芥川龍之介の書いた西郷隆盛は死んでなかったという話。a | barsoのブログ

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 非業の最期を遂げた著名人がじつは死んでなかった、という話がある。
 キリスト青森県戸来へらい(≒へブライ)村移住説や源義経チンギス・カン説などが知られているが、CBSの調査によれば、自死した「エルヴィイス・ブレスリーが今も生きている」と米国民の7%(約2330万人)が信じているそうだ。

 維新の英傑・西郷隆盛も、じつは死なずに生きていたという説がある。
 通説では、西郷が城山の戦いで銃弾を受け、「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と切腹を覚悟すると、薩摩藩士の別府晋介が「御免なったもんし(お許しください)」と叫んで西郷を介錯したあと、自身は弾雨の中で自決したと思われている。
 しかしじつは西郷は生きていたという話は明治の頃に盛んにあり、現代でも宮澤正幸氏は「別府晋介が斬って埋めた首は、じつは西郷の影武者の首で、本物の西郷はハワイのオアフ島に渡って悠々と余生を送った。島の娘を娶ったが、その子孫こそフィアマル・ペニタニ、すなわち武蔵丸ではないか」と空想したそうだ。(註1)

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 芥川龍之介の短編小説『西郷隆盛』では、西郷の生死が扱われている。
 話は知的で、意外な方向に展開して、どんでん返しもあって面白いですよ。これが芥川25歳のときの作というのですから驚きます。

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 西郷隆盛―――芥川龍之介
 (あらすじ)
 大学生の本間が東京に帰る急行列車の食堂車にいたとき、酔いが回っている老紳士から話しかけられた。
 本間が卒業論文は維新史の西南戦争について書くつもりですと話すと、老紳士は「歴史家はalmanac-makerにすぎない」と言って笑い出し、
あの西南戦争については綿密に調べたが、誤伝の多くは間違っている。君が他言しないなら一番大事な誤伝を教えよう、「西郷隆盛は城山の戦(たたかい)では死ななかった。西郷隆盛は今日(こんにち)までも生きています」と言った。
(※almanac-maker/アルマナックメーカーとは年鑑製作者という意味)
 本間は、この紳士は義経と鉄木真 テムジン とを同一人にする無邪気な田舎老人の一人かと思い、西郷の城山戦死説を引証も正確に、論理的かつ決定的に弁じたら、紳士はこう続けた。
「成程、ある仮定の上に立って云えば、君の説は正しいでしょう。しかし僕はあらゆる弁護を超越した、確かな実証を持っている。君はそれを何だと思いますか。それは西郷隆盛が僕と一しょ(一緒)に、今この汽車に乗っていると云う事です」
 本間がこの目で見なければ信じられないと言うと、では「南洲先生はもう眠ってしまったかも知れないが」、一つ前の一等室まで一緒に行こうとなった。
(※西郷隆盛の号は南洲で、本名は吉之助。明治以降は父と同じ隆盛と称した)

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 元の食堂車に戻ったとき、本間は思った――――あの特色のある眼もとや口もとは、そばへ寄るまでもなくよく見えた。それはどうしても、子供の時から見慣れている西郷隆盛の顔であった。
「どうですね。これでもまだ、君は城山戦死説を主張しますか」と、老紳士は赤くなった顔に、晴々とした微笑を浮べて、本間の答を促した。
…………
「君は今現に、南洲先生を眼のあたりに見ながら、しかもなお史料を信じたがっている。およそ歴史上の判断を下すに足るほど、正確な史料などと云うものは、どこにだってありはしないです。似ている人間は、天下にいくらもいます。右腕に古い刀創(かたなきず)があるとか何とか云うのも一人に限った事ではない」

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 いよいよどうにも口が出せなくなった本間は、そこで苦しまぎれに、子供らしい最後の反駁を試みた。
「しかし、そんなによく似ている人間がいるでしょうか」
「今君が向うで居眠りをしているのを見たでしょう。あの男なぞは、あんなによく西郷隆盛に似ているではないですか」
「ではあれは――あの人は何なんなのです」
「あれですか。あれは僕の友人ですよ。本職は医者で、傍(かたわ)ら南画を描く男ですが」と老紳士は大きな声で笑い出した。
「西郷隆盛ではないのですね
」  本間は真面目な声でこう云って、それから急に顔を赤らめた。今まで自分のつとめていた滑稽な役まわりが、この時忽然として新しい光に、照される事になったからである。
もし気に障(さわ)ったら、勘忍し給え。僕は君と話している中に、あんまり君が青年らしい正直な考を持っていたから、ちょいと悪戯をする気になったのです。しかしした事は悪戯でも、云った事は冗談ではない」

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 本間は「先生はスケプティックですね」と云った。
(※スケプティックとは懐疑主義者、あるいは新しい情報や主張に対して慎重な態度を持つ人という意味)
 じつは著名な教授である老紳士は鼻眼鏡の後(うしろ)から、始終何かに微笑を送っているような朗然とした眼で頷いた。
「僕はピルロンの弟子で沢山だ。我々は何も知らない、いやそう云う我々自身の事さえも知らない。まして西郷隆盛の生死をやです。だから、僕は歴史を書くにしても、嘘のない歴史なぞを書こうとは思わない。ただいかにもありそうな、美しい歴史さえ書ければ、それで満足する。とにかく僕はスケプティックで沢山だ。君はそう思わないですか」
(※ピルロンとは古代ギリシャのエリス出身の哲学者で史上最初の懐疑論者として知られる)
                  (大正六年十二月十五日)→ 青空文庫

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 懐疑主義者の老紳士は芥川自身がモデルなのでしょう。
 わたしは3つのことを思いました。
 1)美しそうな話や、世間の多数派や正統派の考えは常に正しいわけではなく、大手マスコミや政府・役所などの情報も怪しい場合がある。

 2)宗教やスピリチュアルに打ち込んでも、見えない世界のことは100パーセント知り得ないのだから、"美しい来世" があるとある程度信じることができ、まあまあ満足できているなら、それで良しとしてもいいかもしれない。

 3)イエスが死んでも生きていて「神様」とされていることとよく似ている
 イエスが復活した状況証拠なら沢山あって疑いようがないが、天で「神」になったというのは神学上の問題であり、人間(ローマ皇帝)が決めたことである。
(※すなわちイエスの死後300年以上経った西暦381年、テオドシウス帝が主宰したコンスタンティノープル公会議で「神とイエスと聖霊は神であり、一つである」とする『三位一体説(註2)』が公認され、キリスト教が国教とされた)
 以来、教会ではイエスは「子なる神」様とされ、はっきり言えば「父なる神」である唯一神ヤハウェ(エホバ)の代わりのように崇拝されている。

 しかし人間の教祖を"神様扱い"したり、教団の会長や役員を"神聖視"するのは、聖書的に言えば『十戒』の第一戒「汝、我の他に何ものをも神とすべからず」に違反する大罪です。(出エジプト記20:3)
 寄付や教団への奉仕を過度に要求しているなら、間違いなくインチキ宗教です。

 

 


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註1::西郷は自らの写真を残していない。上野の西郷像の除幕式に立ち会った西郷の妻イトが「うちの人はこげんおひとじゃなか」と言ったわけは、西郷は新政府樹立の立役者であり、陸軍大将・近衛都督を兼務したほどの英雄であり、普段から立ち振る舞いはきちんとしていたのに、こんな浴衣を着て犬を連れてのんびり散歩している姿だったので驚いたからだそうだ。

註2:『三位一体説(論)』とは神は父と子と聖霊なる三つの位格(ペルソナ)を持つ。すなわち父なる神と子なるイエスと聖霊とは各々完全に神であるが、三つの神があるのではなく、存在するのは一つの実体(スブスタンティア)であり、一つの神であるとする教理。
 しかしながら聖書の神は「唯一の神」であり、イエスもパウロもペテロも『三位一体説』など唱えたことがない。それを証明するかのように思える聖句はあるが、それを明確に否定する聖句も沢山ある。

《画像》
①左側はキヨッソーネによる最初の肖像画。顔の上半分が弟の西郷従道、下半分が大山巌とされる。
②文人画家の平野五岳による掛け軸。亡くなってから約10年後に描かれた。
③安政5年に西郷西郷吉之助(隆盛)、高杉晋作、平野次郎を手配した人相書き。
④維新の志士たちが長崎で政治学を教えていたフルベッキ博士を訪ねた時の写真。星印が西郷かもしれない。
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