倉田百三『出家とその弟子』
この戯曲は、親鸞の教えを下敷きにした “信仰と救い” についての話ですが、
著者の意識が、仏教とキリスト教を超えて、精神世界へと大きく拡大しています。
今回は、地獄があっても人間は救われるのなら、
その根拠はあるのか?という疑問から始まります。
非常に面白いので、未読の方は一読を勧めますが、(→青空文庫)
時間のない方はバーソが引いた下線部の本文だけでもどうぞ。
_________________
●修行僧の一人が科学的思考に基づく当然の疑問を親鸞に訊ねる。
※釈尊はインドの釈迦。善導は浄土思想を確立した中国の僧。法然は鎌倉時代の僧で浄土宗の開祖。
以前教団に所属していた時、集会に来た新しい人から、救いの福音が本当じゃな
かったら補償してもらえるのですかと聞かれたことがある。信仰の生活は損得で
するものではない。それが正しいと思うから、そしてまた好きだからするのだが。
救いがないなら、死んだら終わりか、地獄に堕ちるかの二者択一。証拠があれば
信仰は要らない。信仰は、宇宙の善良さを素直に信じる心の上に成り立っている。
●
●親鸞最期のときに、救われた人は美しい死に方をするのかを述べる。
臨終の美しさは救いの証明ではないとの意味は、神仏を信じてもすべては順調に
いかない。病気にもなり、事故にも遭うという意味だ。人が何かの行動をすれば、
何かの結果が伴ってくる。高速道路で無茶をすれば事故死に遭うこともあり得る。
●
●親鸞は、救われる秘訣について説明する。
先日ノーベル賞を受賞した本庶佑博士のモットーは「好奇心と常識を疑うこと」。
固定的観念には縛られないほうがいいが、信仰とはもっと根源的な心の特質であ
り、人間の本質は愛であって世界の根源も愛であると素直に同意することなのだ。
●親鸞臨終のシーンは本戯曲のクライマックスである。やっと放蕩息子の善鸞が
帰ってきて、どうか親不孝を許してほしいと願う。
悪の根源は悪魔であると言い、地上の諸問題の責任を仏(神)に負わせないように
している。人間は、仏(神)の属性に似せて造られた仏(神)の子であるので、本来、
慈愛や公正や知恵を持ち、祝福されているという話は、聖書の教えそのものだ。
●しかし放蕩息子の善鸞は、自分は仏の慈愛に値しない人間だと言う。
親鸞は当初、悪人を裁く地獄があるのは当然だとする信仰があり、だから放蕩息
子の善鸞に「信じると言ってくれ」「私に安心を与えてくれ」と頼むのだが、そ
の願いを良心的な息子に拒否され、しばし黙想したあと、《不信仰でも悪人でも
それでも人はみな救われている》という深い洞察に到達して、平安のうちに死ぬ。
イエスの有名な『放蕩息子の例え』と違うのは、その話では、悔い改めた放蕩息
子(人類)を 優しい父親(神)が快く許すラストになっているが、この親鸞の話では、
息子はいまだ仏を拒否していても、すでに赦されているという結末になっている。
親鸞最期の「それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善い、調和した世
界じゃ」は最高潮を成す言葉だ。キリスト教では、悪魔が居る限り、この世界に
は救いがないのだから、ここが全く違う。百三は精神世界的な信仰を持っている。
___________________
親鸞が言うように、人の平和は、最も遠く、しかし最も心の内にあるものです。
その平安は、世界を統御している愛と善良さを信じることから生じます。
人間は本当は、愛はもちろん、世界を善くする知恵も能力も十分に持っています。
自由意思を行使して、善いことを選択すれば、誰でも善いことができるのです。
問題は多々あっても、今もなお世界の本質は善いものであり、調和しています。
そう信じれば、信じるように実際になれると思いますね。
※画像はフリー画像(Pixabay)を借用。
―――――――――――――――――――――――――――――――