおうとして「食欲をそそる」とも述べているので、これはここで述べる肉食妖怪というものに含めて考えようと思う。
一般的に「マッチョ」「むきむき」「過度に男性的」または「肥満体型」のキャラクタは幽遊白書に限らず冨樫義博作品において、無残な敗北や、死、雑魚的キャラとして描かれる傾向にある。それは冨樫義博が実際そのような肉肉しい男性を嫌う、肉食的なもの、男性的なものをあまり好まない、そういう好みだと考えることが出来るのではないか。
そこで、肉食、人肉食、老いは醜いのか?というテーマが重用な問題提起として物語が後半にさしかかるにつれ多く表現されるようになる。
さて、4巻に登場する「四聖獣」編で描かれる、雑魚キャラの腐餓鬼は「好物は人間」と明記される。(幽遊白書4巻P.147)四人の妖怪、玄武、白虎、青龍、朱雀のうち、蔵馬と戦うことになる玄武は
「バラの香りで洗われたこの部屋で貴方の妖気はひどく臭う」(同P.179)
とあり、同じく人間を食っていると考えられる(肉食は臭うと幽助が物語中語る)。次に登場する白虎は、登場してすぐ、
「ただでさえ辛気臭え魔界の城に閉じ込められてうめぇ人肉にもありつけず イライラしてるってのに(中略)いいか!!ゴミどもてめェら人間は全部オレ様のエサだ!!飛影!! 蔵馬!!おのれらは切りきざんで腐餓鬼どものエサにしてくれるわ」(『幽遊白書第五巻』P.12-13)
とあり、人間を食う妖怪であることが明らかである。青龍であるが、人間を食うと考えられるいう直接の描写は無いが、最後のボスキャラクタである朱雀は幽助が追い詰められたとき、
「雪村螢子の心臓を喰うと誓え!!そうすればお前の魂を魔界で浄化し妖怪にしてやってもいいぞ」
とあり四聖獣全てが霊界によって隔離されている理由は人肉食を行うからであると結論付けることができよう。これは根拠に乏しい推測であるが、青龍は強いキャラクタで格好良く描かれているため(飛影によって瞬殺されるわけであるが)キャラクタ固有の能力とキャラクタの性格には何らかの相関が冨樫義博の中であり、「氷」はクールなキャラクタの象徴なのかもしれない。(雪菜、凍矢、青龍)
第6巻で登場する、垂金権造に至っては金、富、権力残忍な人間の象徴であるような、醜いキャラクタの象徴である。彼は美しい氷女である雪菜の涙、氷泪石を集めるために雪菜を監禁している。ここで重要なキャラクタ、戸愚呂兄弟が登場する。監禁されて結界の中から出ることの出来ない雪菜の元に集う小鳥を戸愚呂兄は殺し、それに対して雪菜は酷く悲しみ、氷泪石を多く流す。
「よし、明日からお前のエサは全部 鳥の丸焼きじゃ」
と垂金は雪菜に言う。この言葉から推測されるのは雪菜は肉食ではないということである。(戸愚呂弟は直後鳥を食う描写がある)
妖怪はどうやら肉を食うことで強くなるようだ。第7巻読みきり作品TWO SHOTSで飛影と蔵馬が初めて出会うきっかけとなる妖怪八つ手も人間、妖怪を食う妖怪として描かれる。
暗黒武術界に話を飛ばす。魔性使いチームとの戦いにおいて、蔵馬の戦うこととなった化粧使い画魔であるが、彼は自分の血を化粧に使うことにより戦闘力を高めたり、相手を束縛したりする。植物を扱う蔵馬と自身の血(肉)を扱う画魔とは対比されて描かれているのではないだろうか?ここで蔵馬は画魔の「血」によって手足を拘束される。しかしながら、植物を操る蔵馬は、
「悪いな 使えるのは手足だけじゃない」
と髪の毛に仕込んだ薔薇により、画魔に決定的ダメージを与える。(戦闘の粧とはいえ)化粧をほどこした画魔よりも蔵馬があまりにも美しく描かれているのは意図的と言えるかもしれない。画魔は自身の血肉を使い蔵馬に決定的な呪縛を施し結局は死に至る。そしてその呪縛のために次の戦闘、凍矢との戦いで蔵馬は妖力を使うことができないが、自身の体にシマネキ草を植え付けそれを武器とすることにし窮地を乗り切り凍矢に勝利する。自身の体に植物を植え付けることにより、蔵馬は画魔の血肉の呪縛から逃れて凍矢に勝利するのだ。これは、冨樫義博による血肉の否定と同時に植物の肯定であると考えられる。実際直後、登場する「汗」を能力とするむきむき肉肉で考え方も醜く描かれる爆拳に蔵馬はサンドバッグにされる。植物による自己犠牲を行った蔵馬に対する「汗」使いの爆拳は対極的な意図的対比だと私は考える。(爆拳は魔性使いチームの中で最弱だと思われる(途中の陣とのやり取りからも)。とにかく幽助によってぼこぼこにされてあっけなく終わる)
植物をあやつる蔵馬は肉食や悪に対する重用なコンテクストである。蔵馬の自己犠牲は初期登場のとき暗黒鏡により母を助ける行為にもあらわれている。その後自身の体にシマネキ草を植え付ける行為、その後の鴉戦においても、自身の生命力を使い人間の姿のまま魔界の吸血植物を召還するという行為にもあらわれている。これは「植物」を扱うという能力と蔵馬の美しい(美しく描かれる)外見と肉肉しいものもしくは肉食性の否定を暗に示唆していると考える。
さて幽遊白書を語る上で重要な戸愚呂兄弟と幻海師範の話である。戸愚呂と幻海の対比は何を表しているのだろうか?私は「老い」という問題だと考える。人間はいつか朽ちるものであるが、それへの恐れ、それから逃げた戸愚呂兄弟と老いを受け入れた幻海を通して、「老い」について我々に考えさせる。結論から言うと戸愚呂弟は「老い」を否定し強さを求め妖怪に転生し永遠の命を手に入れるのであるが、老いを受け入れた幻海の弟子である幽助に負ける。
幻海と戸愚呂の対比に現れる複線として老が醜いのか?という重用な問題提起をする場面が戸愚呂と幻海が戦う直前の裏御伽チーム戦である。死々若丸戦において死々若丸は「その姿今のお前なら・・・ほれてたかもな・・・」と言い、自信の霊力を全く使わなかった幻海に負ける(ちなみに死々若丸はイケメンである←)。幻海は実際老いているのだが、観戦していた戸愚呂いわく、「対妖気の技術戦で幻海を倒すのは至難 やつをくだくのは技を越える限りない力(パワー)!!」とある。ここでの戦闘は老いは必ずしも醜くないという提起なのではないかと考える。死々若丸という名前にも「若」という言葉が含まれるが老いた幻海に負けるのである。
続いて、美しい魔闘家鈴木戦であるが、これもあからさまにこれに老いは醜いと鈴木に言わせている。
「私は老人に変装したわけは
年寄りは私の最も嫌いな生き物だからだ
最も嫌いなものに化けることで 自らの闘争心を さらに高めたのだ
老いは醜い!もはやこれは罪だ」(幽遊白書第10巻、「千の顔を持つ男!!」P.106)
これは道化としての鈴木というキャラクタの作品内で演じているキャラクタだと考えることも出来る(後に出てくる鈴木の誠実なキャラクタ描写からはそう考えられるだろうか)が、鈴木という派手なキャラクタを使っての作者の大きな問題提起だろう(そして鈴木はすっぴんはイケメンである←)。しかしながら、結果、美しい魔闘家鈴木はまた自身の霊力を全く使わなかった幻海に拳のみでぼこぼこにされて負ける。これはまた老いは醜くないという作者の問題提起ではないかと考える。化粧をした美しさの否定は画魔の描写にも感じ取ることが出来る。
その後先述べたとおり、戸愚呂は50年ぶりに暗黒武術会で老いを受け入れた幻海と再会し、戦い、挙句幻海を殺す。武闘家である二人にとって戦いによって決着をつけるというのは至極当然の行為なのだろう。
『幽遊白書第10巻』 P.157~
「いや・・・・・・もはや我慢できないと言った方が正直だな
老いたお前をこれ以上 見ていたくない」
(ほんとに変わってないよ あんたの頭の中は戦いだらけだ)
回想
(オレもお前も今が強さの最盛期だろうな
時が止まればいいと最近よく思う
オレは怖いんだ
オレ達より強いヤツが現れることが怖いんじゃない
そんな奴が現れたとき自分の肉体がおとろえていたらと思うと怖いのだ
口惜しいのだ
人間とは不便なものだな)
(あんたが年をとればあたしも年をとる
それでいいじゃないか)
「あたしも我慢ならないね
魂を売ってまでつかのまの強さにすがりついたあんたに!!」
中略
「力が欲しい・・・!!」
「戸愚呂(あいつ)とは全く違う力を
あたしは死んでもいい
せめて・・・
戸愚呂(あいつ)の目をさますことができるだけの力を・・・・・・!!」
(血しぶき)
幽助登場
「戸愚呂の目をさますことができるだけの力」というのは幽助なのである(霊光波動拳は実際に幽助に渡されている)。戸愚呂は最終的に弟子である新しい力、幽助に負けるのである。これは老いを受け入れた幻海が正しかったという、また言い換えれば仮に老いが醜かったとしても老いるということは生きる上で受け入れなくてはならないことで、それを否定することは出来ないと作者は言いたかったのかもしれない。
戸愚呂兄弟はもともと人間であった。戸愚呂は格闘家であった。暗黒武術会が終わったのち、コエンマに対してコエンマの秘書的女性(後に恋人であるかのような描写が出てくる)が、報告をする。
秘書「コエンマ様のいわれる通りでした 戸愚呂が妖怪に転生するきっかけとなった事件が50年前にありました
その時の武術会が始まる三か月ほど前に
戸愚呂の目の前で彼の弟子全てと格闘仲間が一人妖怪に殺されています
やったのは潰煉 当時の武術会優勝候補ナンバーワンの妖怪です
戸愚呂に”ゲスト”で出場することを告げるついでとでもいうように弟子達を次々と殺して喰ったようですね
その時戸愚呂は潰煉に完璧にやられて立つことすらできない状態だった」
コエンマ「それまでの戸愚呂は自分が一番強いという自信があった
しかしそのとき全てを失った」
秘書「おっしゃる通りです
そして彼はそれから三か月間完全に消息を絶ちます
武術会前日幻海ら他のゲストの前に姿を現した戸愚呂
心の中には既に鬼が棲んでいたようです
潰煉はその大会の決勝で戸愚呂に殺されてます
そして優勝した戸愚呂の望みが妖怪に転じること・・・
私には全く理解ができません
彼の行動は論理的に矛盾だらけです」
コエンマ「たとえ優勝して敵を討っても自分自身の中で罪の意識が消えなかったのだろうな
それからのヤツの人生は償いというより拷問だ
強さを求めると自分を偽って・・・
全く不器用な男だ」(幽遊白書第13巻P51-53)
戸愚呂は醜くは描かれていないともいえるが、いわゆるむきむきマッチョ男の最たるキャラクタとして描かれているのもそれは生=肉(食)の象徴であるからである。戸愚呂兄弟は転生したあと、妖怪や人間を食う妖怪に転生したと以下のシーンから考えられる。
観客妖怪「戸愚呂の妖気で死んだ奴らの死体が!? 戸愚呂に吸い込まれていく!! く 喰ってやがるんだ」
戸愚呂「言い忘れたが100%のオレはひどくハラがへる
弱いものからどんどん喰う 気を吸いとりながらな
この会場のエサを喰い尽くすのに20分とかかるまい
ぼんやりしてていいのかね?
お友達も応援に来てるんだろ?」(幽遊白書第12巻P.130より
戸愚呂弟は50年前に仲間と弟子を妖怪に無残に喰い殺されたのであるが、復讐を果たし、今度は自身が同じ人間を食う妖怪に転生したのである。戸愚呂は幽助に敗れ、死んでもなお「あらゆる苦痛を一万年かけて与えつづけそれを一万回繰り返す その後に待っているのは完全な”無”だ」という地獄への道をコエンマに希望する。これは戸愚呂が絶対的悪ではなく、戸愚呂の心の中にも複雑な思いがあったことを示している。戸愚呂は地獄へ向かうのだがそこで若い姿である幻海とやり取りをする(ここは最も美しいシーンだと思っている←)。
同時に妖怪に転生した戸愚呂兄であるが、彼が何故妖怪に転生したのかは明らかにされていない、また人間を喰う妖怪であったかどうかははっきりしない。がしかし、後の仙水編で、美食家(グルメ)との同一化を果たしているので何かしら肉食と戸愚呂兄の関係性に対する作者の意図が感じられる。「美食家」は人肉食を行うことにより喰った相手の能力を得るのであるが、戸愚呂兄はその体をのっとり、肉食を行っていたと推測される、そしてその後、蔵馬によって「死」にすら値しないと言われて永遠に寄生植物とともに生きることとなるのであるが、ここでも他人を喰う「グルメ」と同一化した戸愚呂兄への罰によって、はっきりと(植物を操る蔵馬による)肉食の否定が見られる。
疲れてきたので簡潔に
仙水編であるが、元エリート霊界探偵人間のために尽くし妖怪は絶対的悪だとした仙水はある任務を遂行中に、「人間の酷悪の極みといえる営み」に出会う。見開きで幽遊白書全体を通して一番グロテスクだと思われる描写が出てくるのであるが、約75%は人間による妖怪の虐殺、鎖でつながれた妖怪が釣るされ裸の人間に槍や釘を刺されながら涙を流している、その下には妖怪の血が貯まっているプール、風呂のようなものでそこでくつろいでいる男性三人、刺のついた棺おけで釘ざしにされている妖怪、一つ目を釘ざしされて腹は腐って肋骨が見えている妖怪などなどである。これは屠殺場を思わせる。人間も妖怪に極悪な仕打ちをしていることもあるという場面に出会い仙水は狂う。仙水は魔界へのトンネルを開き人間を皆殺しにすると決めるに至るのである。作者は、ここでも肉や血について否定する。仙水のパートナーである樹は、仙水が狂うのを数年にわたり見届けた。樹という名前も植物的であるのも示唆深い。
また仙水は『幽遊白書第十五巻』P.179において
「あそこにむらがっているのはC級妖怪だな
食欲が先立って品性が感じられない
B級を境に
人間界でいうところの高い知性と理性を持つ妖怪に成長する」
と言っている、
また、
『幽遊白書第16巻』P.110において
「オレは花も木も虫も動物も好きなんだよ
嫌いなのは人間だけだ」
と言っている。
同P.172-173において
「気の究極は自然との融合だ
魔界の風は少々扱いづらいがな」
中略
「この美しい森をなるべく
傷つけたくない
あそこで勝負を決めようか」
と言っている。肉の否定である。仙水は人間であるし食事についての描写はないが仙水はもしかしたら肉を食べない人間なのかもしれない。(自身のことを天使だと言っている)
仙水は結局魔界で死ぬことが目的であったと幽助に敗れた後に語る。
「世の中に善と悪があると信じていたんだ
戦争もいい国と悪い国が戦っていると思ってた
可愛いだろ?
だが違ってた
オレが護ろうとしてたものさえクズだった
そんな生き物の血が流れているのが無性に憎くなったよ
いっそのこと魔界に生まれたかった
そう思ったら是が非にでもここに来たくなってね
もうオレに時間が ないと知ったとき
一気に はじけた
これてよかった
魔界トーナメント編であるが、ここでもあからさまに主題として人肉食が挙げられている。三人の魔界を支配できるほどの力を持つ妖怪の、人肉食(食べ物)に対する考え方の違いから魔界は三つ巴の状態になっている話を描いている。
蔵馬の植物性や肉肉しいものの否定については述べたが、ここで明らかになる黄泉の失明の原因(蔵馬による盗賊団からの黄泉の切り離し)は、もしかしたら食べ物(人肉食)が原因であったかもしれないという推論が成り立つ。
第18巻P.59より 黄泉は自身を振り返りこう語る
「当時のオレは 我が強く
単独行動も目立った
力を過信し 血の気も多く
何より頭が悪かった」
これは暗に食べ物のことを示唆しているのかもしれない。「血の気」というようにここでも「血」が出てくる、が、推論に過ぎない。
幽助の魔族の親である雷禅は人間の女との出会いが原因で数百年肉を絶っている。あーーーーーーー・・・・・・ハラへったな と言い最期を迎える。
躯(字が出ない)に関しては食事がどうであるかは不明だが、重要なコンテクストが一つある。それは昔奴隷商人痴皇という人物に玩具にされていたということだ(躯は女性であると思われる)。「生まれてすぐ腹を改蔵された」とあるように躯は性玩具として生まれ七歳まで痴皇の元で様々な身体改造や性的な虐待を経て生きた。垂金と似たような風貌のデブおっさんである。上述したような肉の典型のような人物である。躯はそれを心に大きな傷としてもっている。飛影は躯の誕生日に鉢に植わった植物をプレゼントする。その植物はヒトモドキという魔界の植物で、飛影が蔵馬から調達してもらった植物なのだが、
「宿主の体と完全に融合している 宿主が傷つけば本能的に治す
宿主の脳を破壊しない限り
半永久的に生き続けるそうだ
好きなだけ切り刻め
気が すめば 殺したらいい
ハッピーバースデイ」
と言い、このヒトモドキという植物に寄生されている奴隷商人痴皇の鉢をプレゼントする。
これは、肉人間(妖怪)の戸愚呂兄と同じような結末である。
ここでも肉、飽食、性の不道徳による、植物での否定が見られる。
幽遊白書の次の作品である
LEVEL Eにおいても、マーメイドのような風貌をする異星人を買い取る醜いデブおっさんが出てきて殺されるシーン、
もしくは、モロ同種喰いをテーマにした話も描かれている。
HUNTER×HUNTERにおいても今続いているキメラアント編は肉食をテーマにしているのはよく知られていることである。
結論よくわからん。いつか冨樫義博はヴェジタリアンだってどこかで見たのが影響しているのかも、少し考えすぎかな。
朝の11時くらいから書いた。推敲していないのであしからず。感想文程度に。
参考文献『幽遊白書1~19巻』だけ←