倉田百三『出家とその弟子』と精神世界との調和性(後編)a | barsoのブログ

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倉田百三『出家とその弟子』 

この戯曲は、親鸞の教えを下敷きにした “信仰と救い” についての話ですが、 

著者の意識が、仏教とキリスト教を超えて、精神世界へと大きく拡大しています。 

 

今回は、地獄があっても人間は救われるのなら、 

その根拠はあるのか?という疑問から始まります。

 

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非常に面白いので、未読の方は一読を勧めますが、(→青空文庫)  

時間のない方はバーソが引いた下線部の本文だけでもどうぞ。

 

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●修行僧の一人が科学的思考に基づく当然の疑問を親鸞に訊ねる。

同行一 ただ一つ私にお聞かせください。その念仏して浄土に生まれるというのは何か証拠があるのですか。 
親鸞 信心には証拠はありません。証拠を求むるなら信じているのではありません(一気に強く)弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の教説 虚言ではありますまい。釈尊の教説 虚言ならずば、善導の御釈偽りでございますまい。善導の御釈 偽りならずば法然聖人の御勧化(ごかんげ)よも空言(そらごと)ではありますまい。(間)いや たとい法然聖人にだまされて地獄に堕ちようとも私は恨みる気はありません。私は弥陀の本願がないならば、どうせ地獄のほかに行く所は無い身です。どうせ助からぬ罪人ですもの。・・・私は何もかもお任せするものじゃ。私の希望、いのち、私そのものを仏様に預けるのじゃ。どこへなとつれて行ってくださるでしょうよ。 (一同しばらく沈黙) 
同行一 私は恥ずかしい気がいたします。私の心の浅ましさ、証拠が無くては信じないとはなんという卑しい事でございましょう。

※釈尊はインドの釈迦。善導は浄土思想を確立した中国の僧。法然は鎌倉時代の僧で浄土宗の開祖。 

 

以前教団に所属していた時、集会に来た新しい人から、救いの福音が本当じゃな 

かったら補償してもらえるのですかと聞かれたことがある。信仰の生活は損得で 

するものではない。それが正しいと思うから、そしてまた好きだからするのだが。 

 

救いがないなら、死んだら終わりか、地獄に堕ちるかの二者択一。証拠があれば 

信仰は要らない。信仰は、宇宙の善良さを素直に信じる心の上に成り立っている。

 

                   

 

●親鸞最期のときに、救われた人は美しい死に方をするのかを述べる。

親鸞 だから皆よくおぼえておおき、臨終の美しいということも救いの証ではないのだよ。わしのように、こうして柔らかな寝床の上で、ねんごろな看護を受けて、愛する弟子たちにかこまれて、安らかに死ぬことができるのは、恵まれているのだよ。・・・だが、世にはさまざまな死に方をする人があることを忘れてはならないよ。刀で斬られて死ぬ人もある。火の難、水の難で死ぬ人もある。飢えと凍えで路傍にゆき倒れになるものもある。

 

臨終の美しさは救いの証明ではないとの意味は、神仏を信じてもすべては順調に 

いかない。病気にもなり、事故にも遭うという意味だ。人が何かの行動をすれば、 

何かの結果が伴ってくる。高速道路で無茶をすれば事故死に遭うこともあり得る。

 

                   

 

●親鸞は、救われる秘訣について説明する。

親鸞 だがそのような浅ましい臨終はしても、仏様を信じているならば、助けていただく事はたしかなのじゃ。救いは機にかかわらず確立しているのじゃ。信心には一切の証はないのじゃ。これがわしが皆にする最後の説教じゃ。わしがこれを言うのは人間の心ほど成心(じょうじん)を去って素直になりにくいものはない事をよく知っているからじゃ。素直な心になってくれ。ものごとを信ずる明るいこころになってくれ。信じてだまされるのは、まことのものを疑うよりどれほどまさっているだろう。なぜ人間は疑い深いのであろう。長い間 互いにだましたり、だまされたりし過ぎたからだ。・・・信じてくれ、仏様の愛を、そして善の勝利を。

 

先日ノーベル賞を受賞した本庶佑博士のモットーは「好奇心と常識を疑うこと」。 

固定的観念には縛られないほうがいいが、信仰とはもっと根源的な心の特質であ 

り、人間の本質は愛であって世界の根源も愛であると素直に同意することなのだ。

 

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●親鸞臨終のシーンは本戯曲のクライマックスである。やっと放蕩息子の善鸞ぜんらんが 

帰ってきて、どうか親不孝を許してほしいと願う。

親鸞 (目を開き善鸞の顔を見る)おゝ、善鸞か。(身を起こそうとしてむなしく手を動かす) 
侍医 (制する)おしずかに。 
善鸞 (涙をこぼす)会いとうございました……ゆるしてください。わたくしは………… 
親鸞 ゆるされているのだよ。だあれも裁くものはない。 
善鸞 わたくしは不孝者です。 
親鸞 お前はふしあわせだった。 
善鸞 わたしは悪い人間です。わたしゆえに他人がふしあわせになりました。わたしは自分の存在を呪います。 
親鸞 おゝ おそろしい。われとわが身を呪うとは、お前自らを祝しておくれ。悪魔が悪いのだ。お前は仏様の姿に似せてつくられた仏の子じゃ。

 

悪の根源は悪魔であると言い、地上の諸問題の責任を仏(神)に負わせないように 

している。人間は、仏(神)の属性に似せて造られた仏(神)の子であるので、本来、 

慈愛や公正や知恵を持ち、祝福されているという話は、聖書の教えそのものだ。 

 

●しかし放蕩息子の善鸞は、自分は仏の慈愛に値しない人間だと言う。

善鸞 もったいない。わたしは多くの罪をかさねました。 
親鸞 その罪は億劫(おっこう)の昔 阿弥陀様が先に償うてくだされた……ゆるされているのじゃ、ゆるされているのじゃ。(声細くなりとぎれる。侍医眉をひそめる)わしはもうこの世を去る……(細けれどしっかりと)お前は仏様を信じるか。 
善鸞 ………… 
親鸞 お慈悲を拒んでくれるな。信じると言ってくれ……わしの魂が天に返る日に安心をあたえてくれ…… 
善鸞 (魂の苦悶くもんのためにまっさおになる) 
親鸞 ただ受け取りさえすればよいのじゃ。 (一座緊張する。勝信は顔青ざめ、目を火のごとくにして善鸞を見ている) 
善鸞 くちびるの筋が苦しげに痙攣けいれんする。何か言いかけてためらう。ついに絶望的に)わたしの浅ましさ……わかりません……きめられません。(前に伏す。勝信の顔ま白になる) 
親鸞 おゝ。(目をつむる)・・・(かすかにくちびるを動かす。苦悶の表情顔に表わる。やがてその表情は次第に穏やかになり、ついにひとつの静かなる、恵まれたるもののみの持つ平和なる表情にかわる。小さけれどたしかなる声にて)それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善い、調和した世界じゃ(この世ならぬ美しさ顔に輝きわたる)おゝ平和! もっとも遠い、もっとも内の。なむあみだぶつ。 
侍医 もはやこときれあそばしました。

 

親鸞は当初、悪人を裁く地獄があるのは当然だとする信仰があり、だから放蕩息 

子の善鸞に「信じると言ってくれ」「私に安心を与えてくれ」と頼むのだが、そ 

の願いを良心的な息子に拒否され、しばし黙想したあと、《不信仰でも悪人でも 

それでも人はみな救われている》という深い洞察に到達して、平安のうちに死ぬ。 

 

イエスの有名な『放蕩息子の例え』と違うのは、その話では、悔い改めた放蕩息 

子(人類)を 優しい父親(神)が快く許すラストになっているが、この親鸞の話では、 

息子はいまだ仏を拒否していても、すでに赦されているという結末になっている。 

 

親鸞最期の「それでよいのじゃ。みな助かっているのじゃ……善い、調和した世 

界じゃ」は最高潮を成す言葉だ。キリスト教では、悪魔が居る限り、この世界に 

は救いがないのだから、ここが全く違う。百三は精神世界的な信仰を持っている。

 

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親鸞が言うように、人の平和は、最も遠く、しかし最も心の内にあるものです。 

その平安は、世界を統御している愛と善良さを信じることから生じます。 

 

人間は本当は、愛はもちろん、世界を善くする知恵も能力も十分に持っています。 

自由意思を行使して、善いことを選択すれば、誰でも善いことができるのです。 

 

問題は多々あっても、今もなお世界の本質は善いものであり、調和しています。 

そう信じれば、信じるように実際になれると思いますね。 

 

 

※画像はフリー画像(Pixabay)を借用。 

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