『ある愛の詩』は、愛とは後悔しないこと、と言っている。 | barsoのブログ

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 ネットを見ていたら、1970年アメリカ映画『ある愛の詩/Love Story』の副題は日本語訳が間違っているというTwitterを見かけました。

 文体は識者が書いたようなんですが、数回読み返しても意味が理解できない箇所があったので検索してみたら、その文章はけっこう拡散されており、オリジナルはフランス文学者のT.U.氏と分かりました。[1]

 

 今回は、その
Twitterについての感想と、愛の示し方について考えた前編です。
 フランシス・レイの胸にしみる名曲を聴きながらどうぞ。[2]

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 この映画は観てないのですが、副題は劇中で語られる有名なセリフだそうです。
 ストーリーは、大富豪の息子がイタリア移民の貧しい娘と、父親から反対されても結婚しますが、娘に病魔が襲い、25歳の若さで亡くなります。
 訃報を聞いて駆け付けた父親は、病院の前で数年ぶりに会った息子に、「アイムソーリー」と言うのですが、息子の返事に注目してください。

 " I'm sorry…" 
 " Love・・・Love means never having to say you’re sorry. "


 赤字が映画の副題となっていて、『DeepL翻訳』では「愛とは決して『ごめんなさい』と言わなくていいということ」と訳されます。
 ところが配給会社は「愛とは決して後悔しないこと」と訳していて、T.U.氏はその和訳に異論を唱えているのです。(以下、カッコ内と下線はバーソ補足)

「もし、あなた(父親)が私(息子)を愛していたのであれば、あとになって『すまぬ』などと言うような行為をするはずがない。つまり、あなたは息子である私を昔もいまも愛してなどいないのである」という、これは絶縁の言葉なのである。

 T.U.氏は『DeepL翻訳』と同様に、要は「愛は決して「すまない」と言わないこと」の意だと解釈し、だから「私(息子)」は父親の愛の欠如を責めている、と言っています。

「愛」というのは、あとで「ごめん」といわねばならないような仕儀に立ち入らないように、一瞬たりとも気を緩めないほどにはりつめた対人関係のことである、ということを私はこのとき学んで、「おおお」と目からウロコを落としたのである。

 T.U.氏は、要は《あとで「ごめん」と謝るなら愛ではない。愛とは24時間フルの緊張感を持って相手のことを考えることだ》と言って、さらにそう理解したことを「おおお」「目からウロコを落とした」と表現するほど新しい考えだと思ったようです。
 しかし、これはちょっと納得できないですね。それでは愛は責務感となって年中ピリピリしていなければなりません。それより愛は相手に気遣いを示しながらも相手を信頼しているので、むしろ心は緩んでいるように思います。でもまあこれは考え方の違いですからいいとして、私が理解できなかったのはその続きの文章です。

「愛する」というのは「相手の努力で私が快適になる」ような人間関係のことではなく、「私の努力で相手が快適になる」ような人間関係のことなのである

 ここまでは父子間に愛がない原因は、「相手」すなわち父親が悪いとしていたのですが、この結論部分では努力をしなかった「私」の努力が足りない、すなわち息子が悪いと言っているようなので、おや、これは矛盾だと思って理解できなかったのです。
 そこで検索で見つけた全文を見たら、前半ではクリスマスのデートで《女の子にモテたいなら、《自分がしてほしいことを相手(女友達)にもしてあげればいい》という話をしていました。
 つまり「」という人称代名詞が、映画では「息子」の意だったのに、ここでは前半を受けて一般論の「私」すなわち「自分」の意に変わっているのですが、ネットでは文脈の説明なしに文章の一部だけを抜いて載せているせいと、作者が一行空けるといった工夫をしてないために私は勘違いしてしまったのです。[3]

 

 それにしても、T.U.氏の論じている「自分がしてほしいことは相手にも・・・」の話は特別な考えかといえば、それは二千年前に言われていることで別に目新しいことではありません。
 イエスは人々に、「何事も、自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい」と勧めていて、これをゴールデンルール(黄金律)と言います。(マタイ7:12)
 人は誰でも自分にしてもらいたいことは分かるので、人が困っているときは見て見ぬふりをしないで、積極的にそれを行ないなさいということでしょう。

 辛口の批評で知られるバーナード・ショーは、「別の人にしてもらいたいと思うことは人にしてはならない。人の好みというのは同じではないからである」と述べています。なるほど、こちらは好意で相手に愛情表現を示したつもりでも、相手がそれを好きでない場合は、かえって嫌われる原因になりかねないのですね。

 黄金律の派生として、白銀律(自分がされたくないことを人にしてはいけない)というものもあり、これは孔子の考えです。私は自分のモットーである「考え方や生き方は自由だ」を言うときは、「ただし、ひと様に迷惑を掛けない限り」を付加していますが、これと似たようなものです。
 また白金律(人があなたからしてもらいたいと思っていることを人にしなさい)というのもあり、これは相手の欲していることをしなさいということでしょうが、ただ、「何が欲しいですか」と相手にぶしつけに尋ねたりすると、固く辞退される場合もありそうです。

 というわけで今回は、「愛とは口だけでなく、行ないで示すこと。できれば相手の好きなことをすること」とまとめることにします。

 (じつはここから話は急展開して面白くなり、佳境に入っていくのですが、続きは次回にしますね)

 


《備考》――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
[1] 内田 樹(たつる)氏。1950年生まれ。東大文学部卒。フランス文学者、武道家、翻訳家、思想家。
 http://blog.tatsuru.com/2000/12/25_0000.html 

[2] 『ある愛の詩』の原作・脚本はエリック・シーガル。娘役はアリ・マッグロー(1939年生まれ)。息子役のライアン・オニール(1941年生まれ)については1973年アメリカ映画『ペーパー・ムーン』(いい映画です)の父親役で知ったのですが、この映画と同じ俳優だとは全然知らなかったですね。

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[3] 文章の一部をリツイートする場合は、読む者が誤解しないように要領よく引用してほしいものです。またメディアや活動家は、情報の一部を切り取って自己の主張に都合のいいように報道発信をすることがあるので、なるべく全文を読み、他の情報も調べてからその判断をしたいものです。
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