世の中で怖いものは地震・雷・火事・親父と言われますが、この中で一番は、
火事でしょうかね。なんたって衣食住がそっくり無くなってしまうんですから。
でも、火事を喜ぶ珍しい人もいたようですよ。
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「ちわ~、ご隠居。どっかで威勢のいい話がねえですかね。家がボーボー燃えて
るとか」
「熊さんか、久しぶりじゃないか。しかしまあ、おまえさんは火事が好きだねえ。
良秀(りょうしゅう)みたいだな」
「漁師の衆?」
「いや、鎌倉時代の『宇治拾遺物語』の中に良秀という絵仏師がいて、自分の家
が燃えたときに、一切なにも持ち出さず、妻や子供を助けようともせず、燃え盛
る火をうっとり恍惚の顔で眺めていたという話がある」
「へえ、物の怪(け)でも憑(つ)いたんですかね」
「うむ、近所の人も不思議に思って聞いたら、良秀は『じつは長年の間、まこと
に不動明王の火炎を下手に描いてきたものだ。いま本物の火事を見て、ようやく
炎がこのように燃えると得心した。だから大変な儲けものをした』と言ったそう
だよ」
「へえ、絵師というのは、家よりも絵を描くのが一番大事なんだ」
青不動明王
「この話を下敷きにして芥川龍之介が小説を書いている。良秀(りょうしゅう) の名
を『よしひで』と読ませているが、良秀は、炎熱地獄の屏風絵を描く際に、どう
しても描けないものが一つあった。それは燃え盛る牛車に乗ったあでやかな女が
猛火の中で黒髪を乱しながら悶え苦しむ絵だ」
「うわ~、あでやかな女がもだえるんですか」
「やはり、そこに反応するか。ま、良秀はな、自分の目で見てないものは描けま
せんと言って大殿にお願いしたら、大殿は『地獄を描こうとすれば、地獄を見な
ければなるまいな。その方が申す通りに致して遣わそう』と言って、後日、実際
に火の粉が舞い上っ て燃え上がる牛車を良秀に見せた」
「見せたって、女が乗ってるんでしょ」
「そうだ。ところが、その女は、良秀の最愛の娘だった」
「ああーっ、まさか、良秀は絵を描くために、自分の娘が燃えているのをじっと
眺めていたんじゃねえでしょうね」
「うむ、良秀は、苦し気に顔を引きつらせ、唇を歪め、食い入るような眼つきで、
なかば恍惚の法悦状態になって、燃える牛車の娘を見つめていたが、その姿には
人間とは思えない怪しげな厳かさがあった。そうして後日、地獄の責め苦を描い
た入魂の屏風絵を完成させ、大殿や皆を感嘆させた。だが良秀は次の夜には首を
吊っている」
「すごい話ですね。でも、大殿も悪党だわー」
「大殿は良秀の娘に言い寄ったが振られたので、根に持っている。そしてじつは、
この出来事の何日か前に、良秀がその大殿の悪夢――予言的な夢だがな――を見
て寝言を言っているが、それが分かりにくくて面白いぞ。熊さん、ちよっと考え
てみなさい。『己』と『貴様』は、それぞれ誰なのか」
「なに、己(おのれ)に来いと云ふのだな。――どこへ――どこへ来いと?
奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。――誰だ。さう云ふ貴様は。――貴様は誰だ
――誰だと思つたら、――うん、貴様だな。己も貴様だらうと思つてゐた。
なに、迎へに来たと? だから来い。奈落へ来い。奈落には――奈落には己
の娘が待つてゐる。待ってゐるから、この車へ乗つて来い――この車へ乗つ
て、奈落へ来い――」
「ご隠居、『己』とは自分のことだから良秀で、ならば『貴様』は大殿。奈落に
いる大殿が、娑婆にいる良秀を迎えに来たんじゃねえんですか」
「そう読むのが素直かな。だがそうだと、大殿が奈落に居ることになるが、実際
には大殿は良秀と娘が死んだ後も生きているので、ちっと矛盾があるな。だから、
ここは逆に考えられる。つまり『己』は大殿、『貴様』は良秀。奈落に居る良秀 が、
娑婆にいる大殿を迎えに来ている」
「そうか。良秀は、娘を殺した大殿が憎くて、死なせたいんだ」
「だがそうだと、夢の中で『己』と言っている人間が、自分ではなくて他人の大
殿だというのが気になる。だから他の解釈は、『己』は良秀で、『貴様』は奈落
から迎えに来た使者とも考えられる。この場合は、夢の意味は良秀がやがて死ん
で奈落に行く運命を表しているだけになるのが、ちっと面白くないがな」
「はあ、難しいもんですね。しかしですよ、ご隠居。どっちにしても、変なのは、
良秀の娘は別に悪いことはしてねえのに、奈落に居るってえのはどうしても合点
がいかねえ。変だ」
「そうだ、変だなあ。だから、この小説を『地獄変』※という」
私考―――――――――――――――――――――――――――――――――
この小説は、主人公である良秀の《芸術の完成のためにはいかなる犠牲もいとわ
ない》姿勢が、芥川自身の芸術至上主義と絡めて論じられることが多いようです。
良秀は大作『地獄変』を完成させた次の夜、梁に縄をかけて首をくくっています。
もちろん自分の娘を死なせた後悔と自責の念もあったでしょうが、もうこれ以上
の絵は描けない、己の芸術の極限を極めたという思いもあったのかもしれません。
この良秀を芥川自身とみなすなら、どうでしょう。あれほどの知性を持った人が、
35歳という若さで、敗北死や無駄死にをするはずがありません。文学という芸術
のためには大いに苦闘したが、自分の才能を見極めたと思えたときには歓悦状態
になり、もうここまで生きれば十分だという心境になったとは考えられませんか。
そうなら、人は死んだら地獄に行くのか天国に行くのか、その「将来に対する唯
ぼんやりとした不安」が芥川にはあり、その真実を自分の目で実際に見て知るた
めにあの世に行ったのではないか。それに芥川は「人生は地獄よりも地獄的であ
る」とも書いていて、この世のことには未練が無さそうだし・・・と、ふと思っ
た程度の話ですが、『神との対話』の著者ニール・D・ウォルシュは「人は誰で
も自分で死ぬ時を定めている」つまり課題を終了して死んでいると言っています。
※地獄変は、地獄変相の略。亡者(もうじゃ)が地獄で様々な苦しみを受ける光景を描いた図。地獄絵。 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――